電波航法と軌道決定

測距・ドップラ・ΔDORで探査機の位置を測り、軌道を推定し、運用として回すための一冊 — CCSDS / JAXA 実務準拠。
第 II 部 観測量と観測方程式
レンジ・ドップラ・ΔDOR・光学。それぞれが状態空間のどの方向を拘束するのかを、観測方程式と偏微分の形まで下ろす。CCSDS/JAXAの実装もここで扱う。

第2.2章レンジ観測方程式

■ この章で学ぶこと
測距は「往復時間×光速÷2」ではない。地球は電波が往復する数十分のあいだに回り続け、 信号は真空でない媒質を通り、時空は曲がっている。本章では光行時間方程式から出発して 観測方程式を完全な形で書き下し、CCSDS PN測距の信号構成、 測距精度と要求 P_R/N_0 の関係式、電力配分、透過測距と再生測距の差、 そして較正までを扱う。第4部の推定に渡せる形にすることが目的である。

2.2.1 光行時間方程式 — 「距離」とは何と何の距離か

2-way測距では3つの時刻が登場する。地上局が測距信号を送信した時刻 t_1、探査機が折り返した時刻 t_2、 地上局が受信した時刻 t_3 である。火星距離では t_3 − t_1 が20〜40分に達するから、 その間に地球は数百度ぶん自転し、局は数百km動く。t_1 の局位置と t_3 の局位置は別の点である。 したがって「距離 ρ」という言い方は、それだけでは定義になっていない。

正しくは、次の2本の陰関数方程式(光行時間方程式)で定義される。

c·(t_2 − t_1) = |r_{sc}(t_2) − r_{st}(t_1)| + Δ_{up} c·(t_3 − t_2) = |r_{st}(t_3) − r_{sc}(t_2)| + Δ_{down}

ここで r_st は局位置、r_sc は探査機位置、Δ は媒質・相対論による経路延長である (第3部で扱う)。観測される量は t_3 − t_1 と、機上の折返し遅延 τ_tr であり、 観測量としての測距値は次で定義される。

ρ_{obs} = \frac{c·\big[(t_3 − t_1) − τ_{tr}\big]}{2}

この ρ_obs は幾何学的な距離そのものではなく、2本の経路長の平均である。 推定の側でこれと同じものを計算しなければ、系統誤差になる。

2.2.2 光行時間方程式を解く

上の2式は t_2 について陰であり、反復で解く。順序が重要で、下りを先に解く。 観測されるのは t_3(受信時刻)だからである。

τ_{down}^{(0)} = 0 τ_{down}^{(k+1)} = \frac{|r_{st}(t_3) − r_{sc}(t_3 − τ_{down}^{(k)})|}{c} + \frac{Δ_{down}}{c}

これで t_2 = t_3 − τ_down が定まる。次に上りを同じ形で後ろ向きに解いて t_1 を得る。 収束は速い。反復1回ごとに誤差は概ね (v_rel/c) 倍に縮むので、探査機の視線速度が30 km/sでも 1回で10⁻⁴、2回で10⁻⁸、3回でほぼ丸め誤差に達する。 実装では3回固定か、変化量が1 psを下回るまで、とすればよい。

【実装上の注意】 反復の中で r_sc を評価する時刻は毎回変わる。 軌道は数値積分された離散点として持っているのが普通なので、補間の精度が光行時間の精度を直接決める。 探査機速度30 km/sで補間誤差1 msなら30 mの誤差になる。積分ステップの出力間隔とラグランジュ補間の次数は、 要求測距精度(cm級)から逆算して決めること。1 cmを守るには時刻誤差0.3 µs以下、 つまり60秒間隔の出力なら7次以上の補間が要る。

2.2.3 観測方程式の完全形 — 補正項をすべて並べる

推定に使う観測方程式は、幾何項に補正項をすべて足した形である。 「どれを入れ、どれを落としたか」を明示的に管理することが、系統誤差を制御する唯一の方法である。

ρ_{calc} = \frac{1}{2}\big[|r_{sc}(t_2) − r_{st}(t_1)| + |r_{st}(t_3) − r_{sc}(t_2)|\big] + δ_{tropo} + δ_{iono} + δ_{plasma} + δ_{rel} + δ_{st} + δ_{sc} + b_{st}
中身典型的な大きさ扱い本書の該当章
δ_tropo対流圏遅延(乾燥+湿潤)天頂2.3 m / 仰角10°で13 m気象データで較正、残差は推定第3.1章
δ_iono電離層遅延X帯で0.1〜2 m二周波較正 or TECマップ第3.2章
δ_plasma太陽コロナSEP角に強依存。合近傍で数百m以上Ka帯化・追跡停止第3.3章
δ_relShapiro遅延・座標時変換数十m(太陽近傍では数百m)必ずモデルで入れる第3.4章
δ_st局の機器遅延(送受の群遅延)数百ns〜µs(=数十〜数百m)ゼロ点較正で実測第5.6章
δ_sc機上折返し遅延 τ_tr数百ns〜µs、温度依存あり地上試験で取得、温度モデル本章2.2.9
b_st局ごとの残存バイアス数十cm〜数m推定するか consider にする第4.6章・第5.6章

桁を見てほしい。幾何以外の項の合計は、測距の測定精度(10 cm級)より2〜3桁大きい。 測距が「精密な観測量」であるのは、これらを較正しきったあとの話である。 精度の議論を測定器の性能だけでするのは、この表を見ていないということになる。

2.2.4 測距信号の構成 — CCSDS PN測距

測距信号に求められるのは相反する二つで、精密さ(位相を細かく読める=高い周波数成分が要る)と 一意性(どのサイクルかが決まる=長い周期が要る)である。 現行標準の CCSDS PN測距(CCSDS 414.1-B)は、周期の異なる6本の短い二値符号を 重み付き多数決で1本に合成することで、この二つを同時に満たす。

成分符号の周期は 2, 7, 11, 15, 19, 23 チップ。互いに素だから、合成符号の周期は積になる。

L = 2×7×11×15×19×23 = 1\,009\,470 チップ

周期2チップの成分 C_1 はチップレートの半分の方形波であり、これがレンジングクロックとして精度を担う。 残る C_2〜C_6 があいまい解決を担う。これは中国剰余定理を電波でやっているのと同じことで、 各成分符号との相関から得た位相(=各周期での剰余)が揃う点が、周期 L の中で一意に決まる。

f_{RC} = \frac{R_{chip}}{2}, ρ_{amb} = \frac{c·L}{2·R_{chip}} = \frac{c·L}{4·f_{RC}}
【例2.2-1】あいまい範囲 R_chip = 2.0 Mcps とすると f_RC = 1.0 MHz、 ρ_amb = 3×10⁸ × 1 009 470 /(2 × 2×10⁶) ≈ 7.6×10⁷ m = 約7.6万km。 一方クロック単独のあいまい範囲は c/(4 f_RC) = 75 m。 75 mの精密さと7.6万kmの一意範囲を、同時に1本の信号で成立させている。 予報軌道が7.6万kmより良ければ(深宇宙では常にそうである)、距離は完全に一意に決まる。

電力配分には2種類の標準符号がある。T4B はクロック成分 C_1 に電力の約88%を集中させ、 測距精度を優先する。T2B は C_1 を約39%に抑えて成分符号に配り、捕捉時間を優先する。 巡航中の弱いリンクでは T4B、素早い再捕捉が要る場面では T2B、というのが選択の基準になる。

成分符号の並び・重み・T4B/T2B の正確な電力配分係数 ξ_n は CCSDS 414.1-B の表から直接転記すること。本文の百分率は設計初期の目安である。 またJAXAの局・トランスポンダがどの符号系をどのチップレートで支援するかは、 対象システムのICDで確認すること。

2.2.5 精度の理論限界と、要求 P_R/N_0

ここが本章の中心である。測距精度は測定器の巧拙ではなく、推定理論の下限で決まる。

受信した測距信号と局内の参照波形の相関を時間 T だけ積分する。信号成分は毎瞬同じ向きに積み上がるので 振幅は T に比例して育ち、雑音は向きがランダムだから √T でしか育たない。 積分後のSNRは (P_R/N_0)·T まで改善する。位相誤差は「信号ベクトルに直交する向きの雑音」を 「信号の長さ」で割ったものであり、雑音のうち直交成分に効くのは半分だから

σ_{φ} = \frac{1}{\sqrt{2·(P_{R}/N_{0})·T}} [rad]

となる。これはクラメール・ラオ下限に一致しており(第4.9章で一般論として扱う)、 これ以上うまい測り方は原理的に存在しない。位相を距離に直すと、 2-way(往復で位相が2倍積算される)だから

σ_{ρ} = \frac{c}{4π f_{RC}}·σ_{φ} = \frac{c}{4π f_{RC}\sqrt{2·(P_{R}/N_{0})·T}}

実務でよく要るのは逆向きの式である。目標測距精度 σ_ρ を達成するのに必要な P_R/N_0

\frac{P_{R}}{N_{0}} = \frac{1}{2T}\left(\frac{c}{4π f_{RC} σ_{ρ}}\right)^{2}
【例2.2-2】要求 P_R/N_0 を出す f_RC = 1 MHz、積分時間 T = 60 s、目標 σ_ρ = 10 cm のとき
c/(4π f_RC σ_ρ) = 3×10⁸/(4π×10⁶×0.1) = 238.7
P_R/N_0 = 238.7²/(2×60) = 474.7 → 26.8 dBHz
同じ条件で σ_ρ = 1 cm を狙うと 100倍、つまり 46.8 dBHz が要る。 精度を1桁上げるには測距電力を20 dB増やすか、積分時間を100倍にするか、クロックを10倍にするしかない。 これが「測距精度は簡単には上がらない」ことの数学的な理由である。

この式は設計会議でそのまま使える。測距要求が「10 cm」と言われたら、 リンクバジェット側に 26.8 dBHz を要求として渡し、 それが成立しないなら「積分時間を延ばす」「クロックを上げる」「要求を緩める」の三択になる。 積分時間を延ばす選択は、探査機の加速度によって位相が曲がる(コヒーレンス時間の限界)ので無限には伸びない。

2.2.6 変調指数と電力配分 — 測距に何割渡すか

P_R は総受信電力 P_T のうち測距に配分された分である。配分は位相変調指数で決まり、 ここが通信系設計者と航法担当が正面からぶつかる場所になる。

測距変調が方形波(PN測距はこちら)で変調指数 θ_R のとき、残留搬送波と測距の電力比は

\frac{P_{C}}{P_{T}} = \cos^{2}θ_{R}, \frac{P_{R}}{P_{T}} = \sin^{2}θ_{R}

正弦波測距(トーン測距)ではベッセル関数になる。

\frac{P_{C}}{P_{T}} = J_{0}^{2}(θ_{R}), \frac{P_{R}}{P_{T}} = 2J_{1}^{2}(θ_{R})

テレメトリ副搬送波も同時に載せる場合は、それぞれの因子の積になる (各変調が独立に電力を取り分ける)。

\frac{P_{C}}{P_{T}} = \cos^{2}θ_{R}·J_{0}^{2}(θ_{D}), \frac{P_{R}}{P_{T}} = \sin^{2}θ_{R}·J_{0}^{2}(θ_{D})

ここに三すくみが生じる。残留搬送波は受信機PLLがロックを保つのに要り、 テレメトリはデータを運ぶのに要り、測距は航法に要る。総電力は一定である。 測距変調指数を上げると、必ず搬送波かテレメトリのどちらかが痩せる。

