電波航法と軌道決定

測距・ドップラ・ΔDORで探査機の位置を測り、軌道を推定し、運用として回すための一冊 — CCSDS / JAXA 実務準拠。
第 I 部 力学モデル — 軌道はどう決まるか
軌道が「決まる」とは何が決まることなのかを、力の側から積み上げる。重力・第三体・太陽輻射圧という三つの加速度が、それぞれどの精度でモデル化できるかが、以降の推定精度の上限を決める。

第1.1章二体問題と軌道要素

■ この章で学ぶこと
軌道決定とは、突き詰めればある時刻の状態ベクトル(位置3成分+速度3成分)を推定することである。 6つの数が決まれば、力学モデル(第1部の残りの章)が過去も未来も全部教えてくれる。 本章ではこの共通言語 — 状態ベクトルと軌道要素という二つの表現、その相互変換、 時刻から位置への写像(ケプラー方程式)— を整える。 さらに深宇宙で主役になる双曲線軌道と、誤差を議論する座標系RTNを導入する。 以降の全章は、ここで決めた言葉の上に立つ。

1.1.1 二体問題 — 6個の数がすべてを決める

質点が中心天体(重力定数 μ = GM)だけから力を受けるとき、運動方程式は

\ddot{\mathbf{r}} = −\frac{μ}{r^{3}}\mathbf{r}

この解は円錐曲線(円・楕円・放物線・双曲線)になる。 重要なのは解の形そのものより、この方程式が2階・3成分であるという事実である。 初期条件として位置 r₀ と速度 v₀ の6成分を与えれば、軌道は一意に決まる。 軌道決定の未知数が最低6個なのは、ここから来ている。

μ の値(公開値)[km³/s²]
太陽1.32712440018×10¹¹
地球3.986004418×10⁵
火星4.2828×10⁴

出典:IAU/IERS技術ノートおよびJPL DE系惑星暦の公開定数。 μ は天体質量そのものより高精度に決まっている(質量はGの不確かさを引きずるが、μ は軌道観測から直接決まる)。 実務ではμを使い、Gと質量に分解しないこと。

1.1.2 軌道要素 — 同じ6個の数の「意味のある」表現

状態ベクトル (r, v) は計算に便利だが、軌道の形が読めない。 そこで同じ情報を軌道6要素に詰め替える:

要素記号決めるもの
軌道長半径a大きさ(エネルギー)
離心率e形(円0 〜 楕円 〜 1超で双曲線)
軌道傾斜角i軌道面と向き(3つで空間配置)
昇交点赤経Ω
近点引数ω
真近点角ほかν, E, M軌道上のどこにいるか(時刻に対応)

(r,v) → 要素の変換は、角運動量 h = r×v、 離心率ベクトル e = (v×h)/μ − r/r、 エネルギー ε = v²/2 − μ/r = −μ/2a の3つを計算すれば芋づる式に出る。 逆変換(要素 → r,v)は軌道面内で位置・速度を書いてから3回転(Ω, i, ω)で慣性系へ戻す。 どちらの向きも一度は手で書き下しておくべきで、章末演習1がそれである。

【特異点に注意】 e≈0 では ω が、i≈0 では Ω が定義できなくなる(どこが「近点」「昇交点」か決まらない)。 推定でこの近傍を扱うと数値が暴れるため、実務の推定変数は要素ではなく 状態ベクトル(直交座標)を使うのが普通である(第4部)。 軌道要素は人間が読むための表現、状態ベクトルは計算のための表現 — と役割を分けて覚えるとよい。

1.1.3 ケプラー方程式 — 時刻と位置をつなぐ

楕円軌道上の位置と時刻の関係は、平均近点角 M(時間に比例)と離心近点角 E を結ぶ

M = E − e\,\sin E, M = n(t − t_p), n = \sqrt{μ/a^{3}}

で与えられる。E から真近点角 ν へは tan(ν/2) = √((1+e)/(1−e))·tan(E/2)。 この方程式は E について陰なので数値的に解く。ニュートン法

E_{k+1} = E_k − \frac{E_k − e\sin E_k − M}{1 − e\cos E_k}

で通常は数回で収束するが、e が1に近い(0.9超の)楕円では初期値が悪いと発散・遅収束する。 深宇宙では捕獲直後の長楕円軌道などで実際に踏む領域なので、 初期値の工夫(E₀ = M + e·sinM など)と反復上限・収束判定を必ず入れる。章末演習2で体感してほしい。

1.1.4 双曲線軌道 — 惑星間ではこちらが主役

惑星の重力圏を脱出・通過する軌道は e > 1 の双曲線である。楕円との対応は:

楕円双曲線
エネルギー ε=−μ/2a負(a>0)正(a<0)
特徴速度V∞ = √(μ/|a|)(無限遠での残速)
ケプラー方程式M = E − e sinEM = e sinh H − H
漸近線半開角 cos θ∞ = −1/e。B平面(第5.3章)の土台

スイングバイ・惑星到着の航法目標は「双曲線のどこを通るか」であり、 その自然な言語が漸近線基準のB平面座標(第5.3章)である。 V∞ はミッション設計と航法をつなぐ最重要量で、 打上げエネルギー C3 = V∞² として公表される値がそれである。

1.1.5 RTN — 誤差を語るための座標系

中心天体(焦点) 探査機 R(動径) T(進行方向) N(軌道面外・紙面手前) 近点方向 真近点角 ν a・e が形を、i・Ω・ω(図では省略)が空間の向きを、ν が「今どこか」を決める
図1.1-1 軌道要素とRTN座標。 RTN(動径・進行方向・面外)は探査機と一緒に回る座標系で、 誤差・摂動・マヌーバを「どの向きに効くか」で語るための言語である。 たとえばドップラが強く決めるのは視線方向、SRP(第1.5章)が効くのは主にR方向、 進行方向Tの誤差は時間とともに増幅される — という具合に、以降の章はRTNで語られる。

RTN成分で覚えておくべき力学の性質を一つ:T方向(進行方向)の小さな速度誤差は、 周期の変化を通じて沿道方向の位置誤差として時間とともに線形〜二次で成長する。 同じ大きさの誤差でも、R・N方向は振動的に留まる。 「軌道決定の誤差はまずT方向から漏れる」という感覚は、 データアーク設計(第4.5章)や予測精度(第5.4章)の議論で繰り返し使う。

Q. 軌道要素で推定しないのに、なぜ変換を両方向覚える必要があるのか
A. 入出力が要素だからである。ミッション設計から来る初期軌道も、 運用で配る軌道情報も、人間へ報告する軌道も要素や近点通過時刻の形をとる。 推定は状態ベクトルで回し、境界で変換する — その境界を自分で書けないと、 特異点や角度の折り返し(Ω の 0/2π 跨ぎ)で事故を起こす。
Q. 二体問題は実際には成り立たないのに、なぜ最初に置くのか
A. 摂動論の基準だからである(第1.2章)。実軌道は二体解から少しずれた曲線であり、 「ずれ」だけをモデル化・積分するほうが精度も見通しも良い。 また共役解析の直観(T方向誤差の成長など)は二体問題の性質から出る。 二体は「使う近似」ではなく「測る物差し」である。
■ この章のまとめ
  • 軌道決定の実体はある時刻の状態ベクトル6成分の推定。以降すべての前提
  • 軌道要素は同じ6個の情報の可読表現。推定は直交座標、読み書きは要素と役割を分ける
  • e≈0・i≈0 の特異点、ケプラー方程式の高離心率での収束に実務上の罠がある
  • 惑星間の主役は双曲線。V∞・漸近線がB平面(第5.3章)につながる
  • RTNが誤差の言語。T方向の速度誤差は沿道位置誤差として成長する
μ・惑星定数はJPL DE系暦・IAUの公開値から取ること(付録C)。 本文の値は執筆時点の公開値の丸めである。変換式の完全な導出は付録Cの教科書(Vallado等)に譲り、 本書は実装と落とし穴に重心を置いた。

第1.2章摂動と数値積分 — 現実の軌道は閉じない

■ この章で学ぶこと
現実の運動方程式は二体項+摂動加速度の和であり、解析解はもう無い。 ここから軌道は「解く」ものではなく「数値積分する」ものになる。 本章では①摂動の定式化、②積分の流儀(コーウェル/エンケ)、 ③推定に必須の変分方程式(状態遷移行列の作り方)、④積分器の選択と検算を扱う。 地味な章だが、ここでの選択が観測残差の床を決める — モデルと積分の誤差は、観測をいくら増やしても消えないからである。

1.2.1 摂動つき運動方程式と、その桁

\ddot{\mathbf{r}} = −\frac{μ}{r^{3}}\mathbf{r} + \mathbf{a}_{grav}(高次重力) + \mathbf{a}_{3body} + \mathbf{a}_{SRP} + \mathbf{a}_{thermal} + \mathbf{a}_{drag} + …

各項の中身は第1.3〜1.6章で扱う。まず全体の桁を掴む。

加速度 [km/s²](対数軸)— 惑星間巡航(1 au)の探査機の例 太陽二体項 〜6×10⁻⁶ km/s² 第三体(木星・地球等) 幾何で大きく変わる(第1.4章) 太陽輻射圧 SRP 〜10⁻¹⁰ km/s² 級(第1.5章) 熱輻射・ガス漏れ SRPの1/10〜1/100(第1.5章) 相対論的補正 小さいが系統的(第3.4章)
図1.2-1 摂動加速度の桁(模式・対数)。 二体項から5桁下のSRPまでが軌道に効き、さらにその1%(二体項の7桁下)の モデル誤差が観測残差に見える — これが深宇宙軌道決定のモデル精度の相場である。 月・惑星近傍では高次重力(第1.3章)、小天体近傍では形状重力と非重力(第1.6章)が主役に代わる。

1.2.2 コーウェル法とエンケ法

コーウェル法エンケ法
積分する量全加速度をそのまま基準二体軌道からの差分だけ
利点単純・汎用。現代の主流差分が小さいので同じ刻みで高精度
欠点大きい数と小さい数の加算で桁落ちに注意差分が育つと基準軌道の張り替え(rectification)が要る

倍精度演算と可変刻みが当たり前になった現在、実務はほぼコーウェル法である。 エンケ法の発想は、しかし死んでいない — 「大きな既知部分を引き算してから扱う」は、 観測方程式の残差化(第4.1章の線形化)と同じ思想であり、 数値のスケーリングという形で至る所に生きている。

1.2.3 変分方程式 — 推定への接続部

軌道決定は「初期状態を少し動かすと、後の時刻の状態がどう動くか」を必要とする(第2.7章・第4部)。 これを与えるのが状態遷移行列 Φ(t, t₀) = ∂x(t)/∂x(t₀) であり、変分方程式

\dot{Φ}(t,t_0) = A(t)\,Φ(t,t_0), Φ(t_0,t_0) = I, A(t) = \frac{∂\dot{\mathbf{x}}}{∂\mathbf{x}}\bigg|_{x(t)}

軌道と同時に積分して得る。A(t) の主要部は重力勾配 ∂g/∂r(3×3)である。 推定パラメータ(SRP係数など)への感度も同じ形の方程式(センシティビティ行列)で運ぶ。

【数値微分との使い分け】 Φは初期値を±δずらした軌道の差分(数値微分)でも作れる。 変分方程式より実装が楽で、モデルにどんな項を足しても自動で正しい。 弱点は計算量(6+n本の軌道積分)と差分刻みの選択。 実務では変分方程式で実装し、数値微分で検算するのが定石である。章末演習2がこれである。

1.2.4 積分器の選択

系統代表特徴・使いどころ
1段法(Runge-Kutta系)RKF7(8)、DOP853自己起動・可変刻みが容易。不連続(マヌーバ・影の出入り)に強い。汎用の第一選択
多段法(Adams系)Adams-Bashforth-Moulton滑らかな区間で高効率。起動と不連続の扱いに手間
二階専用Gauss-Jackson軌道伝統の高精度法。固定刻みの長期積分で強い

選択より大事なのは検算の習慣である。 ①許容誤差を1桁変えて解が動かないこと、 ②往復積分(tまで進めてt₀へ戻す)で初期値が回復すること、 ③エネルギー・角運動量など保存量のドリフト監視(保存力場の区間で)。 この3点で積分誤差はモデル誤差から分離できる。 「残差が合わない」ときに積分を疑えるかどうかは、この検算を仕込んであるかで決まる。

1.2.5 刻み幅と特異な区間

可変刻みは万能ではない。実務で刻みが暴れる(=精度が落ちる)典型区間を挙げる: 近点通過(加速度が急変 — 長楕円で顕著)、影の出入り(SRPが不連続 — 第1.5章)、 マヌーバ(有限噴射 — 第5.2章)、スイングバイ近傍(第三体項が急成長 — 第1.4章)。 対処は共通で、不連続点を積分の区切りに一致させる(イベント検出して刻みを切る)こと。 不連続を跨いで高次積分器を使うのは、高級カメラでピンボケを撮るようなものである。

Q. 積分誤差はどのくらいまで落とせばよいのか
A. 観測精度より十分下、が答えである。ドップラ残差0.1 mm/s級・レンジ残差1 m級を狙うなら、 積分誤差はその1桁下に置く。現代の倍精度+高次積分器なら惑星間巡航で数週間のアークでも 到達可能な水準であり、普通は積分誤差ではなくモデル(第1.3〜1.6章)と較正(第3部)が律速になる。 ただしそれは検算(1.2.4)で積分を潰してあるときに言えることである。
Q. 状態遷移行列は6×6を積分すると36本。重くないか
A. 重いが、軌道1本の積分に比べて桁で重くはない(右辺の評価は共通部分が多い)。 また Φ は基準軌道の周りの線形量なので、軌道本体より緩い許容誤差で積分してよい。 現代の計算機で問題になる規模ではない — 問題になるのは実装の正しさで、だから数値微分検算が要る。
■ この章のまとめ
  • 実軌道=二体+摂動。二体項の7桁下の残差まで見えるのが深宇宙の観測精度
  • 実務の積分はコーウェル法。エンケの「既知を引いてから扱う」思想は残差化として生きる
  • 変分方程式で状態遷移行列を軌道と同時に積分する。数値微分で検算する
  • 積分器はRK系高次が第一選択。許容誤差変更・往復積分・保存量の三点検算を仕込む
  • 不連続(影・マヌーバ・近点)は積分の区切りに一致させる
  • 積分誤差は観測精度の1桁下へ。通常はモデルと較正が律速になる
図1.2-1の数値は1 au巡航の典型例による桁の説明であり、ミッション・幾何で大きく変わる。 自分のミッションの摂動予算表を第1.3〜1.6章の式で必ず作り直すこと。

第1.3章重力場 — 球面調和展開と観測感度

■ この章で学ぶこと
天体の重力は点質量ではない。ふくらみ・凹凸・内部構造の偏りが、 軌道への摂動として現れる。周回軌道の軌道決定では 重力場がモデル誤差の最大の供給源であり、 同時に、その摂動を電波で精密に測れば天体の内部を覗く科学観測になる(第6.5章)。 本章では球面調和展開の読み方と、 「何次まで入れれば足りるか」を高度から即答できる感覚 — (R/r)ⁿ の減衰則 — を身につける。

1.3.1 球面調和展開

天体外部の重力ポテンシャルは、球面調和関数で展開できる:

U = \frac{μ}{r}\left[1 + \sum_{n=2}^{∞}\sum_{m=0}^{n}\left(\frac{R}{r}\right)^{n} \bar{P}_{nm}(\sinφ)\,\big(\bar{C}_{nm}\cos mλ + \bar{S}_{nm}\sin mλ\big)\right]

R は基準半径、C̄・S̄ がStokes係数(正規化済み)で、これが「重力場モデル」の中身である。 直観的な対応:n=2, m=0(いわゆるJ₂ = −C̄₂₀の非正規化版)が扁平、 n=2, m=2 が赤道の楕円さ、次数が上がるほど細かい凹凸を表す。 係数の呼び方には正規化の流儀があるので、モデルを使うときは正規化規約を必ず確認する。

出典:公開重力場モデルの例 — 地球はEGM2008/GOCE系(数千次まで公開)、 月はGRAIL計画によるGRGM系(1000次超)、火星はMROなどの追跡データによるMRO120系。 いずれも係数ファイルが公開されており、実装にそのまま読み込める(付録C)。 月・火星の高次場が「探査機のドップラ追跡」だけから決まったという事実は、 本書の第2〜4部の技術が科学を生む実例である。

1.3.2 何次まで要るか — (R/r)ⁿ がすべてを決める

展開の各次数は距離とともに (R/r)ⁿ で減衰する。これが本章の中心式である。 高度 h の円軌道(r = R+h)で、n次項の相対寄与は概ね (R/(R+h))ⁿ に比例する:

次数 n →(0〜50) log₁₀(R/r)ⁿ 0 −4 −8 高高度 R/r=0.6(h≒0.67R) 低高度 R/r=0.85(h≒0.18R) 実務の打ち切り目安(要求精度に依存)
図1.3-1 (R/r)ⁿ の対数減衰。 直線の傾きが log(R/r)。低い軌道ほど傾きが緩く、高次項が生き残る。 同じ天体でも高度が半分になれば必要次数は倍増する感覚である。 逆に 2R も離れれば重力場はほぼ点質量+J₂で足りる — 打ち切り次数は高度から即答できる。
状況目安
惑星間巡航(惑星から遠い)点質量のみ(第三体として — 第1.4章)
高い周回軌道(h ≳ R)数次〜10次程度
低高度周回(h ≪ R)・重力科学数十〜数百次。モデル誤差が航法誤差の主役に
小天体近傍球面調和が収束しない領域あり — 第1.6章の別手法へ

1.3.3 重力場誤差が軌道予測へ伝わる経路

係数の誤差 δC̄ₙₘ は毎周回同じ場所で同じ向きに効くため、 軌道に共鳴的・累積的な誤差を作る。とくに:

  • 沿道方向に累積 — 周期の誤差として効き、T方向誤差(第1.1章)が周回数に比例して育つ
  • 特定の次数と共鳴 — 軌道周期と天体自転の整数比に近いとき、特定の (n,m) 項が増幅される
  • 予測で顕在化 — データアーク内では観測が押さえ込むが、 アークを出た瞬間からモデル誤差として成長する(第5.4章の予測劣化の主因)

推定側の対処は三つ:①十分な次数まで入れる、②不確かさを consider parameter として 共分散に伝える(第4.6章)、③いっそ係数自体を推定する(次節)。