【例2.2-3】配分の実際 θ_R = 0.5 rad(方形波)、テレメトリ副搬送波 θ_D = 1.0 rad のとき
P_C/P_T = cos²(0.5)·J₀²(1.0) = 0.770 × 0.586 = 0.451(−3.5 dB)
P_R/P_T = sin²(0.5)·J₀²(1.0) = 0.230 × 0.586 = 0.135(−8.7 dB)
総受信電力が P_T/N_0 = 36 dBHz なら P_R/N_0 = 27.3 dBHz。 例2.2-2の要求26.8 dBHzをかろうじて満たす。マージンは0.5 dBしかない。 仰角が下がるか降雨があれば、その瞬間に測距要求は割れる。 第5.1章で扱う「いつRARRを取るか」は、このマージンの時間変化を見る作業でもある。

実務では、測距を打つパスと打たないパスを分けるのが普通である。 測距中はテレメトリレートを一段落とす、という運用がよく取られる。 この判断はリンクバジェットの問題ではなく、航法要求との調停である。

2.2.7 透過測距と再生測距 — 上りの雑音をどう扱うか

探査機が測距信号をどう折り返すかで、達成できる精度が大きく変わる。

透過測距(transparent / turn-around ranging)は、受信した測距変調をそのまま位相を保って 下りに載せ直す。実装は単純だが、上りで乗った雑音も一緒に増幅して送り返す。 機上受信の測距 SNR を (P_R/N_0)_up、下りのそれを (P_R/N_0)_down とすると、 地上での実効的な測距 SNR は概ね

\left(\frac{P_{R}}{N_{0}}\right)_{eff} = \left[\left(\frac{P_{R}}{N_{0}}\right)_{up}^{-1} + \left(\frac{P_{R}}{N_{0}}\right)_{down}^{-1}\right]^{-1}

という直列合成になる。上りが弱ければ、下りをいくら強くしても実効SNRは上がらない。 深宇宙では上りの電力は地上局の送信電力(数十kW)で稼げるが、 機上受信アンテナは小さく、機上の系雑音温度は数百K〜千K級なので、 上りが律速することは珍しくない。

再生測距(regenerative ranging)は、機上で測距符号を復元してから作り直して送り返す。 符号が既知の二値系列であることを使うので、上りの雑音は復元の段階で断ち切られる。 その結果、地上での測距 SNR は下りだけで決まる。

\left(\frac{P_{R}}{N_{0}}\right)_{eff} ≈ \left(\frac{P_{R}}{N_{0}}\right)_{down}

上りが律速している状況では、これは数dBから状況によっては10 dB以上の改善になる。 代償は機上の複雑さ(符号追尾ループを載せる)と、 再生の追尾ループがロックを失うと測距そのものが止まるという運用上の脆さである。 CCSDS 414.1-B は再生測距を前提とした符号系を規定している。

Q. 再生測距なら上りは弱くてよいのか?
A. いいえ。上りの測距 SNR は「復元できるか」の閾値を割ってはならない。 閾値を超えていれば上りの雑音は伝わらない、という非線形な効きかたをする。 透過測距が「上りの弱さが精度として連続的に効く」のに対し、 再生測距は「閾値までは全く効かず、割ると全く測れない」。 運用としてはマージンの持ち方が変わる。
Q. 折返し遅延 τ_tr は透過と再生で違うのか?
A. 違う。透過はアナログ経路の群遅延そのもの、 再生は符号追尾ループの処理遅延が支配的で、しかもチップ単位の量子化を含むことがある。 どちらも地上試験で実測し、温度依存を取る必要がある(2.2.9)。

2.2.8 あいまい解決と捕捉時間

測距を「打つ」と決めてから距離が出るまでには時間がかかる。 各成分符号の位相を推定するのに必要な時間が積み上がるからである。 成分 n に配分された電力比を ξ_n² とすると、その成分の相関SNRは ξ_n²·(P_R/N_0)·T_n で育つ。 必要な検出確率を満たす T_n を各成分について求め、合計したものが捕捉時間になる。

設計上の含意は単純で、T4B(クロックに集中)は精度が良いが捕捉が遅く、T2B は逆である。 巡航中のように「1パスで1点取れればよい」場面では T4B、 軌道投入直後のように「早く距離が欲しい」場面では T2B、という使い分けになる。

なお、深宇宙では予報軌道の不確かさがあいまい範囲(例2.2-1で7.6万km)よりずっと小さいため、 あいまい解決は「保険」であって主役ではない。 あいまい解決が本当に効くのは、長期間追跡が途切れたあとの再捕捉や、 予期しないマヌーバがあった直後である。

2.2.9 較正 — ゼロ点、機上遅延、局遅延

2.2.3の表で見たとおり、測距バイアスは測距精度より2桁大きい。 したがって較正の質が測距の質である

局側(ゼロ点較正)。局内で送信信号を受信系に折り返し、 「距離ゼロ」に対応する測距値を実測する。これを実観測から差し引く。 折返し点をどこに取るかで何が較正できるかが変わり、 アンテナ給電部で折り返せばほぼ全経路が入るが、実施は容易でない。 詳しくは姉妹書『地上局工学』第6.7章で扱う。

機上側(折返し遅延 τ_tr)。トランスポンダの群遅延を地上試験で実測する。 重要なのは温度依存で、機上機器の温度は太陽距離と姿勢で数十K変わる。 群遅延の温度係数が 1 ns/K なら、50 Kの変動で 50 ns = 7.5 m の測距バイアス変動になる。 これは無視できない。温度テレメトリと対応づけたモデルを作り、観測方程式に入れるのが正しい。

【現場で効く区別】群遅延と位相遅延 測距が測っているのは変調の包絡線の遅れ、つまり群遅延である。 一方ドップラが測っているのは搬送波位相の変化、つまり位相遅延の時間微分である。 分散性の媒質(電離層・太陽プラズマ)では両者は符号すら逆になる(第3.2章)。 したがって「測距に効く補正」と「ドップラに効く補正」は別物であり、 同じ Δ を両方に足すのは誤りである。

2.2.10 残差に現れる系統誤差の顔

推定を回したあと、レンジ残差の形から原因を推測できるようになると、現場での切り分けが速くなる。

残差の見え方疑うべき原因確認方法
一定オフセット(全局・全パス)機上折返し遅延の見積り誤りτ_tr を推定パラメータに入れて再解
局ごとに違う一定オフセット局ゼロ点較正の誤り、局位置誤差3-way観測で局間バイアスを分離(第5.6章)
仰角と相関する形対流圏モデルの不足仰角 vs 残差でプロット、マッピング関数を疑う
1日周期の正弦局位置誤差、UT1/極運動、時刻タグドップラ残差にも同じ周期が出るか確認
ゆっくりしたドリフト機上温度依存、非重力力のモデル誤差温度テレメトリと相関を取る、第1.5章へ
合の前後だけ増大太陽プラズマSEP角 vs 残差(第3.3章)
飛び(1サイクル分)あいまい解決の誤り飛び幅が c/(4f_RC) の整数倍か確認

最後の行は覚えておく価値がある。残差の飛びが c/(4 f_RC) の整数倍なら、それはあいまいさの取り違えである。 f_RC = 1 MHz なら 75 m の整数倍。物理でなくロジックの誤りなので、力学モデルをいじっても直らない。

2.2.11 偏微分 — 第4部へ渡す

推定に使うには、観測量のエポック状態に対する偏微分が要る。 レンジの場合、幾何項の探査機位置に対する偏微分は視線方向の単位ベクトルそのものである。

\frac{∂ρ}{∂r_{sc}} ≈ \frac{1}{2}\big(\hat{u}_{up} + \hat{u}_{down}\big) ≈ \hat{u}

û は局から探査機へ向かう単位ベクトル。上りと下りで û はわずかに違う(地球自転のぶん)が、 偏微分の精度としては平均で足りることが多い。エポック状態への引き戻しは状態遷移行列を噛ませて

H_{ρ} = \frac{∂ρ}{∂x(t)}·Φ(t, t_{0})

とする。詳細は第2.7章。ここで重要なのは、レンジがû方向、つまり視線方向しか拘束しないという事実である。 視線に直交する2方向(横方向)については、レンジ観測はほとんど情報を持たない。 これがΔDOR(第2.4章)と光学航法(第2.5章)が必要になる理由であり、 同時にドップラが地球自転を使って横方向情報を絞り出す(第2.3章)理由でもある。

■ この章のまとめ
  • 測距値は幾何距離ではなく、上り経路長と下り経路長の平均。光行時間方程式を反復で解いて定義する
  • 幾何以外の補正項の合計は、測定精度より2〜3桁大きい。較正の質が測距の質を決める
  • CCSDS PN測距は周期 2,7,11,15,19,23 の6成分を合成し、L = 1 009 470 チップの一意範囲を作る。C_1 が精度、C_2〜C_6 があいまい解決
  • 精度の下限は σ_ρ = c /(4π f_RC √(2(P_R/N_0)T))。要求は P_R/N_0 = (c/(4π f_RC σ_ρ))²/(2T) で逆算できる
  • 精度を1桁上げるには測距電力20 dB増、積分時間100倍、クロック10倍のいずれかしかない
  • 電力配分は搬送波・テレメトリ・測距の三すくみ。測距指数を上げれば必ず他が痩せる
  • 透過測距は上りSNRと下りSNRの直列合成、再生測距は下りだけ。上りが律速する場面では再生が大きく効く
  • レンジは視線方向しか拘束しない。横方向はΔDOR・光学・地球自転署名に頼る
本章の CCSDS 414.1-B に関する記述(成分符号の重み、T4B/T2B の電力配分、 チップレートの規定値、再生測距の閾値条件)は、必ず標準原文書の該当表から転記して確認すること。 またJAXAの地上局・トランスポンダの支援範囲(対応チップレート、再生測距の可否、 τ_tr の実測値と温度係数)は対象システムのICDおよび試験成績書に拠ること。

第2.3章ドップラ観測方程式

■ この章で学ぶこと
深宇宙軌道決定の主力観測量。ドップラは「周波数の測定」ではなく位相のカウントであり、 その実体は差分レンジである。この見方に立つと、精度の式も、積分時間の設計も、 なぜ発振器の安定度が支配的になるのかも、一本で理解できる。 さらに地球自転がドップラに刻む1日周期の署名から、 なぜ視線方向しか測っていないはずのドップラで赤経・赤緯が決まるのかを導く。

2.3.1 ドップラ観測量の正体 — 位相カウントであること

地上局のドップラ抽出器が出力するのは瞬時周波数ではない。 基準周波数と受信周波数の差を、指定した計数区間 T_c にわたって積分したサイクル数である。

N_{c} = \int_{t_{a}}^{t_{b}} \big[G·f_{tx} − f_{rx}(t)\big]\,dt, T_{c} = t_{b} − t_{a}

ここで G はターンアラウンド比(2.3.2)。この積分に物理的な意味を与えると、見え方が一変する。 受信周波数は2-way経路長 S(t) = ρ_up + ρ_down の時間変化で決まるから f_rx = G f_tx (1 − Ṡ/c)、したがって

N_{c} = \frac{G·f_{tx}}{c}\int_{t_{a}}^{t_{b}}\dot{S}\,dt = \frac{G·f_{tx}}{c}\big[S(t_{b}) − S(t_{a})\big]

ドップラ観測量は、計数区間の両端における2-way経路長の差そのものである。 レンジがある瞬間の経路長を測るのに対し、ドップラは経路長の変化量を測る。 だから単位はサイクルであっても、実体は長さである。しかも搬送波の波長(X帯で3.6 cm)を 目盛りに使うので、測距クロック(1 MHzで300 m)よりはるかに細かい目盛りで測れる。 これがドップラが主力である理由である。

【この見方の効き目】 「ドップラは速度、レンジは位置」という理解では、なぜドップラだけで軌道が決まるのかが説明できない。 ドップラは差分レンジであると捉えれば、 ドップラを積み上げれば距離変化の履歴が復元でき、 そこに力学モデルを課せば軌道が決まる、と素直に理解できる。 唯一決まらないのは積分定数、つまり絶対距離である。だからレンジが要る。