GRAILの重力データから求めた月の地殻厚マップ
図1.3-2 これが「重力場を決める」ことの成果物である。 GRAIL探査機の追跡データ(=本書第2〜4部の道具そのもの)から推定された重力場をもとに作られた、 月の地殻厚の全球マップ。左が表側、右が裏側。 カラーバーは地殻厚0〜60 km で、青ほど薄く赤ほど厚い。裏側(右)が全体に厚く、表側(左)の海が薄いという非対称が一目で読める。 画像: NASA/JPL-Caltech/S. Miljkovic(NASA Image Library, PIA17674)。
ドップラで測った位相のゆらぎが、天体の中身の地図になる — 次節と第6.5章で扱う「決める側に回る」の到達点を、先に見せておく。

1.3.4 決める側に回る — 重力科学への入口

③を突き詰めたものが重力場推定である。 探査機を「重力場のテスト質量」、ドップラを「加速度センサの読み」と見なし、 Stokes係数を状態ベクトルに加えて推定する(第4.2章のバッチ推定の拡張)。 月の裏側の質量集中(マスコン)も、火星の内部構造も、この方法で測られた。 軌道決定と重力科学は同じ数学の表と裏であり、 違いは「係数を誤差源と見るか、観測対象と見るか」だけである。 本格的な話は第6.5章(電波科学)で扱う。

Q. J₂ だけ特別扱いされるのはなぜか
A. 桁が違うからである。地球ではJ₂(≈1.08×10⁻³)は他の係数より3桁大きく、 昇交点の歳差・近点の回転という永年変化を生む唯一の支配項になる。 軌道設計(太陽同期軌道など)はJ₂を道具として使う。 ただし月では低次係数の序列が地球ほど極端でなく、火星もJ₂の次にJ₃系が効くなど、 天体ごとに性格が違う — 「J₂+点質量」という地球の直観を他天体に持ち込まないこと。
Q. 演習のヒント:J₂の加速度はどう見積もるか
A. 摂動加速度の桁は a ≈ 3J₂(μ/r²)(R/r)² で見積もれる。 低軌道(r≈R)なら二体項の3J₂倍=3×10⁻³倍。 20次項なら同様に n²Cₙₘ(μ/r²)(R/r)ⁿ の桁で、(R/r)²⁰ の減衰と係数の小ささ(10⁻⁶級)の積になる。 この2行の暗算ができれば、図1.3-1を自分で再構成できる。
■ この章のまとめ
  • 重力場は球面調和展開+Stokes係数で表す。係数ファイルが「モデル」の実体
  • (R/r)ⁿ の減衰が全て。打ち切り次数は高度から即答できる(高度半分→次数倍)
  • 係数誤差は累積的・共鳴的に効き、予測フェーズで顕在化する
  • 対処は「次数を足す・considerで伝える・係数ごと推定する」の三段
  • 係数を推定すれば重力科学になる。軌道決定と内部構造探査は同じ数学の表裏
公開モデル(EGM2008・GRGM・MRO系等)の入手先と正規化規約は付録C。 使用するモデルの版と併せて基準半径Rとμを揃えること — 係数だけ差し替えてRを揃え忘れるのが定番の事故である。

第1.4章第三体摂動と惑星暦

■ この章で学ぶこと
惑星間空間では、探査機は太陽を回りながら、惑星たちに絶えず引っ張られている。 第三体摂動は巡航フェーズの最大の「既知の」摂動であり、 その計算には惑星がどこにいるか — 惑星暦(エフェメリス)— が要る。 本章では第三体加速度の正しい書き方(間接項を忘れない)、 近似(影響圏・パッチドコニック)が使える範囲、 そして実務の背骨であるDE暦とSPICEを「使う側の視点」で押さえる。 暦は所与のデータではなく、それ自体が軌道決定の産物である — この視点も持ち帰ってほしい。

1.4.1 第三体加速度 — 間接項を忘れるな

中心天体(太陽)を原点とする座標系で、第三体(質量パラメータ μ₃、位置 r₃)が 探査機(位置 r)に与える摂動加速度は

\mathbf{a}_{3body} = μ_{3}\left[\frac{\mathbf{r}_{3}−\mathbf{r}}{|\mathbf{r}_{3}−\mathbf{r}|^{3}} − \frac{\mathbf{r}_{3}}{|\mathbf{r}_{3}|^{3}}\right]

第1項は探査機が引かれる直接項、第2項は「原点(太陽)も第三体に引かれて動いている」 ことを補正する間接項である。座標系が非慣性であることの代償であり、 間接項を落とすのは初学者の定番の誤りである。 遠方の第三体では両項がほぼ打ち消し合い、差(潮汐項)だけが残る — 数値的にも近い数の引き算になるので、桁落ちに注意して実装する。

1.4.2 影響圏とパッチドコニック — 設計の言葉、航法では使わない

ミッション設計の初期検討では、空間を「どの天体が支配するか」で分割し (影響圏 SOI:半径 ≈ a(m/M)^{2/5})、各区間を二体問題で近似して繋ぐ パッチドコニック法が使われる。地球のSOIは約92万km、火星は約58万kmである。

本書の立場でははっきり言っておく:これは設計の見積り道具であり、軌道決定では使わない。 精密軌道決定は常に全天体の摂動を同時に入れた数値積分(第1.2章)で行う。 SOIの外だから地球を無視してよい、ということは全くない — 図1.4-1が示すとおり、 摂動は境界で消えるのではなく連続的に減るだけである。

地球からの距離(対数)→ 10⁴ km ・・・ 10⁶ km ・・・ 10⁸ km log a 地球(1/d² で減衰) 太陽(ほぼ一定) 交点:どちらの「二体」で見るかの境目 (SOI ≈ 9.2×10⁵ km はこの近傍)
図1.4-1 地球脱出時の摂動の入れ替わり(模式・両対数)。 地球の重力は距離とともに連続的に弱まり、太陽項と交差する。 境界は「支配者の交代点」であって「地球を無視してよい線」ではない — 航法計算では両方を常に入れる。設計近似(パッチドコニック)と航法モデルを混同しないこと。

1.4.3 惑星暦 — DE系の中身と精度

第三体項の r₃(t) を与えるのが惑星暦である。実務の標準はJPLのDE系 (現行世代はDE440/DE441)で、欧州のINPOP、ロシアのEPMも同格の公開暦である。

出典(公開情報):DE440はJPLが公開する惑星・月暦で、 レーダ測距・探査機追跡・月レーザ測距・VLBIなど数十年分の観測から最小二乗推定で構築される。 内惑星の位置精度はkm級以下(火星は探査機追跡のおかげでとくに良い)、 外惑星は周回探査機の有無で精度が大きく異なる。 チェビシェフ多項式の係数列として配布され、任意時刻の位置・速度を高速に補間評価できる。 DE441は長期間版(約±13,000年)である。(JPL公開文書・付録C)

使う側として押さえるべきは三点: ①暦の時刻引数はTDB(第3.5章 — TTと最大1.7 ms周期差)、 ②暦と一緒に整合した定数セット(μ・AUなど)を使う(暦だけ差し替えて定数を残すと不整合)、 ③暦の誤差は自分の軌道解の誤差になる — 火星接近航法の最終精度が暦の火星位置精度を超えられないのは当然で、 だから接近フェーズでは天体相対の観測(光学航法 — 第2.5章)が要る。

1.4.4 SPICE — 暦を配る事実上の標準

NASA/NAIFのSPICEは、暦・姿勢・時刻・座標系変換を統一的に扱う公開ツールキットで、 深宇宙実務の共通言語である。最低限の語彙:

カーネル中身本書での関わり
SPK天体・探査機の位置(軌道)DE暦も探査機軌道もこの形式で流通(第5.4章の配布)
LSKうるう秒(時刻変換)第3.5章の時系変換の実装
PCK天体の自転・形状・定数天体固定系との変換(第1.3章の重力場評価)
CK / FK姿勢/座標系定義光学航法(第2.5章)・アンテナ指向

SPICEを使う利点は計算の再現性である — 同じカーネルセットを指定すれば誰でも同じ数値が出る。 逆に言えば、結果の交換にはカーネルの版の交換が必須である。 「同じDE440のはずなのに合わない」の多くは、LSKの版差や定数の不整合による(第5.5章のメタデータ問題と同型)。

1.4.5 一貫性 — 暦・定数・座標系はセットで一つ

本章の結論を一般化しておく。暦・質量定数・基準座標系(第2.6章)・時系(第3.5章)は 一体で推定された一貫系であり、部分だけ差し替えることはできない。 モデル更新のたびに「セットで揃っているか」を確認する — チェックリストにするなら:暦の版/定数ファイルの版/うるう秒ファイルの版/座標系実現の版、の4点である。