2.3.2 ターンアラウンド比とコヒーレント2-way

探査機のトランスポンダは、受信した上り搬送波の位相に厳密に同期して下り搬送波を生成する。 比は有理数に固定されており、これをターンアラウンド比という。

上り / 下り比 G数値
S帯 / S帯240/2211.0859732110 MHz → 2291 MHz
X帯 / X帯880/7491.1749007150 MHz → 8401 MHz
S帯 / X帯880/2213.9819002110 MHz → 8400 MHz
X帯 / S帯240/7490.3204277150 MHz → 2291 MHz
X帯 / Ka帯3344/7494.4646197150 MHz → 31.92 GHz

比が有理数であることが本質的である。位相を保ったまま整数比で逓倍・分周できるので、 下り搬送波の位相は上り搬送波の位相の忠実な写しになる。 その結果、地上局の水素メーザ1台の安定度が、往復経路全体の位相基準になる。 これが「コヒーレント2-way」であり、深宇宙の精密ドップラを成り立たせている仕組みである。

2周波を同時に使う配置(X帯上り/X帯下り+Ka帯下り)が採られることがあるのは、 分散性媒質(電離層・太陽プラズマ)の較正のためである。第3.2章・第3.3章で扱う。

2.3.3 精度の理論限界と、要求 P_C/N_0

ドップラ精度も推定理論の下限で決まる。搬送波位相の測定精度は、測距と同じ形で

σ_{φ} = \frac{1}{\sqrt{2·(P_{C}/N_{0})·T_{c}}} [rad]

である(P_C/N_0 は残留搬送波の電力対雑音密度比。測距の P_R/N_0 とは別物)。 観測量は両端の位相差だから雑音は √2 倍になり、経路長差に直すと

σ_{ΔS} = \frac{c}{2π f_{D}}·\sqrt{2}·σ_{φ}, f_{D} = G·f_{tx}

平均距離変化率は ΔS/(2T_c) なので、最終的に

σ_{\dot{ρ}} = \frac{c}{4π f_{D}\sqrt{(P_{C}/N_{0})}·T_{c}^{3/2}}

という、実務でそのまま使える形になる。T_c の 3/2 乗で効くことに注意してほしい。 積分時間を4倍にすれば精度は8倍になる。測距(√T でしか効かない)よりずっと効率がよい。

逆に解いて、目標精度 σ_ρ̇ に必要な残留搬送波の要求は

\frac{P_{C}}{N_{0}} = \left(\frac{c}{4π f_{D}·σ_{\dot{ρ}}·T_{c}^{3/2}}\right)^{2}
【例2.3-1】熱雑音限界 f_D = 8.4 GHz、P_C/N_0 = 30 dBHz(= 1000)、T_c = 60 s のとき
4π f_D = 1.056×10¹¹、√1000 = 31.6、60^1.5 = 464.8
σ_ρ̇ = 3×10⁸ /(1.056×10¹¹ × 31.6 × 464.8) ≈ 0.19 µm/s
サブマイクロメートル毎秒。人が歩く速さの1億分の1である。

2.3.4 発振器安定度による床 — 実際にはここで止まる

例2.3-1の値は、実際には達成できない。周波数基準そのものの揺らぎが先に効くからである。

2-wayでは Δf/f = −2ρ̇/c だから、基準周波数に相対的な揺らぎ σ_y があると、 それはそのまま距離変化率の誤差に化ける。

σ_{\dot{ρ}}^{(osc)} = \frac{c}{2}·σ_{y}(τ)

ここで肝心なのはどの τ でのアラン偏差を使うかである。 素朴には計数区間 T_c と思いたくなるが、正しくない。 上り送信時刻 t_1 の基準位相と、下り受信時刻 t_3 の基準位相を比べているのだから、 基準が揺らいでよい時間スケールは往復光時間 RTLT である。 火星なら20〜40分、外惑星なら数時間になる。

【例2.3-2】どちらが支配するか 水素メーザの σ_y(60 s) ≈ 1×10⁻¹⁵、σ_y(1000 s) ≈ 1×10⁻¹⁵、σ_y(1時間) ≈ 2×10⁻¹⁵ 程度とする。 RTLT = 1時間の探査機なら
σ_ρ̇ (osc) = 1.5×10⁸ × 2×10⁻¹⁵ = 0.30 µm/s
これに対し例2.3-1の熱雑音限界は 0.19 µm/s。発振器の床のほうが大きい。
両者が等しくなる搬送波強度を求めると P_C/N_0 ≈ 26 dBHz。 深宇宙の通常運用では P_C/N_0 は 25〜40 dBHz なので、 ほとんどの場面でドップラ精度は熱雑音ではなく発振器で決まっている。

この結論は運用判断を変える。「ドップラ精度が足りない」という要求に対して、 送信電力を上げても大型局に替えても改善しない領域があるということである。 効くのは、より良い周波数標準、より長い計数区間、そして 媒質較正(第3部)と力学モデル(第1部)の改善のほうである。

なお非コヒーレント(1-way)ドップラでは、機上のUSOの安定度が直接効く。 USOの σ_y は10⁻¹²〜10⁻¹³ 級なので、2-wayより2〜3桁悪い。 機上原子時計(DSAC級、10⁻¹⁵)が意味を持つのはここである(第5.7章)。

2.3.5 計数区間の設計 — 短くすると何が起きるか

T_c は自由に選べる設計変数だが、両側から縛られる。

長くする方向の利益: 精度が T_c^{3/2} で改善する。データ量が減る。

長くする方向の損失: 区間内の加速度が平均されて潰れる。 マヌーバや短時間の異常加速度が見えなくなる。 区間内で ρ̈ が一定なら平均値は区間中央の瞬時値に等しいが、ρ⃛ が効くと偏る。

Δ_{smear} ≈ \frac{T_{c}^{2}}{24}·\dddot{ρ}
【例2.3-3】平滑化による偏り ρ⃛ = 10⁻⁸ m/s³(惑星周回機の典型)で T_c = 600 s とすると Δ = 600²/24 × 10⁻⁸ = 1.5×10⁻⁴ m/s = 150 µm/s。 精度0.3 µm/sの観測量に150 µm/sの偏りが乗る。これは致命的である。 同じ探査機でも T_c = 60 s なら 1.5 µm/s まで下がる。
巡航中(ρ⃛ が小さい)は T_c を長く、周回・近傍運用では短く、というのが原則である。

実務では複数の計数区間を並行して出す(10 s / 60 s / 600 s)のが普通で、 軌道決定側がフェーズに応じて選ぶ。短い区間から長い区間は後から合成できるが、逆はできない。 迷ったら短く取っておくのが安全である。

2.3.6 地球自転の署名 — ドップラだけで角度が決まる理由

ドップラは視線方向の情報しか持たないはずである。ではなぜドップラ単独で軌道が決まるのか。 答えは地球の自転にある。

探査機が十分遠方にあり、視線方向の単位ベクトル û(赤経 α、赤緯 δ)が 1パスのあいだほぼ一定とみなせるとする。局位置の地心からのずれを û に射影すると

\hat{u}·r_{st}(t) = r_{s}\cos δ\cos(ω_{E}t + λ − α) + z_{s}\sin δ

ここで r_s は局の自転軸からの距離、z_s は赤道面からの高さ、λ は経度、ω_E は地球自転角速度。 これを時間微分すれば、距離変化率に1日周期の正弦が現れる。

\dot{ρ}_{diurnal}(t) = −ω_{E}·r_{s}\cos δ·\sin(ω_{E}t + λ − α)

振幅が赤緯を、位相が赤経を与える。これがドップラから角度が出る仕組みである。

【例2.3-4】署名の大きさと、そこから出る角度精度 緯度36°の局なら r_s = 6371 cos36° ≈ 5154 km、ω_E = 7.292×10⁻⁵ rad/s。
ω_E r_s = 376 m/s。赤緯0°なら振幅376 m/s、赤緯60°でも188 m/s。
これに対し観測精度は0.3 µm/s級。振幅比にして10⁹。桁だけ見れば恐ろしく良く決まる。
1点あたりの角度感度は σ_ρ̇/(ω_E r_s cos δ) = 3×10⁻⁷/376 ≈ 0.8 nrad、 1パス1000点なら形式的には 0.025 nrad。
ただし実際にはここまで出ない。1日周期の系統誤差——局位置誤差、UT1、 対流圏の日変化、太陽輻射圧のモデル誤差——がすべてこの署名と同じ周期を持ち、 分離できないからである。実務での角度精度は数十〜数百 nrad にとどまる。

この最後の一文が、ΔDOR(第2.4章)が存在する理由である。 ドップラの角度情報は1日周期の系統誤差と縮退している。 ΔDORは幾何を直接測るので、この縮退から独立に横方向を拘束できる。 両者は競合ではなく、相補である。

Q. 赤緯が90°に近いとどうなるか?
A. cos δ → 0 なので署名が消える。極方向にいる探査機の赤経は ドップラからほとんど決まらない。逆に黄道面付近(深宇宙探査機の大半)では署名が最大に近く、 ドップラ航法がよく効く。観測幾何が情報量を決めるという第4.8章の主題の、最も分かりやすい例である。
Q. パスが短いと何が起きるか?
A. 正弦波の一部しか見えないので、振幅と位相の分離が悪化する。 とくに「1日周期の正弦」と「一次のドリフト」が数時間の窓では区別しづらい。 最低でも仰角の上がり下がりを含む数時間、できれば異なる時間帯のパスを組み合わせるべきである。 これは第5.1章の追跡スケジュール設計に直結する。

2.3.7 3-way運用と局間バイアス

送信局と受信局が別の局である配置を3-wayと呼ぶ。可視時間の切れ目をまたいで 連続的に追跡できるという運用上の利点があるが、観測量としては性質が変わる。

2-wayでは送受が同一の周波数標準を共有するため、基準の揺らぎは共通で相殺される。 3-wayでは2台の独立な周波数標準の差が観測量に直接乗る。 両局の標準の相対オフセットを Δf/f = ε とすると、距離変化率に

b_{3way} = \frac{c}{2}·ε

のバイアスが現れる。ε = 10⁻¹³ でも b = 15 µm/s であり、 2-wayの精度(0.3 µm/s)の50倍にあたる。3-wayドップラはバイアスを推定パラメータに入れて使うのが原則で、 入れずに2-wayと同じ重みで混ぜると軌道が引っ張られる。

局間の時刻・周波数を高精度で結んでおけば ε は小さくできる。 その手段(GNSS共通視、TWSTFT、光ファイバ分配)は姉妹書『地上局工学』第5部で扱う。

2.3.8 相対論的な効き方

ドップラは搬送波位相を測っているので、相対論は「補正」ではなく定義の一部として入る。 効く経路は3つある。

  • 二次のドップラ(時間の遅れ): 送受信端の速度による固有時の進み方の差。 地上局は地球自転と公転で動き、探査機も動く。一次項に対して (v/c) 倍の大きさ。
  • 重力赤方偏移: 局と探査機のポテンシャルの差。太陽ポテンシャル中を移動すると効く。
  • Shapiro遅延の時間変化: 経路が太陽に近づく/遠ざかると、重力遅延そのものが変化し、 それが距離変化率として観測される。合の前後で急激に効く。