Q. 暦の精度がkm級なら、探査機の軌道決定もkm級が限界なのか
A. 「何に対する位置か」で答えが変わる。太陽系重心に対する絶対位置は暦の精度に縛られる。 しかし航法で本当に要るのは目標天体に対する相対位置であり、 接近時は光学航法・着陸時は天体相対の観測で、暦誤差の大部分は共通モードとして消せる。 「絶対は暦なり、相対は観測なり」— この使い分けが接近航法の設計(第6.1章)の骨格である。
Q. 演習のヒント:支配項の入れ替わり距離はどう求めるか
A. Horizons(JPLの公開暦インタフェース)から任意時刻の地球・月・太陽位置を取り、 1.4.1の式で探査機位置を地球からの距離の関数として振って各項を計算する。 図1.4-1の交点を自分の数字で再現し、SOI半径と比べてみること。 交点が「線」ではなく幾何(太陽方向との角度)で動くことも確認できると良い。
■ この章のまとめ
  • 第三体加速度は直接項−間接項。間接項を落とすのが定番の誤り。遠方では桁落ちにも注意
  • SOI・パッチドコニックは設計の見積り道具。軌道決定は常に全摂動の同時積分
  • 暦の標準はDE440/441(公開)。時刻引数はTDB、定数とセットで使う
  • 暦の誤差は解の誤差になる。絶対は暦なり、相対は観測なり
  • SPICEが流通の標準。再現性はカーネルの版の共有で担保される
  • 暦・定数・座標系・時系は一貫系。部分差し替え禁止、版の4点チェック
DE暦・SPICEの入手はNAIF公開サイト(付録C)。 本文のSOI半径・精度の記述は公開資料に基づく桁の目安であり、 評価が要る場面では使用する暦の公式文書で確認すること。

第1.5章太陽輻射圧と熱的加速度 — 非重力力の本丸

■ この章で学ぶこと
重力はどこまでも精密にモデル化できる(第1.3〜1.4章)。 深宇宙の軌道決定精度を最後に律速するのは、たいてい非重力力 — 太陽の光が機体を押す力、機体自身が熱と電波を放つ反動、そして配管から漏れるガス — である。 これらは機体の形状・姿勢・熱状態に依存し、探査機ごとに違い、時間とともに変わる。 本章ではSRPの物理から箱翼モデルへの抽象化、姿勢との結合、 アンテナ反力の桁、そして「読めない加速度」をどう推定で吸収するか(第4.7章への伏線)までを扱う。 歴史的にはパイオニア・アノマリー — 探査機の熱輻射が「未知の力」に見えた事件 — が、 この章の重要性を最もよく物語っている。

1.5.1 SRPの物理 — 光は押す

太陽定数 G☉ ≈ 1361 W/m²(1 auでの公開値)の光が面に当たると、 光子の運動量流束 P☉ = G☉/c ≈ 4.54×10⁻⁶ N/m² の圧力が働く。 面積A・質量mの機体に対する加速度の基本形は

\mathbf{a}_{SRP} = −\frac{P_{☉}A}{m}\left(\frac{1\,\mathrm{au}}{r}\right)^{2} C_r\,\hat{\mathbf{s}}

C_r は反射特性をまとめた係数(1〜2弱)、ŝ は太陽方向。桁を入れると、 A/m = 0.02 m²/kg(中型探査機の典型)・C_r=1.3 で a ≈ 1.2×10⁻⁷ m/s² = 10⁻¹⁰ km/s²級(1 au)。 重力(太陽二体項 6×10⁻³ m/s²)の5桁下だが、効き方が違う — 常に太陽と反対向きに押し続けるため誤差が積分で育つ。 仮にモデルを1%外せば残差加速度は1.2×10⁻⁹ m/s²、 等加速度で1年積もれば Δx = at²/2 ≈ 600 km。 ドップラは0.1 mm/s級の速度変化を見るから(第2.3章)、 SRPのモデル誤差は数%どころか1%でも残差にはっきり現れる

反射の内訳で力の向きが変わる:吸収は太陽方向の力のみ、 鏡面反射は面法線方向に2倍効き、拡散反射は法線方向に2/3が加わる。 面ごとの光学係数(吸収率・鏡面率・拡散率)が要る理由である。

1.5.2 箱翼モデル — 実機を6+2枚の板に潰す

実機(曲面・突起・影) 抽象化 箱(6面) +翼(両面)=8枚の平板 面ごとに(面積, 法線, α, ρ_s, ρ_d) 姿勢を掛けて 面ごとに合算
図1.5-1 箱翼(box-wing)モデル化の手順。 実機の曲面・突起を「箱6面+太陽電池翼2面」の平板集合に潰し、 面ごとの光学係数で1.5.1の力を計算して合算する。 精度が要るミッションでは面数を増やし、相互の影・多重反射をレイトレースで評価した 係数表を作る — が、どこまで精緻にしても残差は残り、それは推定で吸収する(第4.7章)。

1.5.3 姿勢との結合 — 姿勢誤差は軌道誤差になる

箱翼モデルの入力は姿勢である。太陽電池翼は太陽を向くが機体は通信・観測で向きを変え、 面ごとの照射は姿勢履歴で決まる。ここから重要な帰結が出る:

  • 姿勢テレメトリは軌道決定の入力データである。姿勢の記録が粗いミッションは、その分SRPモデルが粗くなる
  • 姿勢モード変更・大角度スルーは加速度の不連続として現れる(第1.2章:積分の区切り)
  • 推定側から見ると、SRP係数の誤差と姿勢の系統誤差は縮退しやすい — 分離には長いアークと幾何の変化が要る

1.5.4 熱輻射とアンテナ反力 — 機体自身が押す

機体が放つものにも反動がある。放射パワー P の指向性放射は F = P/c の反力を生む。

a_{ant} = \frac{P_{tx}}{mc} (送信電波の反力)

P_tx = 80 W、m = 600 kg なら a = 80/(600×3×10⁸) ≈ 4.4×10⁻¹⁰ m/s² — SRPの1/300ほどだが、向きが常に一定(アンテナ指向の逆)で積分が効く — 等加速度で1年なら約220 kmに相当する(章末演習)。 向きは既知(アンテナ指向の逆)なので、モデル化すれば消せる。 同様に、機体各面の温度差による熱輻射の非対称(RTGや放熱面の配置)も定常加速度を生む。

公開事例:パイオニア10/11号の追跡データに現れた微小加速度(約8.7×10⁻¹⁰ m/s²、 いわゆるパイオニア・アノマリー)は、長年の解析の末、 RTGと機器の熱輻射の非対称でほぼ説明できることが示された(2010年代の再解析、公開文献)。 「未知の物理」に見えたものの正体が熱設計だった — 非重力力のモデル化が航法と基礎物理の両方にとってどれほど重いかを示す、最良の教材である。

1.5.5 読めない加速度 — 脱ガス・リーク・運用イベント

打上げ直後の材料からの脱ガス、推進系バルブの微小リーク、 姿勢制御スラスタ噴射の非対称(オフモジュレーション)、モーメンタムホイールのアンローディング。 これらは事前モデルが原理的に書けない加速度である。実務の扱いは:

  1. 運用イベント(アンローディング等)は時刻つきの小さなΔVとして推定する(第5.2章)
  2. ゆっくり変わる成分は経験的加速度(区分定数・一次のRTN成分など)として状態に加える
  3. それでも残る不規則成分は確率過程(SNC/DMC — 第4.7章)としてフィルタに吸わせる

この三段構えは「決定論的に書けるものはモデルへ、書けないものは統計へ」という 本書後半の中心思想の最初の実例である。

Q. C_r を推定すればSRPモデルの粗さは吸収できるのでは?
A. 一部は吸収できるが、C_r は太陽方向のスケール1個にすぎない。 実機のSRPは姿勢で向きが変わり、面ごとの劣化(光学係数の経年変化)もある。 C_r 1個で吸収し切れない分が残差の年周・自転周期成分として現れたら、 箱翼の面別係数推定や経験的加速度(第4.7章)へ拡張する、という段階論で臨む。
Q. 影(食)の扱いは?
A. 惑星の影に入ればSRPは消える。円錐影モデルで本影・半影を判定し、 境界は積分の区切りに一致させる(第1.2章)。 周回軌道では毎周の食がSRPを周期的にオンオフし、 これがかえって係数の可観測性を助ける(変化があるほど分離できる — 第4.8章の一般論)。
■ この章のまとめ
  • SRPは P☉ ≈ 4.5×10⁻⁶ N/m²、典型で10⁻¹³ km/s²級 — 1年で数十kmに積もる
  • 実機は箱翼モデル(面ごとの面積・法線・光学係数)に潰してモデル化する
  • 姿勢テレメトリは軌道決定の入力。姿勢誤差・モード変更はSRP経由で軌道誤差になる
  • アンテナ反力 P/(mc) はSRPの数分の一 — モデル化すれば消せる。熱輻射非対称も同様(パイオニアの教訓)
  • 読めない加速度はΔV推定・経験的加速度・確率過程の三段構えで吸収する(第4.7章へ)
太陽定数・P☉は公開の標準値。パイオニア・アノマリーの再解析は公開文献(付録C)。 箱翼の光学係数は機体の熱設計・材料データから作り、飛行データで較正し続けるものと心得ること。

第1.6章小天体近傍の力学と大気抵抗

■ この章で学ぶこと
第1部の締めくくりとして、「二体+小さな摂動」という描像が崩れる二つの領域を扱う。 一つは小惑星・彗星・小衛星の近傍 — 重力が弱く不規則で、SRP(第1.5章)が重力と同格以上になる世界。 もう一つは惑星大気に触れる低高度 — 抵抗という散逸力が入り、 大気密度という最大級に不確かなモデルと付き合う世界である。 はやぶさ2(第6.1章)とMMX(第6.2章)の近傍航法は前者の、 エアロブレーキングや低高度周回科学は後者の実戦である。 共通する教訓は一つ:力学が弱く・不確かな領域ほど、軌道は「設計」で守る