いずれも第3.4章で定量的に扱う。ここで押さえるべきは、 µm/s級の観測量に対して相対論は「効くか効かないか」ではなく「必ず入れる」項であるということである。

2.3.9 ドップラ残差の顔

残差の見え方疑うべき原因切り分け
1日周期の正弦局位置誤差、UT1・極運動、赤経赤緯の誤差複数局・複数日で位相が揃うか見る
仰角と相関対流圏(とくに湿潤成分の日変化)水蒸気ラジオメータ値と相関を取る
パス内の放物線状力学モデル誤差(SRP・重力場)アーク長を変えて形が変わるか見る
階段状の跳びマヌーバ、安全モード遷移、脱ガス機体イベントログと時刻照合(第5.2章)
局ごとの一定オフセット3-way局間バイアス、機器遅延2-wayだけで解いて比較
合の前後で雑音急増太陽プラズマSEP角との相関(第3.3章)
白色でない高周波の揺らぎ発振器、分配系の位相雑音局の位相雑音測定値と突き合わせ

実務の勘所は「同じ周期がレンジ残差にも出ているか」を必ず見ることである。 両方に出るなら幾何・座標系・局位置を疑い、ドップラだけなら周波数標準側を疑う。 群遅延と位相遅延は分散性媒質で符号が逆になるので(第2.2.9)、 符号の関係も切り分けの手がかりになる。

2.3.10 偏微分 — 第4部へ渡す

ドップラ観測量は経路長の差だから、偏微分も差の形になる。

\frac{∂\dot{ρ}}{∂x(t_{0})} = \frac{1}{2T_{c}}\left[\frac{∂S}{∂x}\bigg|_{t_{b}} − \frac{∂S}{∂x}\bigg|_{t_{a}}\right]

幾何項については ∂S/∂r_sc ≈ 2û だから、 両端の視線方向の差が効く。パスのあいだに û がどれだけ回るかが情報量を決める、 という第2.3.6の議論がここに現れる。速度に対する偏微分は状態遷移行列を通じて入る(第2.7章)。

■ この章のまとめ
  • ドップラ観測量は瞬時周波数ではなく位相カウント。実体は2-way経路長の差分である
  • コヒーレント2-wayでは有理数のターンアラウンド比(X/Xで880/749)により、地上の水素メーザ1台が往復全体の位相基準になる
  • 熱雑音限界は σ_ρ̇ = c /(4π f_D √(P_C/N_0) T_c^{3/2})。T_c の3/2乗で効く
  • しかし実際の床は発振器で決まる: σ_ρ̇ = (c/2)σ_y(τ)。τ は計数区間ではなく往復光時間
  • 通常の P_C/N_0(25〜40 dBHz)では、ほぼ常に発振器が支配する。送信電力を上げても改善しない
  • 計数区間を長くしすぎると加速度が平滑化されて偏る。Δ ≈ T_c²ρ⃛/24。短く取って後から合成するのが安全
  • 地球自転が1日周期の署名(振幅 ω_E r_s cos δ ≈ 376cos δ m/s)を刻み、振幅が赤緯・位相が赤経を与える
  • ただしこの角度情報は1日周期の系統誤差と縮退している。だからΔDORが要る
  • 3-wayは2台の独立な標準の差がバイアスになる。必ず推定パラメータに入れる
アラン偏差の具体値(水素メーザの σ_y(τ) 曲線)、 ターンアラウンド比の適用範囲、JAXA地上局のドップラ抽出器が出力する計数区間の選択肢は、 対象システムの仕様書および局の技術資料で確認すること。 本文の数値は設計初期の検討に用いる目安である。

第2.4章ΔDOR観測方程式

■ この章で学ぶこと
レンジは視線方向しか拘束せず、ドップラの角度情報は1日周期の系統誤差と縮退している。 横方向を幾何として直接測れる唯一の電波観測量がΔDORである。 本章では群遅延という観測量の定義から出発し、なぜクオーサとの差分をとるのか、 帯域合成が何をしているのか、角度精度の式と要求S/N、較正天体の選び方、 そして日本のベースライン事情までを扱う。

2.4.1 出発点 — VLBI観測量としての群遅延

離れた2局で同じ電波源を同時に受信する。到来方向の単位ベクトルを ŝ、 2局を結ぶベクトル(ベースライン)を B とすると、両局への到達時刻には差が生じる。

τ = \frac{B·\hat{s}}{c}

この τ を群遅延という。ベースラインの向きは既知(局位置は測量されている)だから、 τ を測れば ŝ の、ベースライン方向成分が決まる。 これは角度の直接測定である——距離でも速度でもなく、天球上の方向そのものを測っている。

局から見た角度誤差は、遅延誤差をベースラインの投影長で割った形になる。

σ_{θ} = \frac{c·σ_{τ}}{B_{proj}}

B_proj は電波源方向に直交する成分(有効ベースライン)である。 式の形が示すとおり、長いベースラインほど角度精度がよい。 これが後で日本の事情として効いてくる(2.4.8)。

2.4.2 なぜ差分をとるのか — DOR から ΔDOR へ

探査機の群遅延 τ_sc を単独で測る(DOR: Differential One-way Ranging)だけでは精度が出ない。 τ_sc には測りたい幾何以外のものが山ほど乗っているからである。

τ_{sc}^{obs} = \frac{B·\hat{s}_{sc}}{c} + Δτ_{clock} + Δτ_{tropo} + Δτ_{iono} + Δτ_{inst} + ...

そこで、探査機とほぼ同じ方向にある電波源を直後に観測し、同じ量を測る。

τ_{q}^{obs} = \frac{B·\hat{s}_{q}}{c} + Δτ_{clock} + Δτ_{tropo}' + Δτ_{iono}' + Δτ_{inst} + ...

2つの差をとる。これがΔDORである。

Δτ = τ_{sc}^{obs} − τ_{q}^{obs} = \frac{B·(\hat{s}_{sc} − \hat{s}_{q})}{c} + (残差項)

何が消えたかを整理しておく。

誤差源差分で理由
局の時計オフセットほぼ完全に消える数分以内なら時計は同じ位相を保つ(コモンモード)
機器遅延(局内経路)ほぼ完全に消える同じ受信系を同じ設定で通す
対流圏大きく減る離角が小さいほど同じ大気を通る。残るのは離角ぶんの差
電離層大きく減る同上。ただし電離層は高度が低く空間相関が短いので残りやすい
局位置誤差減る共通成分は消え、離角に比例した成分が残る
クオーサの位置誤差そのまま残るICRF3の位置精度が上限を与える
電波源の構造残るクオーサが点源でないと系統誤差になる

「差分で消す」ことが本質であり、それが成立する条件は「同じものを通す」ことである。 だから較正天体は探査機に角度的に近くなければならず(2.4.6)、 切り替えは大気が変わらないうちに済ませなければならない(2.4.7)。 この二つの制約が、ΔDOR運用のほぼすべてを規定している。

2.4.3 帯域合成 — 遅延分解能はどこから来るか

群遅延を精密に測るには、広い周波数範囲にわたって位相を測る必要がある。 位相の周波数微分が群遅延だからである。

τ = \frac{1}{2π}·\frac{dφ}{df}

2点の周波数 f_1, f_2 で位相を測れば τ ≈ Δφ/(2πΔf) となり、 Δf(スパンド帯域幅)が大きいほど遅延が細かく決まる。 ここで前章までと同じ位相誤差の式が効いてくる。

σ_{τ} = \frac{σ_{φ}}{2π B_{rms}} = \frac{1}{2π B_{rms}\sqrt{2·(P/N_{0})·T}}

B_rms はスパンド帯域の中心まわりの実効的な広がり(rms帯域幅)である。

【本書を貫く一本の式】 第2.2〜2.4章の精度式は、すべて同じ σ_φ = 1/√(2(P/N_0)T) から出ている。
・測距: σ_ρ = c·σ_φ/(4π f_RC) — 目盛りは測距クロック f_RC
・ドップラ: σ_ρ̇ ∝ c·σ_φ/(f_D T_c) — 目盛りは搬送波 f_D
・ΔDOR: σ_τ = σ_φ/(2π B_rms) — 目盛りはスパンド帯域 B_rms
三つの観測量の違いは「どの周波数を目盛りに使うか」だけである。 測距が1 MHz、搬送波が8.4 GHz、スパンド帯域が数十MHz。 この桁の違いが、そのまま三者の性格の違いになっている。

探査機側は、搬送波の両側にDORトーンと呼ぶ側波帯を意図的に立てる。 トーン間隔を広く取るほど精度がよいが、 間隔が広いと位相のあいまいさ(2π の整数倍)が生じる。 そこで狭い間隔のトーン(あいまいさなし・低精度)と広い間隔のトーン(高精度・あいまいあり)を 階層的に使い、粗い解で細かい解のあいまいさを解く。 測距でクロックと成分符号が役割分担していたのと、まったく同じ構造である。

クオーサは自然の広帯域雑音源なので、受信帯域を離散的に複数チャネル配置して 同様に帯域合成する。合成の設計(チャネル配置)が遅延分解能を決めるので、 チャネルは等間隔ではなく、あいまい解決と分解能を両立するように配置する。

2.4.4 角度精度と要求S/N

2.4.1と2.4.3を合わせると、ΔDORの角度精度が閉じた形で書ける。

σ_{θ} = \frac{c}{2π B_{rms}·B_{proj}\sqrt{2·(P/N_{0})·T}}

逆に解けば、目標角度精度に対する要求S/Nが出る。

\frac{P}{N_{0}} = \frac{1}{2T}\left(\frac{c}{2π B_{rms}·B_{proj}·σ_{θ}}\right)^{2}
【例2.4-1】典型的なΔDORセッション B_rms = 19 MHz(スパンド38 MHz)、B_proj = 8000 km、P/N_0 = 20 dBHz、T = 100 s
σ_φ = 1/√(2×100×100) = 7.07×10⁻³ rad
σ_τ = 7.07×10⁻³/(2π×1.9×10⁷) = 5.9×10⁻¹¹ s = 59 ps
σ_θ = 3×10⁸ × 5.9×10⁻¹¹ / 8×10⁶ = 2.2×10⁻⁹ rad = 2.2 nrad
これを距離に直すと、1 auで 330 m、火星最遠(2.5 au)で 830 m
1回のセッション(数十分)で、億km彼方の探査機の横方向位置が数百mで決まる。

実際には探査機側だけでなくクオーサ側のS/Nも効く。 クオーサは弱い(0.1〜数 Jy)ので、多くの場合クオーサ側が精度を律速する。 合成した遅延誤差は

σ_{Δτ} = \sqrt{σ_{τ,sc}^{2} + σ_{τ,q}^{2} + σ_{sys}^{2}}

となり、σ_sys(差分後に残る系統誤差)が数十psのオーダーで下限を作る。 探査機側をいくら強くしても、クオーサと系統誤差の壁で止まる。

2.4.5 誤差予算

項目典型値(遅延換算)角度換算(B=8000 km)低減の手立て
探査機側の熱雑音10〜60 ps0.4〜2.2 nradDORトーン電力増、積分時間、帯域拡大
クオーサ側の熱雑音20〜100 ps0.8〜3.7 nrad強い天体を選ぶ、積分時間、大口径局
対流圏残差10〜50 ps0.4〜1.9 nrad離角を小さく、水蒸気ラジオメータ
電離層残差10〜100 ps0.4〜3.7 nrad二周波(X/Ka)、TECマップ、夜間観測
局位置誤差離角×局位置誤差/c離角依存測量精度、EOPの更新
クオーサ位置誤差(ICRF3)0.1〜0.5 nrad位置精度のよい天体を選ぶ
電波源構造0.1〜1 nrad構造の小さい天体、構造モデル補正
時計・機器の差分残差数 ps<0.2 nrad切替周期を短く

この表の読み方で大事なのは、上4行は運用設計で動かせるが、下4行は動かしにくいということである。 積分時間を延ばして熱雑音を下げても、対流圏残差と局位置誤差の床に当たれば止まる。 「もう一段精度を上げたい」となったときにどこを攻めるかは、この表を自分の数字で埋めて決める。

2.4.6 較正天体の選び方 — ICRF3から探す

ΔDOR運用の準備で最も手間がかかるのが、較正天体(クオーサ)の選定である。 条件は4つある。

  • 離角が小さいこと。探査機の見かけ位置から数度以内。離角に比例して対流圏・電離層・ 局位置の差分残差が増えるので、近いほどよい。実務上は10度以内、できれば数度以内を狙う
  • 十分明るいこと。観測周波数帯(X帯・Ka帯)でのフラックスが要る。 低周波で明るくても高周波で暗い天体があるので、使う帯域での値を見る
  • 位置精度がよいこと。ICRF3のカタログ位置誤差がそのまま系統誤差になる
  • 構造が小さいこと。ジェット構造を持つ天体は、ベースライン方向によって 見かけの位置がずれる。構造指数の小さい天体を選ぶ

この4条件を同時に満たす天体は多くない。しかも探査機は動くので、 ミッション期間を通じた較正天体のスケジュールを事前に作っておく必要がある。 軌道が変わるたびに作り直しになるのが、この作業の面倒なところである。

【自動化の価値】 「探査機の視位置の時系列 → 各時刻で条件を満たすクオーサ一覧 → セッション計画」 という流れは完全に機械化できる。ICRF3カタログと軌道(第1部)があれば計算だけで済む。 手作業でカタログを引いているなら、そこは道具を作るべき場所である。

2.4.7 スイッチングサイクルの設計

探査機とクオーサを交互に観測する。1周期の時間配分が設計変数になる。

サイクル = [探査機 T_{sc}] → [スルー] → [クオーサ T_{q}] → [スルー] → …

周期を決めるのは大気のコヒーレンス時間である。対流圏の湿潤成分は数分のスケールで変化するので、 これより長い周期で切り替えると、差分で消えるはずの大気が消えなくなる。 一方で周期を短くすると、アンテナのスルー(回転)時間の割合が増えて実効積分時間が減る。

典型的には数分周期。大口径局はスルーが遅いので不利になる。 「大きい局のほうが常に良い」わけではないのがΔDORの面白いところで、 感度(大口径有利)とスルー速度(小口径有利)のトレードがある。

セッション全体は数十分から1時間程度。ベースラインの向きが地球自転で回るので、 長く続ければ2次元の角度が決まる方向に近づくが、 通常は1セッション=1ベースライン=1方向成分と考えるのが安全である。 2次元を決めたければ、直交に近いベースラインでもう1セッション打つ。

2.4.8 ベースライン事情 — 日本でΔDORをやるということ

σ_θ = c σ_τ/B_proj は残酷な式である。ベースラインが10分の1なら角度精度も10分の1になる。

国内の深宇宙局同士では、この式が厳しく効く。臼田と美笹は同一構内に近く、 ベースラインはほぼゼロで、ΔDORのベースラインとしては使えない。 臼田と内之浦を結んでも、緯度差・経度差から計算すれば1000 km を切る。

【例2.4-2】自分で確かめる】 臼田(約36.1°N, 138.4°E)と内之浦(約31.3°N, 131.1°E)の距離を球面上で計算すると、 緯度差4.8°で約540 km、経度差7.3°を中緯度で換算して約670 km、 合わせて約900 km
例2.4-1の条件(σ_τ = 59 ps)をこのベースラインに当てはめると σ_θ = 3×10⁸ × 5.9×10⁻¹¹/9×10⁵ = 20 nrad。 大陸間ベースラインの約9倍悪い。1 auで3 kmに相当する。

したがって日本が高精度ΔDORを行うには、次のいずれかを取ることになる。

  • 国内VLBI網の活用。天文観測用のVLBI網は日本列島を縦に使うので、 深宇宙局同士よりずっと長いベースラインが得られる。ただし周波数帯・受信系・ スケジュール調整という別の課題が入る
  • 国際相互支援。海外機関の局とペアを組めば大陸間ベースラインになる。 精度は最良だが、調整・費用・スケジュールの制約を受ける(姉妹書『地上局工学』第7.5章)
  • ΔDORに頼らない設計。ドップラの1日周期署名(第2.3.6)と光学航法(第2.5章)で 横方向を押さえ、ΔDORは要所だけに使う

どれを選ぶかは、ミッションの横方向要求から逆算して決める。 「ΔDORをやるかどうか」ではなく「何 nrad が要るのか」から入るのが正しい順序である。 その計算は第4.8章(可観測性)と第5.1章(追跡計画)で扱う。

臼田・美笹・内之浦の正確な局位置(測地座標および地心直交座標)、 国内VLBI網との連携実績、国際ΔDOR支援の枠組みは、 JAXAの公開資料および局の技術資料で確認すること。 上の距離計算は読者が自分で検算できるよう概算で示したものである。

2.4.9 データの流れと標準形式

ΔDORは局で完結しない。両局で記録した生データを持ち寄って相関処理し、 そこで初めて遅延が得られる。したがって運用の流れは他の観測量と大きく違う。

両局で記録 → データ転送 → 相関処理 → 帯域合成 → 遅延 → 差分 → Δτ → 軌道決定

この流れの各段階でフォーマットの取り決めが要る。 とくに国際協力でΔDORを行う場合、記録フォーマットとメタデータが合っていないと 相関処理そのものができない。CCSDSはΔDORの生データ交換形式を標準化しており、 これに従うことで機関をまたいだ相関処理が可能になる。

最終的な Δτ は追跡データメッセージ(TDM)の観測量として軌道決定へ渡る(第5.5章)。 TDMにはΔDOR観測量のためのキーワードが用意されており、 較正天体の識別子・ベースラインを構成した局・スパンド帯域などのメタデータを添えて渡す。 このメタデータが欠けると、受け取った側は観測量を正しくモデル化できない。

ΔDOR生データ交換形式(CCSDS 506.0-B系)およびΔDORの技術特性を扱う グリーンブック、TDMにおけるΔDOR関連キーワードは、 CCSDS原文書の最新版で確認すること。版によりキーワードが追加されている。

2.4.10 Same-Beam Interferometry — 2機を同時に見る

2機の探査機が同じ天体を回っていて、地上局から見て同一ビーム内に入る場合、 クオーサではなく相手の探査機を較正源にできる。これがSBI(Same-Beam Interferometry)である。

離角が極めて小さい(ビーム幅の中)ので、大気も局位置も機器もほぼ完全に共通になり、 差分後の系統誤差はΔDORよりさらに小さくなる。得られるのは2機の相対角度位置なので、 編隊や、周回機と着陸機の相対位置決定に強い。

制約は明快で、2機が同時に同一ビーム内にいなければ成立しない。 火星や月のように複数機が集まる天体でのみ使える手法である。

2.4.11 偏微分と、他の観測量との組み合わせ

Δτ の探査機位置に対する偏微分は、ベースラインを視線に直交する面へ射影したものになる。

\frac{∂Δτ}{∂r_{sc}} = \frac{1}{c}·\frac{B_{⊥}}{|r_{sc}|}

B_⊥ はベースラインの視線直交成分。レンジ(û方向)とは直交する方向に効くことが式から読める。 これが「レンジ+ドップラ+ΔDORで3次元が決まる」ことの数学的な内容である。

第4.8章で情報行列を組むと、この相補性が定量的に見える。 レンジのみ/レンジ+ドップラ/+ΔDOR と積み上げたときに 共分散行列の各方向がどう縮むかを見ておくと、追跡計画の判断が速くなる。

■ この章のまとめ
  • ΔDORは群遅延 τ = B·ŝ/c を測る角度の直接測定。角度精度は σ_θ = c σ_τ/B_proj
  • クオーサとの差分により、時計・機器・大気・局位置の共通成分が消える。成立条件は「近い方向を、短い時間で」
  • 遅延分解能はスパンド帯域幅で決まる: σ_τ = σ_φ/(2π B_rms)。測距・ドップラと同じ σ_φ から出ている
  • 典型性能は数 nrad。1 auで数百m。ただしクオーサ側S/Nと系統誤差で床が決まる
  • 較正天体は「離角が小さい・明るい・位置精度がよい・構造が小さい」を同時に満たす必要があり、選定は自動化に値する
  • 切替周期は大気コヒーレンス時間(数分)で決まる。感度とスルー速度のトレードがある
  • 日本の深宇宙局同士のベースラインは短い(臼田−内之浦で約900 km)。国内VLBI網・国際支援・非依存設計のいずれかを選ぶ
  • ΔDORは相関処理を経て初めて観測量になる。生データ交換形式とメタデータの標準化が国際協力の前提
第 V 部 運用としての軌道決定
いつRARRを取り、いつΔDORを打ち、結果をどう予報に変えて局へ配るか。道具(STK・TDM・OEM)の使い方も含めて、実務の手順に落とす。

第5.1章追跡スケジュールの設計 — いつRARRを取り、いつΔDORを打つか

■ この章で学ぶこと
追跡計画は「局が空いている時間に取れるだけ取る」ものではない。 観測量ごとに取るべき時刻があり、それは幾何と情報量から決まる。 本章では1パスの中の時間割から、フェーズごとの追跡計画、 そして取った観測量が軌道決定の精度にどう化けるかまでを、 設計として説明できる形で扱う。

5.1.1 RARRとは何を指すか

RARR(Range And Range Rate)は、レンジとドップラを組にして取る標準的な追跡モードを指す。 現場では「今日のパスはRARRあり」「このパスはドップラのみ」という言い方をする。 レンジを打つかどうかが運用上の選択肢になるのは、第2.2.6で見たとおり レンジ変調が搬送波とテレメトリから電力を奪うからである。

したがって追跡計画の最小単位は「1パスで何を取るか」であり、 その選択肢は概ね次の4つになる。

モード取れるもの代償使う場面
ドップラのみρ̇なし(テレメトリ最大)巡航の平常運用、データ取得優先のパス
RARRρ, ρ̇テレメトリレートを一段落とす軌道決定の主力。週数回〜毎日
RARR + ΔDORρ, ρ̇, Δτ2局占有、相関処理が要る重要イベント前、合の前後
テレメトリ専用軌道情報が得られない大量データ取得、緊急運用

5.1.2 1パスの中の時間割

1パスは概ね次の順序で進む。ここで重要なのは、 使える時間の全部が観測に使えるわけではないということである。

AOS → 局設定 → 上り掃引・捕捉 → 機上ロック確認(RTLT待ち) → 下り搬送波ロック → テレメトリ同期 → 測距開始 → 測距捕捉完了 → 定常観測 → 測距停止 → LOS

時間を食うのは2箇所である。

往復光時間による待ち。上りを掃引して機上のPLLがロックしたかどうかは、 RTLTが経過するまで地上では分からない。火星なら20〜40分、外惑星なら数時間。 仰角10度以上の可視が6時間しかないパスで、RTLTが2時間なら、 2-way観測ができるのは実質4時間である。この待ちは短縮できない。

測距の捕捉時間。第2.2.8で見たとおり、成分符号ごとの位相推定に時間がかかる。 弱いリンクでT4B符号を使えば数分から十数分。 パスの終わり際に測距を始めても、捕捉が終わる前にLOSになる。

【現場の原則】 測距はパスの前半で開始する。 理由は3つある。
① 捕捉時間を確保できる
② 仰角が上がっていく時間帯なので、媒質誤差が減る方向に測れる
③ 異常が起きたときに、まだパス時間が残っている
逆に「最後に余った時間で測距」は最悪の設計である。捕捉できずに終わる確率が高い。

5.1.3 いつレンジを取るか — 幾何から決める

レンジは視線方向しか拘束しない(第2.2.11)。したがって 視線方向が変わったところで取り直すことに価値がある。 同じ幾何で何点取っても、情報は雑音の平均化ぶんしか増えない。