1.6.1 不規則重力 — 球面調和が使えなくなる場所

球面調和展開(第1.3章)はブリュアン球(天体を囲む最小の球)の外側でしか収束が保証されない。 ジャガイモ形の小天体の「くびれ」の近くはこの球の内側であり、 展開は発散しうる。近傍運用では別の表現に切り替える:

モデル仕組み特徴
ポリヘドロン形状モデル(三角メッシュ)から一様密度を仮定して解析積分表面まで正確・発散なし。形状と密度一様性に依存
質点集合(mascon)内部に点質量を敷き詰めて和を取る実装容易・密度非一様も表せる。表面近傍の精度に難
球面調和(参考)第1.3章遠方では有効。近傍では発散リスク

形状モデル自体は接近後の光学観測(第2.5章)から作られる。 つまり重力モデルの精度が観測の進行とともに育つ — 「まず遠くから測って形を作り、近づいて重力を測り、さらに近づく」という 段階的接近(第6.1章)の力学的な根拠がここにある。

1.6.2 重力とSRPの逆転 — 桁の感覚

半径 R_a・密度 ρ_a の小天体の表面重力は g ≈ (4/3)πGρ_a R_a。 距離 d での重力加速度と、SRP加速度(第1.5章の10⁻⁷ m/s²級・1 au)を比べると:

\frac{a_{grav}}{a_{SRP}} ≈ \frac{μ_a/d^{2}}{10^{-7}\,\mathrm{m/s^2}}  (μ_a ≈ 6×10^{-5}\,\mathrm{km^3/s^2}:半径500 m級・ρ=1.2 g/cm³の例)

この例では d ≈ 20 km で両者が同格になる。 すなわちホームポジション級の距離では、SRPは重力と互角の「主要力」であり、 摂動どころか軌道の存在自体を左右する。 SRPに逆らって留まるには燃料を使い続けるか、力学の助けを借りる — それが次の二つの選択肢である。

1.6.3 近傍に「居る」ための二つの解

  • ホバリング(はやぶさ型) — 周回せず、太陽–天体線上の平衡的な位置に スラスタ制御で滞在する。力学的には不安定だが、制御と航法(高度計・光学 — 第6.1章)で保つ。 小さく不規則な天体ほどこちらが有利
  • 準衛星軌道 QSO(MMX型) — 天体を「周回」するのではなく、 天体の公転軌道のすぐ内外を並走しながら、相対座標で見ると天体を回る共回転系の安定軌道に乗る。 フォボスのように母惑星(火星)の重力が支配する環境で有効で、 燃料をほぼ使わず近傍に留まれる。第6.2章のMMXがこの実戦である
ホバリング(はやぶさ型) 小天体 制御噴射 太陽光(SRP) 準衛星軌道 QSO(MMX型) フォボス 相対座標で天体を回る(実体は火星周回の並走軌道)
図1.6-1 近傍滞在の二つの解。 左:不安定平衡を制御で保つホバリング — 燃料と引き換えに任意の位置。 右:共回転系の力学的安定を使うQSO — 燃料ほぼゼロだが軌道の形は力学が決める。 どちらを選ぶかは天体の重力の強さと運用要求(着陸・観測ジオメトリ)で決まる。

1.6.4 大気抵抗 — 最も不確かなモデルと付き合う

低高度の惑星周回では抵抗加速度が入る:

\mathbf{a}_{drag} = −\frac{1}{2}\,\frac{C_d A}{m}\,ρ\,v_{rel}\,\mathbf{v}_{rel}

C_d(抵抗係数、自由分子流で2前後)と密度 ρ が問題である。 とくに ρ は、太陽活動・地方時・季節で数十%〜倍半分で変わる。 火星では大気波動・ダストストームでさらに読めない。 実務の相場観として:

  • 密度モデルの誤差は系統的かつ時間相関を持つ — 白色雑音ではない(第4.7章のDMC向きの誤差)
  • 抵抗は常にv_relの逆向き(散逸)なので、沿道方向に単調に積もる — T方向誤差の典型源
  • エアロブレーキング運用では毎周回の実測減速から密度を推定して次周回を予測する — モデルを信じず、測って更新するループで運用する

1.6.5 「弱い力学」の航法原則

本章の二領域に共通する実務原則をまとめる。第6部の事例を読む前提になる。

  1. 軌道は設計で守る — モデル精度で殴り合わず、不確かさに強い軌道(QSO・ターミネータ軌道・ ホバリング)を選ぶ。航法の仕事の半分はミッション設計の段階にある
  2. 観測は天体相対へ — 地球からの電波観測(絶対)だけでは足りず、 光学・高度計・地形相対(第2.5章)で天体相対の状態を直接測る
  3. モデルは飛びながら育てる — 形状→重力→密度と、観測でモデルを更新し続ける。 「最初から正しいモデル」は存在しない前提で推定系を組む(第4.7章)
Q. 小天体の μ はどうやって最初に知るのか
A. 接近前は望遠鏡観測からの推定(サイズ+密度の仮定)で桁しか分からない。 接近後、フライバイや遠距離周回での軌道の曲がりをドップラで測って初めて数%の精度になる。 はやぶさ2はリュウグウ到着後の運用でμを決めた(第6.1章)。 「μを測るまでは近づけない、近づかないとμが測れない」を段階的接近で解くのが定石である。
Q. 惑星のエアロブレーキングでC_dとρは分離できるのか
A. できない — 観測に効くのは積 C_d·A·ρ だけである(可観測性の典型例、第4.8章)。 実務では C_d·A を地上解析値に固定し、まとめて「密度スケール係数」を推定する。 分離できない積を無理に分けない、というのも推定設計の作法である。
■ この章のまとめ
  • 球面調和はブリュアン球の外でだけ有効。近傍はポリヘドロン/質点集合へ切替える
  • 小天体近傍ではSRPが重力と同格以上 — 摂動ではなく主要力
  • 滞在の二解:ホバリング(制御で保つ)とQSO(力学で保つ)
  • 大気密度は数十%級で不確か・時間相関つき。測って更新するループで運用する
  • C_d·A·ρ は積でしか見えない — 分離できない積は分けずに推定する
  • 弱い力学の三原則:軌道は設計で守る・観測は天体相対へ・モデルは飛びながら育てる
小天体の形状・重力モデル(はやぶさ2/リュウグウ等)は公開アーカイブにある(付録C)。 大気モデル(地球のNRLMSIS・火星のMars-GRAM等)も公開だが、 モデル間・モデル対実測の差そのものが誤差予算の項目になる(第3.6章)。
第 II 部 観測量と観測方程式
レンジ・ドップラ・ΔDOR・光学。それぞれが状態空間のどの方向を拘束するのかを、観測方程式と偏微分の形まで下ろす。CCSDS/JAXAの実装もここで扱う。

第2.1章観測量の全体像 — 何を測ると何が決まるか

■ この章で学ぶこと
第2部は観測量の各論(レンジ・ドップラ・ΔDOR・光学)に入るが、 その前に本章で地図を描く。各観測量は状態空間(位置3+速度3)の 別々の方向を拘束する。この図式を先に持っておけば、 各論は「どの方向を・どの精度で・どんな系統誤差つきで」測るかという整理で読めるし、 追跡計画(第5.1章)の設計原理 — なぜ三種を組み合わせるのか — も自明になる。 あわせて、以降のすべての章で使う観測方程式と残差の言葉を定義する。

2.1.1 観測方程式と残差 — 本書の中心概念

どんな観測量も、次の形に書ける:

y = h(\mathbf{x}, t) + ε

y が実測値、h が「状態 x がこうなら観測はこうなるはず」というモデル計算値、 ε が誤差である。軌道決定の全作業は 残差 y − h(x̂) を白色雑音らしくなるまで小さくすることに帰着する。 残差に構造(バイアス・傾き・周期)が残っていれば、 それは状態の誤りか、h のモデル(第1部・第3部)の誤りか、データの異常(第4.9章)である。 残差は捨てるゴミではなく、読む対象である — 本書で最も繰り返すことになる態度をここで宣言しておく。

2.1.2 三つの幾何 — 距離・距離変化率・角度

地上局 探査機 視線方向 レンジ・ ドップラ ΔDOR・光学 (横方向2軸) 誤差楕円:視線方向はレンジ/ドップラが細く絞り、 横方向はΔDOR・光学が絞る — 直交する道具の組合せ
図2.1-1 本書で最重要の図:観測量と拘束方向。 レンジ(距離)とドップラ(距離変化率)は視線方向に強く、横方向にはほぼ盲目。 ΔDOR・光学は角度=横方向を直接測るが、距離には盲目。 三次元の誤差楕円を全方向から絞るには、直交する道具の組合せが要る。
観測量測る量拘束する方向典型精度(現代・較正後)各論
レンジ距離(2-way光行時間)視線方向の位置。絶対距離の基準m級〜sub-m第2.2章
ドップラ距離の変化率(=差分レンジ)視線方向の速度。パスの形として間接的に横方向も0.1 mm/s級(60 s積分)第2.3章
ΔDOR2局間の到達時刻差=角度横方向の位置を直接数nrad(1 auで数百m)第2.4章
光学天体に対する視線方向天体相対の横方向カメラ分解能×距離第2.5章

2.1.3 相補性 — なぜ組み合わせるのか

表の「拘束する方向」を見れば、単独の観測量では6自由度が埋まらないことが分かる。 実務の組合せの論理:

  • ドップラが主食 — 連続的に取れて安く、視線方向を細かく拘束する。 地球自転が作る日周署名から赤経・赤緯も間接的に決まる(第2.3章)。 だが幾何の悪い時期(黄道面近くの探査機など)には横方向の縮退が起きる
  • レンジが物差し — 1点で絶対距離を確定する(第5.1章の「1点で効く」)。 ドップラの積分定数を留める役
  • ΔDORが横綱 — 縮退した横方向を幾何的に直接叩く。会合前・投入前の決め所で使う(第5.1章)
  • 光学は天体相対 — 暦誤差(第1.4章)を回避して目標相対の状態を測る。接近・近傍の主役

この分担は第5.1章(いつ何を取るか)の設計原理そのものであり、 第4.8章(可観測性)で数学として裏付けられる。

2.1.4 精度の読み方 — 「観測精度」は一つの数ではない

表の精度の数字はランダム誤差(雑音)の目安であり、実効精度は三層で決まる:

  1. 雑音 — S/Nと積分時間で決まるばらつき(各論の精度式)
  2. 系統誤差 — 媒質・機器遅延・時計(第3部)。較正残差が実効精度を決めることが多い
  3. モデル整合 — h(x) 側の力学・幾何モデル誤差(第1部)。観測がいくら良くても h が粗ければ残差は落ちない

「レンジ精度1 m」という言明は、①だけなら簡単、②込みだと較正の腕前(第5.6章)、 ③込みだと軌道決定システム全体の実力を意味する。 誤差予算(第3.6章)はこの三層を一枚の表に並べる作業である。

Q. ドップラを時間積分すればレンジになるのでは? なぜ別々に要るのか
A. ドップラは差分レンジ(第2.3章)なので積分で「距離の変化」は完全に復元できるが、 積分定数=絶対距離だけは原理的に出ない。またドップラの系統誤差(媒質の緩い変動)は 積分で蓄積する。絶対の物差しとしてのレンジ、変化の顕微鏡としてのドップラ、という分業である。
Q. GPSのように多数の電波源で一発測位はできないのか
A. 深宇宙にはGPS衛星網がない。1本の視線(地球の局)からの測距・測速で、 地球自転と探査機の運動が作る時間方向の幾何変化を使って6自由度を決める — これが深宇宙OD の本質的な形である(瞬時測位ではなく軌道あてはめ)。 将来の月測位網(『周波数管理と国際調整』第6.2章)は、月圏に限りこの形を変えるかもしれない。
■ この章のまとめ
  • すべては y = h(x) + ε。残差は読む対象であり、白色になるまでが仕事
  • レンジ・ドップラは視線方向、ΔDOR・光学は横方向 — 直交する道具の組合せで楕円を絞る
  • 実務の分担:ドップラが主食、レンジが物差し、ΔDORが決め所、光学が天体相対
  • 精度は雑音・系統誤差・モデル整合の三層。較正(第3部)とモデル(第1部)が実効精度を決める
  • 深宇宙ODは瞬時測位ではなく時間方向の幾何変化を使った軌道あてはめ
精度の数字は現代の較正後の桁の目安(各論とDSN公開文書 — 付録C — に基づく)。 ミッション・時代・幾何で変わるため、設計には自条件の誤差予算(第3.6章)を組むこと。

第2.2章レンジ観測方程式

■ この章で学ぶこと
測距は「往復時間×光速÷2」ではない。地球は電波が往復する数十分のあいだに回り続け、 信号は真空でない媒質を通り、時空は曲がっている。本章では光行時間方程式から出発して 観測方程式を完全な形で書き下し、CCSDS PN測距の信号構成、 測距精度と要求 P_R/N_0 の関係式、電力配分、透過測距と再生測距の差、 そして較正までを扱う。第4部の推定に渡せる形にすることが目的である。

2.2.1 光行時間方程式 — 「距離」とは何と何の距離か

2-way測距では3つの時刻が登場する。地上局が測距信号を送信した時刻 t_1、探査機が折り返した時刻 t_2、 地上局が受信した時刻 t_3 である。火星距離では t_3 − t_1 が20〜40分に達するから、 その間に地球は数百度ぶん自転し、局は数百km動く。t_1 の局位置と t_3 の局位置は別の点である。 したがって「距離 ρ」という言い方は、それだけでは定義になっていない。

正しくは、次の2本の陰関数方程式(光行時間方程式)で定義される。

c·(t_2 − t_1) = |r_{sc}(t_2) − r_{st}(t_1)| + Δ_{up} c·(t_3 − t_2) = |r_{st}(t_3) − r_{sc}(t_2)| + Δ_{down}

ここで r_st は局位置、r_sc は探査機位置、Δ は媒質・相対論による経路延長である (第3部で扱う)。観測される量は t_3 − t_1 と、機上の折返し遅延 τ_tr であり、 観測量としての測距値は次で定義される。

ρ_{obs} = \frac{c·\big[(t_3 − t_1) − τ_{tr}\big]}{2}

この ρ_obs は幾何学的な距離そのものではなく、2本の経路長の平均である。 推定の側でこれと同じものを計算しなければ、系統誤差になる。

局 @ t₁(送信) 局 @ t₃(受信) 自転 探査機 @ t₂(折返し) 上り ρ_up(t₁→t₂) 下り ρ_down(t₂→t₃) t₁の局位置とt₃の局位置は別の点 — 「距離」は2本の経路長の平均でしか定義できない
図2.2-1 光行時間の3時刻。 火星距離では t₃−t₁ が20〜40分あり、その間に局は数百km動く。 観測量 ρ_obs は上り・下りの経路長の平均であって、ある瞬間の幾何距離ではない。 推定側(第2.7章)も同じ定義で計算しなければ系統誤差になる。

2.2.2 光行時間方程式を解く

上の2式は t_2 について陰であり、反復で解く。順序が重要で、下りを先に解く。 観測されるのは t_3(受信時刻)だからである。

τ_{down}^{(0)} = 0 τ_{down}^{(k+1)} = \frac{|r_{st}(t_3) − r_{sc}(t_3 − τ_{down}^{(k)})|}{c} + \frac{Δ_{down}}{c}

これで t_2 = t_3 − τ_down が定まる。次に上りを同じ形で後ろ向きに解いて t_1 を得る。 収束は速い。反復1回ごとに誤差は概ね (v_rel/c) 倍に縮むので、探査機の視線速度が30 km/sでも 1回で10⁻⁴、2回で10⁻⁸、3回でほぼ丸め誤差に達する。 実装では3回固定か、変化量が1 psを下回るまで、とすればよい。

【実装上の注意】 反復の中で r_sc を評価する時刻は毎回変わる。 軌道は数値積分された離散点として持っているのが普通なので、補間の精度が光行時間の精度を直接決める。 探査機速度30 km/sで補間誤差1 msなら30 mの誤差になる。積分ステップの出力間隔とラグランジュ補間の次数は、 要求測距精度(cm級)から逆算して決めること。1 cmを守るには時刻誤差0.3 µs以下、 つまり60秒間隔の出力なら7次以上の補間が要る。

2.2.3 観測方程式の完全形 — 補正項をすべて並べる

推定に使う観測方程式は、幾何項に補正項をすべて足した形である。 「どれを入れ、どれを落としたか」を明示的に管理することが、系統誤差を制御する唯一の方法である。

ρ_{calc} = \frac{1}{2}\big[|r_{sc}(t_2) − r_{st}(t_1)| + |r_{st}(t_3) − r_{sc}(t_2)|\big] + δ_{tropo} + δ_{iono} + δ_{plasma} + δ_{rel} + δ_{st} + δ_{sc} + b_{st}
中身典型的な大きさ扱い本書の該当章
δ_tropo対流圏遅延(乾燥+湿潤)天頂2.3 m / 仰角10°で13 m気象データで較正、残差は推定第3.1章
δ_iono電離層遅延X帯で0.1〜2 m二周波較正 or TECマップ第3.2章
δ_plasma太陽コロナSEP角に強依存。合近傍で数百m以上Ka帯化・追跡停止第3.3章
δ_relShapiro遅延・座標時変換数十m(太陽近傍では数百m)必ずモデルで入れる第3.4章
δ_st局の機器遅延(送受の群遅延)数百ns〜µs(=数十〜数百m)ゼロ点較正で実測第5.6章
δ_sc機上折返し遅延 τ_tr数百ns〜µs、温度依存あり地上試験で取得、温度モデル本章2.2.9
b_st局ごとの残存バイアス数十cm〜数m推定するか consider にする第4.6章・第5.6章

桁を見てほしい。幾何以外の項の合計は、測距の測定精度(10 cm級)より2〜3桁大きい。 測距が「精密な観測量」であるのは、これらを較正しきったあとの話である。 精度の議論を測定器の性能だけでするのは、この表を見ていないということになる。