視線方向が有意に変わるのは次の3つの時間スケールである。

  • 1パス内(数時間): 地球自転で局が動く。第2.3.6の署名と同じ幾何。 パスの前半と後半で最低2点は欲しい
  • 日単位: 地球自転が一巡し、かつ探査機が動く。異なる時間帯のパスを混ぜると効く
  • 週〜月単位: 地球公転と探査機の軌道運動。これが最も大きく幾何を変える

実務的な出発点としては、巡航中は週2〜3回のRARRパス、 イベント前は毎日、というのが一つの目安になる。 ただしこれは目安であって、正しくは第4.8章の情報行列で決める。 「週2回で足りるか」は、要求精度と力学モデル誤差を入れて共分散を伝播すれば答えが出る。

【設計の順序】 ① ミッションから位置・速度の要求精度を受け取る(例: TCM実行時に位置1 km)
② 力学モデル誤差(第1.5章のSRP不確かさなど)を consider parameter に入れる(第4.6章)
③ 追跡計画案ごとに共分散を伝播し、要求時刻での誤差楕円を出す(第4.6章)
④ 要求を満たす最小の案を選ぶ
「毎日追跡します」は設計ではない。③まで通して初めて、局に要求を出す根拠になる。

5.1.4 いつΔDORを打つか

ΔDORは高価である。2局を同時に占有し、較正天体のスケジュールを組み、 生データを転送して相関処理する。したがって効くところに絞って打つ

効くのは、横方向誤差が運用判断を左右する場面である。具体的には次の5つ。

場面なぜ効くか典型的なタイミング
TCM(軌道修正)の前ΔV の方向を決めるのは横方向誤差。ここが甘いとTCMが無駄になる実行の数日〜1週間前に1〜2セッション
惑星接近・投入の前B平面誤差楕円(第5.3章)を縮める。投入可否の判断根拠接近数週間前から頻度を上げる
スイングバイの前後前は狙い、後は実際にどこを通ったかの確認。誤差が増幅される(第6.3章)前後それぞれ
太陽合の直前・直後合中は観測が壊れる。入る前に精度を上げ、出た直後に取り直す合の入り・出のそれぞれ数日以内
長期の追跡空白のあとドップラだけでは横方向が縮退したまま。幾何を直接測って収束させる再開直後

逆に、巡航中の平常時にΔDORを打っても費用対効果は低い。 横方向誤差がゆっくり成長しているだけの期間なら、 ドップラの1日周期署名(第2.3.6)が押さえてくれる範囲で足りることが多い。

1セッションで決まるのは1方向成分だけ(第2.4.7)である点にも注意がいる。 2次元の横方向を押さえたいなら、方向の異なるベースラインで2セッションを組む。 これは「同じ局ペアで時間をずらす」(地球自転でベースラインの向きが回る)か、 「別の局ペアを使う」かのどちらかになる。

5.1.5 フェーズごとの追跡計画

フェーズ特徴追跡の重点典型的な頻度
打上げ直後(LEOP)軌道が未知に近い。誤差が大きいとにかく連続。ドップラ主体、早期にレンジ連続追跡。複数局リレー
初期軌道決定数日で軌道を確定させたいRARRを毎パス。幾何が変わる時間帯を混ぜる毎日、複数パス
巡航(平常)力学が素直。誤差成長が遅いドップラ主体、定期的にRARR週2〜3回
TCM前後ΔVの設計と再構築前: RARR頻度増+ΔDOR。後: 直後から連続前1週間は毎日、後は数日連続
接近・軌道投入B平面精度が投入可否を決めるRARR毎日+ΔDOR複数セッション毎日。イベント直前は連続
周回・近傍短周期の力学。計数区間を短くドップラ短区間、重力場推定なら連続可能な限り連続
太陽合観測量が壊れる入る前に精度を上げる。合中は縮退運用合中は最小限(第6.4章)

5.1.6 RARRの結果は、軌道決定にどう化けるか

ここが本章で最も重要な節である。「レンジを1点取ると軌道がどれだけ良くなるのか」に 定量的に答えられるようにする。

第4.2章で見たとおり、観測を1点加えることは情報行列に1項を加えることである。

Λ = Λ_{0} + \sum_{i} \frac{1}{σ_{i}^{2}}H_{i}^{T}H_{i}, P = Λ^{-1}

この式から3つのことが読める。

① 効くのは σ ではなく 1/σ²。精度が2倍の観測量は、情報としては4倍の価値がある。 逆に言えば、精度の悪い観測量をたくさん足しても、良い観測量1点に及ばないことがある。

② 効くのは H の向き。H が既に良く決まっている方向を向いていれば、 その観測はほとんど情報を足さない。幾何が変わらないうちに何点取っても無駄というのは、 この式の直接の帰結である。

③ Λ_0(事前情報)と競合する。既に精度が高い状態では、 新しい観測1点の寄与は相対的に小さくなる。収束したあとは頻度を落としてよい。

【例5.1-1】レンジ1点の価値を桁で見る 巡航中の探査機で、視線方向の位置不確かさが 5 km あるとする。 レンジ精度 σ_ρ = 1 m の観測を1点入れると、視線方向の情報は 1/1² = 1 [m⁻²] 加わる。事前情報は 1/5000² = 4×10⁻⁸ [m⁻²]。
比にして2500万倍。1点で視線方向はほぼ確定する。
一方、横方向に対する H の成分はほぼゼロなので、 横方向の不確かさは1 mmも縮まない。
これが「レンジを何点取っても横方向は決まらない」ことの数量的な意味である。

ではドップラはどうか。ドップラ1点も視線方向(の変化率)を測るが、 第2.3.6の署名により1パス分を積み上げると横方向にも効く。 ただしその効き方は「1日周期の正弦の振幅と位相」という形なので、 パスの一部だけでは分離できない。ドップラは点で効くのではなく、 パス全体の形で効く観測量である。

ΔDORは1セッションで横方向を直接叩く。例2.4-1の2.2 nradは、 1 auで330 m。上の例で横方向5 kmだったものが、1セッションで330 mになる。 ドップラを何週間積んでも届かない領域に、1回で到達する。

【まとめると】 ・レンジ: 視線方向を点で決める。1点で効く。絶対距離の基準
・ドップラ: 視線方向の変化を細かく追い、パスの形で横方向にも効く。ただし系統誤差と縮退
・ΔDOR: 横方向を幾何として直接叩く。縮退から独立
三者は代替ではなく、状態空間の別々の方向を担当している。 だから「ドップラがあるからレンジは要らない」も「ΔDORがあるからドップラは要らない」も成り立たない。

5.1.7 観測が軌道決定を通って予報になるまで

取った観測量が運用に返るまでの一巡を、時間つきで押さえておく。

パス実施 → 局で観測量生成(TDM) → 転送 → 前処理・編集 → 軌道決定(バッチ or 逐次) → 解の評価 → 予報生成(OEM・指向予報・周波数予報) → 局へ配布 → 次のパスで使用

この一巡にかかる時間が、追跡計画の設計に効いてくる。 たとえば「TCMの2日前までに軌道を確定したい」なら、 その一巡の時間を逆算して最後のパスをいつに置くかが決まる。 前処理と軌道決定に半日、レビューに半日、予報生成と配布に半日かかるなら、 最終パスはTCMの3日半前に置かなければ間に合わない。

予報の側にも有効期限がある。予報位置誤差が大きくなると、 局のアンテナ指向が外れ、上り掃引の範囲が足りなくなる(第5.4章)。 「何日ごとに予報を更新するか」は、予報誤差の成長率から決まる。 この計算も共分散伝播(第4.6章)でできる。

5.1.8 局への要求の書き方

追跡計画は最終的に局への要求として文書になる。技術者として書くべき項目は次のとおり。

  • いつ: 期間、パス数、1パスの長さ、優先度
  • どの局: 局の指定、ΔDORなら局ペアと組む時間帯
  • 何を取るか: ドップラ(計数区間の指定を含む)、レンジ(符号系・チップレート)、ΔDOR
  • 制約: 最低仰角、測距開始の目安時刻、テレメトリレートとの優先関係
  • 根拠: なぜその頻度・その局・そのタイミングなのか

最後の「根拠」が本章の主題である。局の時間は有限で、他ミッションと取り合いになる (姉妹書『地上局工学』第7.1章)。 「要りそうだから」では通らず、「これを削るとB平面誤差が○km増え、TCMのΔVが○m/s増える」と言えれば通る。 共分散解析はそのための道具でもある。

5.1.9 資源競合と折り合い

要求どおりのパスが取れないことは日常的に起きる。そのときに何を諦めるかの優先順位を、 あらかじめ決めておくのが実務である。

削られたもの影響代替手段
パス数が減る誤差成長が続く。収束が遅れる1パスを長くする。幾何の良い時間帯に集中
大口径局が取れないP_C/N_0 低下 → 観測精度低下計数区間を延ばす(T^{3/2}で効く)。測距を諦めドップラに絞る
ΔDORが取れない横方向が縮退したままドップラを異なる時間帯で多く取る。光学航法(第2.5章)
低仰角しか取れない媒質誤差増大気象データによる較正を強化。重みを下げる

ここでも判断の根拠は共分散である。「取れなかった場合にどうなるか」を事前に計算しておけば、 交渉の場で即答できる。これは技術の問題であると同時に、組織の中で仕事を通す技術でもある。

■ この章のまとめ
  • RARRはレンジとドップラの組。レンジは電力を食うので「打つかどうか」が運用の選択肢になる
  • 1パスの有効時間は往復光時間と測距捕捉時間で削られる。測距はパスの前半で開始する
  • レンジは幾何が変わったところで取り直す価値がある。同じ幾何で何点取っても情報は増えない
  • ΔDORはTCM前・接近前・スイングバイ前後・合の前後・追跡空白後に絞って打つ。1セッション=1方向成分
  • 観測の価値は情報行列 Λ = ΣH^T H/σ² で決まる。効くのは 1/σ²H の向き
  • レンジは視線方向を点で、ドップラはパスの形で、ΔDORは横方向を直接。三者は別々の方向を担当しており代替できない
  • 観測から予報までの一巡に要する時間を逆算して、最終パスの時刻を決める
  • 局への要求には必ず根拠を書く。共分散解析がその根拠を作る

第5.5章追跡データと航法データの標準形式 — TDM・OEM・TLE

■ この章で学ぶこと
観測量も軌道も、他人に渡さなければ仕事にならない。局から軌道決定へ、軌道決定から局・ 機体運用・科学チーム・他機関へ。ここで効くのが標準形式である。 本章ではTDM(追跡データ)とODM(軌道データ)の構造を、 メタデータの意味に重点を置いて扱う。数値より、単位と参照系と時刻の定義で事故が起きるからである。 TLEを深宇宙で使ってはいけない理由も、ここで明確にする。

5.5.1 なぜ形式で事故が起きるのか

観測量の数値そのものは単純な浮動小数点である。事故はいつも周辺で起きる。

  • 時刻タグが送信時刻なのか受信時刻なのか
  • ドップラの時刻が計数区間の開始・中央・終了のどれか
  • レンジの単位が km なのか秒なのか RU(レンジユニット)なのか
  • すでに適用済みの補正はどれで、まだ適用していない補正はどれか
  • 参照系が ICRF なのか J2000 なのか EME2000 なのか、中心天体は何か

これらはすべてメタデータで定義される。数値だけ受け取っても観測方程式は組めない。 標準形式の価値は、この定義の受け渡しを取り決めた点にある。

5.5.2 TDM — 追跡データメッセージ

TDM(CCSDS 503.0-B系)は、局が生成した観測量を運ぶ形式である。 構造は3層になっている。

HEADER(版・作成者・作成日時) META_START … META_STOP(この区間の観測量の定義) DATA_START … DATA_STOP(時刻タグつきの数値)