2.2.4 測距信号の構成 — CCSDS PN測距

測距信号に求められるのは相反する二つで、精密さ(位相を細かく読める=高い周波数成分が要る)と 一意性(どのサイクルかが決まる=長い周期が要る)である。 現行標準の CCSDS PN測距(CCSDS 414.1-B)は、周期の異なる6本の短い二値符号を 重み付き多数決で1本に合成することで、この二つを同時に満たす。

成分符号の周期は 2, 7, 11, 15, 19, 23 チップ。互いに素だから、合成符号の周期は積になる。

L = 2×7×11×15×19×23 = 1\,009\,470 チップ

周期2チップの成分 C_1 はチップレートの半分の方形波であり、これがレンジングクロックとして精度を担う。 残る C_2〜C_6 があいまい解決を担う。これは中国剰余定理を電波でやっているのと同じことで、 各成分符号との相関から得た位相(=各周期での剰余)が揃う点が、周期 L の中で一意に決まる。

f_{RC} = \frac{R_{chip}}{2}, ρ_{amb} = \frac{c·L}{2·R_{chip}} = \frac{c·L}{4·f_{RC}}
【例2.2-1】あいまい範囲 R_chip = 2.0 Mcps とすると f_RC = 1.0 MHz、 ρ_amb = 3×10⁸ × 1 009 470 /(2 × 2×10⁶) ≈ 7.6×10⁷ m = 約7.6万km。 一方クロック単独のあいまい範囲は c/(4 f_RC) = 75 m。 75 mの精密さと7.6万kmの一意範囲を、同時に1本の信号で成立させている。 予報軌道が7.6万kmより良ければ(深宇宙では常にそうである)、距離は完全に一意に決まる。

電力配分には2種類の標準符号がある。T4B はクロック成分 C_1 に電力の約88%を集中させ、 測距精度を優先する。T2B は C_1 を約39%に抑えて成分符号に配り、捕捉時間を優先する。 巡航中の弱いリンクでは T4B、素早い再捕捉が要る場面では T2B、というのが選択の基準になる。

成分符号の並び・重み・T4B/T2B の正確な電力配分係数 ξ_n は CCSDS 414.1-B の表から直接転記すること。本文の百分率は設計初期の目安である。 またJAXAの局・トランスポンダがどの符号系をどのチップレートで支援するかは、 対象システムのICDで確認すること。

2.2.5 精度の理論限界と、要求 P_R/N_0

ここが本章の中心である。測距精度は測定器の巧拙ではなく、推定理論の下限で決まる。

受信した測距信号と局内の参照波形の相関を時間 T だけ積分する。信号成分は毎瞬同じ向きに積み上がるので 振幅は T に比例して育ち、雑音は向きがランダムだから √T でしか育たない。 積分後のSNRは (P_R/N_0)·T まで改善する。位相誤差は「信号ベクトルに直交する向きの雑音」を 「信号の長さ」で割ったものであり、雑音のうち直交成分に効くのは半分だから

σ_{φ} = \frac{1}{\sqrt{2·(P_{R}/N_{0})·T}} [rad]

となる。これはクラメール・ラオ下限に一致しており(第4.9章で一般論として扱う)、 これ以上うまい測り方は原理的に存在しない。位相を距離に直すと、 2-way(往復で位相が2倍積算される)だから

σ_{ρ} = \frac{c}{4π f_{RC}}·σ_{φ} = \frac{c}{4π f_{RC}\sqrt{2·(P_{R}/N_{0})·T}}

実務でよく要るのは逆向きの式である。目標測距精度 σ_ρ を達成するのに必要な P_R/N_0

\frac{P_{R}}{N_{0}} = \frac{1}{2T}\left(\frac{c}{4π f_{RC} σ_{ρ}}\right)^{2}
【例2.2-2】要求 P_R/N_0 を出す f_RC = 1 MHz、積分時間 T = 60 s、目標 σ_ρ = 10 cm のとき
c/(4π f_RC σ_ρ) = 3×10⁸/(4π×10⁶×0.1) = 238.7
P_R/N_0 = 238.7²/(2×60) = 474.7 → 26.8 dBHz
同じ条件で σ_ρ = 1 cm を狙うと 100倍、つまり 46.8 dBHz が要る。 精度を1桁上げるには測距電力を20 dB増やすか、積分時間を100倍にするか、クロックを10倍にするしかない。 これが「測距精度は簡単には上がらない」ことの数学的な理由である。

この式は設計会議でそのまま使える。測距要求が「10 cm」と言われたら、 リンクバジェット側に 26.8 dBHz を要求として渡し、 それが成立しないなら「積分時間を延ばす」「クロックを上げる」「要求を緩める」の三択になる。 積分時間を延ばす選択は、探査機の加速度によって位相が曲がる(コヒーレンス時間の限界)ので無限には伸びない。

2.2.6 変調指数と電力配分 — 測距に何割渡すか

P_R は総受信電力 P_T のうち測距に配分された分である。配分は位相変調指数で決まり、 ここが通信系設計者と航法担当が正面からぶつかる場所になる。

測距変調が方形波(PN測距はこちら)で変調指数 θ_R のとき、残留搬送波と測距の電力比は

\frac{P_{C}}{P_{T}} = \cos^{2}θ_{R}, \frac{P_{R}}{P_{T}} = \sin^{2}θ_{R}

正弦波測距(トーン測距)ではベッセル関数になる。

\frac{P_{C}}{P_{T}} = J_{0}^{2}(θ_{R}), \frac{P_{R}}{P_{T}} = 2J_{1}^{2}(θ_{R})

テレメトリ副搬送波も同時に載せる場合は、それぞれの因子の積になる (各変調が独立に電力を取り分ける)。

\frac{P_{C}}{P_{T}} = \cos^{2}θ_{R}·J_{0}^{2}(θ_{D}), \frac{P_{R}}{P_{T}} = \sin^{2}θ_{R}·J_{0}^{2}(θ_{D})

ここに三すくみが生じる。残留搬送波は受信機PLLがロックを保つのに要り、 テレメトリはデータを運ぶのに要り、測距は航法に要る。総電力は一定である。 測距変調指数を上げると、必ず搬送波かテレメトリのどちらかが痩せる。

【例2.2-3】配分の実際 θ_R = 0.5 rad(方形波)、テレメトリ副搬送波 θ_D = 1.0 rad のとき
P_C/P_T = cos²(0.5)·J₀²(1.0) = 0.770 × 0.586 = 0.451(−3.5 dB)
P_R/P_T = sin²(0.5)·J₀²(1.0) = 0.230 × 0.586 = 0.135(−8.7 dB)
総受信電力が P_T/N_0 = 36 dBHz なら P_R/N_0 = 27.3 dBHz。 例2.2-2の要求26.8 dBHzをかろうじて満たす。マージンは0.5 dBしかない。 仰角が下がるか降雨があれば、その瞬間に測距要求は割れる。 第5.1章で扱う「いつRARRを取るか」は、このマージンの時間変化を見る作業でもある。

実務では、測距を打つパスと打たないパスを分けるのが普通である。 測距中はテレメトリレートを一段落とす、という運用がよく取られる。 この判断はリンクバジェットの問題ではなく、航法要求との調停である。

2.2.7 透過測距と再生測距 — 上りの雑音をどう扱うか

探査機が測距信号をどう折り返すかで、達成できる精度が大きく変わる。

透過測距(transparent / turn-around ranging)は、受信した測距変調をそのまま位相を保って 下りに載せ直す。実装は単純だが、上りで乗った雑音も一緒に増幅して送り返す。 機上受信の測距 SNR を (P_R/N_0)_up、下りのそれを (P_R/N_0)_down とすると、 地上での実効的な測距 SNR は概ね

\left(\frac{P_{R}}{N_{0}}\right)_{eff} = \left[\left(\frac{P_{R}}{N_{0}}\right)_{up}^{-1} + \left(\frac{P_{R}}{N_{0}}\right)_{down}^{-1}\right]^{-1}

という直列合成になる。上りが弱ければ、下りをいくら強くしても実効SNRは上がらない。 深宇宙では上りの電力は地上局の送信電力(数十kW)で稼げるが、 機上受信アンテナは小さく、機上の系雑音温度は数百K〜千K級なので、 上りが律速することは珍しくない。

再生測距(regenerative ranging)は、機上で測距符号を復元してから作り直して送り返す。 符号が既知の二値系列であることを使うので、上りの雑音は復元の段階で断ち切られる。 その結果、地上での測距 SNR は下りだけで決まる。

\left(\frac{P_{R}}{N_{0}}\right)_{eff} ≈ \left(\frac{P_{R}}{N_{0}}\right)_{down}

上りが律速している状況では、これは数dBから状況によっては10 dB以上の改善になる。 代償は機上の複雑さ(符号追尾ループを載せる)と、 再生の追尾ループがロックを失うと測距そのものが止まるという運用上の脆さである。 CCSDS 414.1-B は再生測距を前提とした符号系を規定している。

Q. 再生測距なら上りは弱くてよいのか?
A. いいえ。上りの測距 SNR は「復元できるか」の閾値を割ってはならない。 閾値を超えていれば上りの雑音は伝わらない、という非線形な効きかたをする。 透過測距が「上りの弱さが精度として連続的に効く」のに対し、 再生測距は「閾値までは全く効かず、割ると全く測れない」。 運用としてはマージンの持ち方が変わる。
Q. 折返し遅延 τ_tr は透過と再生で違うのか?
A. 違う。透過はアナログ経路の群遅延そのもの、 再生は符号追尾ループの処理遅延が支配的で、しかもチップ単位の量子化を含むことがある。 どちらも地上試験で実測し、温度依存を取る必要がある(2.2.9)。