メタデータブロックは複数置ける。局が変わる、モードが変わる、といった区切りごとに 新しいメタデータを置いて定義を切り替える。

軌道決定側が必ず確認すべきメタデータを挙げる。

キーワード意味間違えると何が起きるか
PARTICIPANT_1, 2, …信号経路に登場する局・探査機2-wayか3-wayかを取り違える
PATH信号がどの参加者をどの順で通ったか観測方程式の幾何が丸ごと違う
TIMETAG_REF時刻タグが送信基準か受信基準かRTLTぶん(数十分)ずれる。致命的
INTEGRATION_INTERVALドップラの計数区間 T_c精度の重み付けを誤る
INTEGRATION_REF時刻が区間の START / MIDDLE / END のどれかT_c/2 のバイアス。60 sなら数十m相当
RANGE_MODECOHERENT / CONSTANT / ONE_WAYターンアラウンドの扱いを誤る
RANGE_UNITSkm / s / RURUをkmと読むと桁が違う
RANGE_MODULUSあいまい範囲あいまい解決ができない
TRANSMIT_BAND / RECEIVE_BAND使用帯域媒質補正の周波数依存を誤る
TURNAROUND_NUMERATOR / DENOMINATORターンアラウンド比 Gドップラのスケールが違う
CORRECTION_* / CORRECTIONS_APPLIED適用済み補正の宣言二重補正または未補正
【RUという地雷】 レンジは歴史的経緯から、距離でも時間でもない「レンジユニット」で報告されることがある。 RUは測距クロックのサイクル数に対応する量で、局や符号系によって物理量への換算係数が違う。 RANGE_UNITS = RU となっているデータをkmとして読めば、値は桁で狂う。 幸い狂い方が大きいので気づくが、換算係数を1つ間違えた場合は気づきにくい。 新しい局・新しい機関からデータを受け取ったときは、 必ず既知の軌道で残差を見て、換算が合っていることを確かめること。

ΔDORもTDMで運ばれる。この場合、較正天体の識別子、ベースラインを構成した局、 スパンド帯域といったメタデータが不可欠になる。第2.4.9で述べたとおり、 これらが欠けると受け取った側は観測量をモデル化できない。

5.5.3 ODM — 軌道データメッセージ

軌道の側にも標準形式がある。用途によって4種類が使い分けられる。

種類中身典型的な用途
OPM(Orbit Parameter Message)ある1エポックの状態ベクトル+共分散+マヌーバ軌道決定結果の受け渡し、マヌーバ計画
OEM(Orbit Ephemeris Message)状態ベクトルの時系列+補間次数予報の配布、局への指向予報の元データ
OMM(Orbit Mean-Elements Message)平均軌道要素+使用する解析理論の指定地球周回。TLE/SGP4を運べる
OCM(Orbit Comprehensive Message)上記を包括し、力学モデル・摂動情報も含むより詳細な受け渡し

深宇宙の実務で最もよく使うのはOEMである。中身は時刻・位置・速度の表であり、 使う側は補間して任意時刻の状態を得る。ここで見落とされやすいのが次の3点。

① INTERPOLATION と INTERPOLATION_DEGREE。 OEMは「この点列をこの方式・この次数で補間せよ」という指示を含む。 指示を無視して線形補間すれば、点間隔と軌道の曲がり方によっては キロメートル級の誤差が入る。第5.8章のSTKに読み込ませるときも同じである。

② REF_FRAME と TIME_SYSTEM。 参照系(ICRF / EME2000 / ITRF …)と時系(UTC / TAI / TT / TDB)は必ず確認する。 時系を1つ間違えると、TAIとUTCの差だけで数十秒、探査機速度30 km/sなら 1000 km級の位置誤差になる。

③ CENTER_NAME。中心天体が地球か太陽系重心か対象天体かで、 同じ数値がまったく別の意味になる。惑星到達前後で中心を切り替える運用では、 この取り違えが起きやすい。

【受け取ったOEMの検算手順】 ① 最初と最後のエポックで |r| を計算し、想定の距離オーダーと合うか
② 隣接点で数値微分した速度が、記載の速度と一致するか
③ 指定された補間次数で中間点を補間し、別の点列と重なるか
④ 既知のイベント(近点通過、マヌーバ時刻)が想定時刻に現れるか
この4つを自動で回すスクリプトを持っておくと、事故の大半は入口で止まる。

5.5.4 TLE — 使ってよい場面と、使ってはいけない場面

TLE(Two-Line Element set)は地球周回物体の軌道を2行のテキストで表す形式である。 広く流通しているため深宇宙の現場でも目にするが、性質を誤解したまま使うと必ず事故になる

最も重要な事実は次の一点に尽きる。

■ TLEの本質
TLEに書かれているのは瞬時の軌道要素ではない。 SGP4/SDP4という特定の解析的伝播理論に固有の「平均要素」である。 したがってTLEはSGP4/SDP4で伝播したときにのみ意味を持つ。 これを二体問題やケプラー伝播、まして数値積分器に入れてはならない。

TLEの離心率や軌道傾斜角を「軌道要素」として読み取り、 第1.1章の変換式で状態ベクトルに直して数値積分する——これは典型的な誤りである。 SGP4の平均要素は短周期項が特定の方法で除去されており、 瞬時要素とは数十km相当の差がある。正しい手順は 「TLE → SGP4で伝播 → 得られた状態ベクトル → そこから先は自分の伝播器」である。

精度についても正しい期待値を持っておく。

項目典型的な値注意
エポックでの位置精度低軌道で1 km前後物体・観測状況で大きく変わる
精度の劣化1日あたり1〜3 km程度大気抵抗が大きい物体ほど速く劣化
共分散含まれない誤差の定量評価ができない
適用範囲地球周回物体SDP4は周期225分超も扱うが、あくまで地球周回

深宇宙探査機にTLEは使えない。SGP4/SDP4は地球中心の摂動理論であり、 太陽中心の軌道や惑星間軌道を表現できない。深宇宙ではOEMかSPICEカーネルを使う。

ではTLEをいつ使うか。深宇宙ミッションの文脈では次の2つである。

  • 打上げ直後の地球周回フェーズ。パーキング軌道にいる間は地球周回物体であり、 外部からの追跡情報(軌道上物体カタログ)がTLEで得られることがある。 初期の粗い状況把握には使える
  • 接近解析・干渉回避。他の地球周回物体との位置関係を見るとき。 ただし共分散がないので、衝突確率の厳密な評価には向かない

OMMを使えばTLEと同じ内容を標準形式で運べ、しかも 「どの理論で伝播すべきか」を明示できる。新規に設計するインタフェースでは、 生のTLEではなくOMMを使うべきである。

5.5.5 SPICE — 深宇宙の事実上の標準

惑星暦と探査機軌道の受け渡しでは、CCSDS形式よりSPICEカーネルのほうが 実務上よく使われる。天体位置・探査機軌道・姿勢・機器の視野・時刻変換・ 基準系定義が一つの体系にまとまっており、座標系と時系の取り違えが構造的に起きにくいのが強みである。

OEMとSPICEは相互に変換できる。使い分けの目安は次のとおり。

  • OEM: 機関間の公式な受け渡し、契約的な意味を持つ配布、人が読める必要があるとき
  • SPICE: 解析・可視化・機器チームとの共有、天体位置や姿勢と一緒に扱うとき

5.5.6 相互運用でよくある不整合

症状原因の候補確認方法
残差が一定値だけずれる時系の取り違え(UTC/TAI/TT)、時刻タグ基準の相違ずれ量がうるう秒やTAI−UTCと一致しないか
残差がRTLTぶんずれるTIMETAG_REF の送信/受信の取り違えずれ量がRTLTと一致するか
ドップラだけ半区間ずれるINTEGRATION_REF が START/MIDDLE/END で不一致ずれ量が T_c/2 に比例するか
レンジが桁違いRANGE_UNITS の解釈違い(RU / km / s)比が換算係数と一致するか
補正が過剰/不足CORRECTIONS_APPLIED の宣言と実態の不一致局側に適用済み補正の一覧を照会
OEMを読むと軌道が跳ぶ補間次数の無視、マヌーバをまたぐ補間指定次数で補間し直す。区間分割を確認
位置が数百km違うREF_FRAME / CENTER_NAME の相違中心天体を切り替えて差が消えるか

この表の使い方は「ずれ量から原因を逆算する」ことである。 残差の大きさが、うるう秒・RTLT・T_c/2・換算係数のどれかと一致すれば、 それが原因である可能性が高い。物理を疑う前に、まずここを潰す。

5.5.7 自機関フォーマットとの変換

多くの機関は独自の内部形式を持っている。標準形式との変換器を書くときの原則は3つ。

① 往復変換で不変であること。内部形式 → TDM → 内部形式 で ビット単位に戻るか(浮動小数点の丸めを除いて)を自動試験にする。 戻らないなら、どこかで情報が落ちている。

② メタデータを捨てないこと。内部形式に対応する欄がないメタデータを 黙って捨てるのが最も危険な実装である。対応がないなら、変換を失敗させるほうがよい。

③ 既知の軌道で残差を見ること。変換器を作ったら、 既に軌道が確定している期間のデータを通し、残差が変わらないことを確認する。 これが唯一の実質的な検証である。

■ この章のまとめ
  • 事故は数値ではなくメタデータで起きる。単位・時系・参照系・時刻タグ基準・適用済み補正
  • TDMで必ず確認するのは PATH / TIMETAG_REF / INTEGRATION_REF / RANGE_UNITS / TURNAROUND比 / CORRECTIONS_APPLIED
  • ODMはOPM(1点+共分散)・OEM(時系列)・OMM(平均要素)・OCM(包括)。深宇宙の主力はOEM
  • OEMは補間方式と次数の指示を守る。REF_FRAME・TIME_SYSTEM・CENTER_NAME を必ず確認する
  • TLEはSGP4/SDP4専用の平均要素。他の伝播器に入れてはならない。共分散もなく、深宇宙には使えない
  • 深宇宙の実務ではSPICEが事実上の標準。OEMは機関間の公式な受け渡しに使う
  • 残差のずれ量から原因を逆算する。うるう秒・RTLT・T_c/2・換算係数と一致しないかをまず見る
TDM・ODMの正確なキーワード一覧と必須/任意の別、 版ごとの追加項目は、CCSDS 503.0-B(TDM)および 502.0-B / 504.0-B(ODM系)の 最新版原文書で確認すること。本章はキーワードの意味と落とし穴を扱っており、 仕様の完全な列挙を目的としていない。

第5.8章STKによる軌道計算と可視解析

■ この章で学ぶこと
実務で最も広く使われている道具を、原理を分かったうえで正しく使うための章である。 画面の操作手順ではなく、「内部で何を計算しているのか」「設定のどこで嘘をつくのか」 「出た数字をどう検算するのか」を扱う。 本書第1部(力学モデル)と第2部(観測量)が、STKのどの設定項目に対応するのかを 一対一で結びつけることが目的である。

5.8.1 データモデル — 何が何を持っているか

STKはオブジェクトの階層でシナリオを表現する。最低限押さえるのは次の対応である。

オブジェクト役割本書での対応
Scenario解析期間・時系・単位系の器第2.6章(時系と参照系)
Satellite / Vehicle探査機。伝播器と力学モデルを持つ第1部全体
Facility / Place地上局。測地座標を持つ第2.6章(局位置)
Sensorアンテナビーム・視野。指向則を持つ『地上局工学』第2部
Access2オブジェクト間の可視区間第5.1章(パス設計)
Chain複数ホップの経路(局→中継→探査機)中継運用の可視解析

ここで意識しておくべきは、「伝播(軌道を作る)」と「解析(作った軌道から量を計算する)」が 分離されているという設計である。伝播が間違っていれば解析結果はすべて間違うが、 解析側は何も警告しない。したがって検算は必ず伝播の段階で行う。

5.8.2 伝播器の選択 — 深宇宙で使えるものは限られる

ここが最大の分岐点である。伝播器の選択を誤ると、以降の作業がすべて無意味になる。

伝播器力学モデル使ってよい対象深宇宙で使えるか
TwoBody点質量のみ感覚を掴む、検算△ 検算用としてのみ
J2 / J4 Perturbation地球扁平の解析近似地球周回の粗い解析× 使わない
SGP4TLE専用の解析理論地球周回物体カタログ× 絶対に使わない(第5.5.4)
HPOP数値積分。重力場・第三体・SRP・抵抗を設定可能高精度が要る軌道全般○ 中心天体を正しく選べば使える
AstrogatorHPOP相当+マヌーバとターゲッティングミッション設計、TCM計画◎ 惑星間はこれ
SPICE外部カーネルを読むだけ(伝播しない)確定した軌道の利用◎ 運用中の実軌道
Ephemeris(外部取り込み)点列を補間するだけOEMで受け取った軌道◎ 予報の可視化

実務での使い分けは単純である。 これから作る軌道を設計するなら Astrogator、 すでに軌道決定で確定した軌道を使うなら SPICE か外部エフェメリス取り込み。 HPOPを深宇宙で直接使うのは、感度解析や検討段階に限られる。

5.8.3 中心天体と参照系 — 最大の事故源

STKの既定の中心天体は地球である。惑星間軌道をそのまま地球中心で扱おうとすると、 「地球の重力圏をはるかに超えた双曲線軌道」を延々と積分することになり、 結果は物理的に無意味になる。

正しくは、フェーズに応じて中心天体を切り替える。

打上げ〜地球離脱: 地球中心 惑星間巡航: 太陽中心(または太陽系重心) 目標天体接近〜周回: 目標天体中心

Astrogatorでは Mission Control Sequence の中で中心天体を切り替えられる。 切り替え点は影響圏(第1.4.2)の内外で選ぶが、 切り替えの前後で状態ベクトルが連続していることを必ず確認する。 ここで座標変換を誤ると、数千km級の跳びが入る。

参照系も同様に注意がいる。ICRF・J2000・EME2000・各天体の慣性系・各天体の固定系。 OEMやSPICEから取り込むときは、ファイルに書かれた参照系とSTK側の設定が一致しているかを 毎回確認すること。この確認を省略した結果として起きる誤差は、 「なんとなく合わない」という形で現れるので気づきにくい。

5.8.4 力学モデルの設定 — 第1部との対応

HPOP / Astrogator の力学モデル設定画面は、本書第1部の目次とほぼ一対一に対応する。

STKの設定本書深宇宙での設定の要点
Central Body Gravity(次数・位数)第1.3章巡航中は点質量で十分。周回では次数を上げる。上げすぎは計算時間の無駄
Third Body Gravity第1.4章巡航中は太陽・地球・木星を最低限。目標天体接近時は必須
Solar Radiation Pressure(Cr, 面積/質量)第1.5章最も効く設定。球モデルは近似。実機は箱翼で扱うべき
Atmospheric Drag第1.6章深宇宙では不要。惑星周回の低高度でのみ
Integrator(種類・許容誤差・刻み)第1.2章許容誤差を緩めると静かに精度が落ちる。必ず可逆性で検算
Planetary Ephemeris第1.4.3章DEの版を明示的に選ぶ。軌道決定側と揃える
【Cr と 面積/質量 は「合わせ込み」の値である】 STKのSRPは既定で球モデル(一様な反射率 Cr、実効面積 A)を使う。 これは実機の形状とは似ても似つかない。
軌道決定(第4.7章)で推定した Cr をSTKに入れると数字は合うが、 それは物理的な反射率ではなく、姿勢プロファイルまで含めた実効値である。 姿勢運用が変われば値も変わる。Cr を「機体の物性値」として扱ってはいけない。

5.8.5 Access — 可視解析と拘束条件

局と探査機の可視区間を求めるのがAccessである。深宇宙の運用計画では最も使う機能だが、 既定の設定では実運用の可視と一致しない。拘束条件を明示的に入れる必要がある。

拘束条件なぜ要るか典型的な値
最低仰角低仰角では媒質誤差と雑音が増え、実用にならない10〜15°(測距要求があればさらに高く)
局の機械的制限方位・仰角の可動範囲、天頂付近のキーホール局ごとに異なる
太陽離角(SEP角)合の近傍は雑音・プラズマで観測不能数度以下は除外(第3.3章)
送信禁止方位・仰角電波防護・他局保護局ごと(『地上局工学』第4.2章)
探査機側の指向可否HGAが地球を向けるか。姿勢制約ミッション依存

Accessの出力(AERレポート: Azimuth / Elevation / Range)は、 局への指向予報の元データにもなる。ただしSTKのAERをそのまま局に渡してはいけない。 局が必要とするのは光行時間を考慮した指向(電波が出発した時刻の方向ではなく、 いま電波が来ている方向)であり、局固有の指向モデル(『地上局工学』第2.3章)も要る。 第5.4章で扱う予報生成は、STKの出力を出発点にして別途組む作業である。

【Accessの検算】 仰角の計算は自分で書ける。局の地心直交座標 r_st と探査機位置 r_sc から 視線ベクトル d = r_sc − r_st を作り、局の局所天頂方向 ẑ との内積で仰角が出る。
この10行程度のコードとSTKのAERが一致することを、一度は確かめておく。 一致しなければ、参照系・時系・局座標の定義のどれかが食い違っている。

5.8.6 Astrogator — マヌーバとターゲッティング

Astrogatorは Mission Control Sequence(MCS)という一連のセグメントで軌道を組み立てる。

Initial State → Propagate(条件まで) → Maneuver(ΔV) → Propagate → …

実務で効くのは Target Sequence である。 「このΔVを調整して、目標天体到達時のB平面座標を指定値にする」といった 逆問題を、差分修正法(differential corrector)で解く。

ここで本書第5.3章(B平面)とつながる。TCMの設計とは、まさに 「B平面上の目標点に到達するΔVを求める」ことだからである。 Astrogatorの Target Sequence は次の3要素で構成される。

  • 制御変数(Control): 調整するもの。ΔVの大きさ・方向、点火時刻
  • 拘束(Constraint): 満たすべきもの。B·R、B·T、到達時刻、近点高度
  • 収束条件: 許容誤差と最大反復回数

差分修正法は数値微分でヤコビアンを作って反復する。 収束しないときの原因はほぼ決まっているので、順に潰す。

症状原因対処
まったく収束しない制御変数と拘束の数が合っていない、感度がないヤコビアンを表示し、ゼロ列がないか見る
振動して収束しない摂動量(数値微分の刻み)が不適切Perturbation を桁で変えて試す
収束するが物理的に変局所解に落ちた、初期推定が悪い初期ΔVを解析的に見積もってから入れる
拘束を微妙に外す許容誤差の設定が緩いTolerance を要求から決める

5.8.7 外部軌道の取り込みと書き出し

運用中は、軌道決定の結果(OEM / SPICE)をSTKに読み込んで解析するのが基本形になる。 STKで伝播した軌道を運用に使うことは、通常はしない。正解は軌道決定側にあるからである。

取り込み時の注意は第5.5.3で述べたとおりで、参照系・時系・中心天体・補間次数の4点。 とくに補間次数を指定どおりに設定すること。STKは既定の補間次数を持っているので、 OEMの指定と食い違ったまま読み込まれることがある。

書き出しでは、渡す相手が何を期待しているかを確認する。 「STKからエクスポートしました」だけでは受け取る側が困る。 参照系・時系・中心天体・エポック間隔・補間次数を添えて渡すのが最低限である。

5.8.8 自動化 — GUIから抜け出す

可視解析を1回やるだけならGUIでよい。しかし 「追跡計画案を10通り作って比較する」「毎日の予報を自動生成する」 「較正天体を全期間分探索する」といった作業は、必ず自動化する。

STKは外部からの制御インタフェース(Connect コマンド、オブジェクトモデル、 Pythonバインディング)を持つ。設計の指針は次の2つ。

① シナリオをコードで組み立てる。GUIで作ったシナリオをコードで叩くのではなく、 シナリオそのものをコードから作る。そうすれば設定が全部テキストとして残り、 差分が取れ、レビューでき、再現できる。

② 出力は必ずファイルへ落とす。画面で見て判断するのではなく、 レポートをCSV等で吐かせて、比較・可視化は別の道具でやる。 STKを「計算機」として使い、「判断の場」にはしない。

5.8.9 STKを信用してよい範囲 — 検算の作法

本章で最も伝えたいのはここである。「STKがそう言った」は根拠にならない。 設定が間違っていれば、もっともらしい間違った答えが出る。しかも警告は出ない。

最低限やるべき検算を4つ挙げる。

① 二体問題との比較。摂動をすべて切って TwoBody で伝播し、 閉形式の解(第1.1章)と一致するか確認する。これで時系・単位・参照系の基本的な設定が検証できる。

② 保存量の確認。摂動なしなら軌道エネルギーと角運動量は保存する。 1周期積分して保存量がどれだけ変化するかを見れば、積分器の許容誤差設定が適切かが分かる。 相対変化が10⁻¹⁰を超えるようなら設定が緩い。

③ 独立実装との突き合わせ。可視解析(仰角)、光行時間、 ドップラの一次項あたりは、自分で数十行書けば計算できる。 第2部の式をそのまま実装して比較する。これが最も効く検算である。

④ 既知の事実との照合。近点通過時刻、食の時刻、既知のマヌーバ時刻が 想定どおりの時刻に現れるか。物理的に意味のあるイベントで確かめる。

【設定を記録する】 解析結果を人に見せるときは、伝播器・中心天体・参照系・時系・力学モデル・ 積分器設定・惑星暦の版・STKのバージョンを必ず併記する。 これがないと、半年後に自分でも再現できない。 シナリオファイルを版管理に入れておくのが最も確実である。
■ この章のまとめ
  • STKは「伝播」と「解析」が分離されている。伝播が誤っていても解析は警告しない。検算は伝播段階で行う
  • 深宇宙で使える伝播器は Astrogator(設計)と SPICE / 外部エフェメリス(運用中の実軌道)。SGP4は絶対に使わない
  • 既定の中心天体は地球。フェーズに応じて切り替え、切替点で状態が連続していることを確認する
  • 力学モデル設定は本書第1部と一対一に対応する。とくにSRPの Cr は物性値ではなく合わせ込みの実効値
  • Accessは拘束条件(最低仰角・SEP角・機械制限・送信禁止方位)を明示的に入れないと実運用と合わない
  • AERをそのまま局に渡してはいけない。予報生成は光行時間と局の指向モデルを含む別作業(第5.4章)
  • Astrogator の Target Sequence でB平面ターゲッティングができる。収束しないときの原因は限られている
  • 繰り返す作業は必ず自動化し、シナリオをコードで組み立てて版管理する
  • 「STKがそう言った」は根拠にならない。二体比較・保存量・独立実装・既知イベントの4つで検算する
STKはバージョンにより機能名・UI・既定値が変わる。 本章は設計の考え方を扱っており、操作手順書ではない。 実務で用いる際は、使用するバージョンの公式資料で機能名と既定値を確認し、 解析結果には必ず検証したバージョンを併記すること。
■ 姉妹書

本書は、深宇宙探査の通信・航法を扱う教科書群の一冊である。重複を避けて書き分けているので、 隣の巻と行き来しながら読むことを想定している。

本書の数値は設計初期の目安である。実設計・実手続では対象ミッションの正式諸元と、 CCSDS / ITU-R / JERG / 電波法関係法令の原文書に必ず拠ること。