2.2.8 あいまい解決と捕捉時間

測距を「打つ」と決めてから距離が出るまでには時間がかかる。 各成分符号の位相を推定するのに必要な時間が積み上がるからである。 成分 n に配分された電力比を ξ_n² とすると、その成分の相関SNRは ξ_n²·(P_R/N_0)·T_n で育つ。 必要な検出確率を満たす T_n を各成分について求め、合計したものが捕捉時間になる。

設計上の含意は単純で、T4B(クロックに集中)は精度が良いが捕捉が遅く、T2B は逆である。 巡航中のように「1パスで1点取れればよい」場面では T4B、 軌道投入直後のように「早く距離が欲しい」場面では T2B、という使い分けになる。

なお、深宇宙では予報軌道の不確かさがあいまい範囲(例2.2-1で7.6万km)よりずっと小さいため、 あいまい解決は「保険」であって主役ではない。 あいまい解決が本当に効くのは、長期間追跡が途切れたあとの再捕捉や、 予期しないマヌーバがあった直後である。

2.2.9 較正 — ゼロ点、機上遅延、局遅延

2.2.3の表で見たとおり、測距バイアスは測距精度より2桁大きい。 したがって較正の質が測距の質である

局側(ゼロ点較正)。局内で送信信号を受信系に折り返し、 「距離ゼロ」に対応する測距値を実測する。これを実観測から差し引く。 折返し点をどこに取るかで何が較正できるかが変わり、 アンテナ給電部で折り返せばほぼ全経路が入るが、実施は容易でない。 詳しくは姉妹書『地上局工学』第6.7章で扱う。

機上側(折返し遅延 τ_tr)。トランスポンダの群遅延を地上試験で実測する。 重要なのは温度依存で、機上機器の温度は太陽距離と姿勢で数十K変わる。 群遅延の温度係数が 1 ns/K なら、50 Kの変動で 50 ns = 7.5 m の測距バイアス変動になる。 これは無視できない。温度テレメトリと対応づけたモデルを作り、観測方程式に入れるのが正しい。

【現場で効く区別】群遅延と位相遅延 測距が測っているのは変調の包絡線の遅れ、つまり群遅延である。 一方ドップラが測っているのは搬送波位相の変化、つまり位相遅延の時間微分である。 分散性の媒質(電離層・太陽プラズマ)では両者は符号すら逆になる(第3.2章)。 したがって「測距に効く補正」と「ドップラに効く補正」は別物であり、 同じ Δ を両方に足すのは誤りである。

2.2.10 残差に現れる系統誤差の顔

推定を回したあと、レンジ残差の形から原因を推測できるようになると、現場での切り分けが速くなる。

残差の見え方疑うべき原因確認方法
一定オフセット(全局・全パス)機上折返し遅延の見積り誤りτ_tr を推定パラメータに入れて再解
局ごとに違う一定オフセット局ゼロ点較正の誤り、局位置誤差3-way観測で局間バイアスを分離(第5.6章)
仰角と相関する形対流圏モデルの不足仰角 vs 残差でプロット、マッピング関数を疑う
1日周期の正弦局位置誤差、UT1/極運動、時刻タグドップラ残差にも同じ周期が出るか確認
ゆっくりしたドリフト機上温度依存、非重力力のモデル誤差温度テレメトリと相関を取る、第1.5章へ
合の前後だけ増大太陽プラズマSEP角 vs 残差(第3.3章)
飛び(1サイクル分)あいまい解決の誤り飛び幅が c/(4f_RC) の整数倍か確認

最後の行は覚えておく価値がある。残差の飛びが c/(4 f_RC) の整数倍なら、それはあいまいさの取り違えである。 f_RC = 1 MHz なら 75 m の整数倍。物理でなくロジックの誤りなので、力学モデルをいじっても直らない。

2.2.11 偏微分 — 第4部へ渡す

推定に使うには、観測量のエポック状態に対する偏微分が要る。 レンジの場合、幾何項の探査機位置に対する偏微分は視線方向の単位ベクトルそのものである。

\frac{∂ρ}{∂r_{sc}} ≈ \frac{1}{2}\big(\hat{u}_{up} + \hat{u}_{down}\big) ≈ \hat{u}

û は局から探査機へ向かう単位ベクトル。上りと下りで û はわずかに違う(地球自転のぶん)が、 偏微分の精度としては平均で足りることが多い。エポック状態への引き戻しは状態遷移行列を噛ませて

H_{ρ} = \frac{∂ρ}{∂x(t)}·Φ(t, t_{0})

とする。詳細は第2.7章。ここで重要なのは、レンジがû方向、つまり視線方向しか拘束しないという事実である。 視線に直交する2方向(横方向)については、レンジ観測はほとんど情報を持たない。 これがΔDOR(第2.4章)と光学航法(第2.5章)が必要になる理由であり、 同時にドップラが地球自転を使って横方向情報を絞り出す(第2.3章)理由でもある。

■ この章のまとめ
  • 測距値は幾何距離ではなく、上り経路長と下り経路長の平均。光行時間方程式を反復で解いて定義する
  • 幾何以外の補正項の合計は、測定精度より2〜3桁大きい。較正の質が測距の質を決める
  • CCSDS PN測距は周期 2,7,11,15,19,23 の6成分を合成し、L = 1 009 470 チップの一意範囲を作る。C_1 が精度、C_2〜C_6 があいまい解決
  • 精度の下限は σ_ρ = c /(4π f_RC √(2(P_R/N_0)T))。要求は P_R/N_0 = (c/(4π f_RC σ_ρ))²/(2T) で逆算できる
  • 精度を1桁上げるには測距電力20 dB増、積分時間100倍、クロック10倍のいずれかしかない
  • 電力配分は搬送波・テレメトリ・測距の三すくみ。測距指数を上げれば必ず他が痩せる
  • 透過測距は上りSNRと下りSNRの直列合成、再生測距は下りだけ。上りが律速する場面では再生が大きく効く
  • レンジは視線方向しか拘束しない。横方向はΔDOR・光学・地球自転署名に頼る
本章の CCSDS 414.1-B に関する記述(成分符号の重み、T4B/T2B の電力配分、 チップレートの規定値、再生測距の閾値条件)は、必ず標準原文書の該当表から転記して確認すること。 またJAXAの地上局・トランスポンダの支援範囲(対応チップレート、再生測距の可否、 τ_tr の実測値と温度係数)は対象システムのICDおよび試験成績書に拠ること。

第2.3章ドップラ観測方程式

■ この章で学ぶこと
深宇宙軌道決定の主力観測量。ドップラは「周波数の測定」ではなく位相のカウントであり、 その実体は差分レンジである。この見方に立つと、精度の式も、積分時間の設計も、 なぜ発振器の安定度が支配的になるのかも、一本で理解できる。 さらに地球自転がドップラに刻む1日周期の署名から、 なぜ視線方向しか測っていないはずのドップラで赤経・赤緯が決まるのかを導く。

2.3.1 ドップラ観測量の正体 — 位相カウントであること

地上局のドップラ抽出器が出力するのは瞬時周波数ではない。 基準周波数と受信周波数の差を、指定した計数区間 T_c にわたって積分したサイクル数である。

N_{c} = \int_{t_{a}}^{t_{b}} \big[G·f_{tx} − f_{rx}(t)\big]\,dt, T_{c} = t_{b} − t_{a}

ここで G はターンアラウンド比(2.3.2)。この積分に物理的な意味を与えると、見え方が一変する。 受信周波数は2-way経路長 S(t) = ρ_up + ρ_down の時間変化で決まるから f_rx = G f_tx (1 − Ṡ/c)、したがって

N_{c} = \frac{G·f_{tx}}{c}\int_{t_{a}}^{t_{b}}\dot{S}\,dt = \frac{G·f_{tx}}{c}\big[S(t_{b}) − S(t_{a})\big]

ドップラ観測量は、計数区間の両端における2-way経路長の差そのものである。 レンジがある瞬間の経路長を測るのに対し、ドップラは経路長の変化量を測る。 だから単位はサイクルであっても、実体は長さである。しかも搬送波の波長(X帯で3.6 cm)を 目盛りに使うので、測距クロック(1 MHzで300 m)よりはるかに細かい目盛りで測れる。 これがドップラが主力である理由である。

【この見方の効き目】 「ドップラは速度、レンジは位置」という理解では、なぜドップラだけで軌道が決まるのかが説明できない。 ドップラは差分レンジであると捉えれば、 ドップラを積み上げれば距離変化の履歴が復元でき、 そこに力学モデルを課せば軌道が決まる、と素直に理解できる。 唯一決まらないのは積分定数、つまり絶対距離である。だからレンジが要る。

2.3.2 ターンアラウンド比とコヒーレント2-way

探査機のトランスポンダは、受信した上り搬送波の位相に厳密に同期して下り搬送波を生成する。 比は有理数に固定されており、これをターンアラウンド比という。

上り / 下り比 G数値
S帯 / S帯240/2211.0859732110 MHz → 2291 MHz
X帯 / X帯880/7491.1749007150 MHz → 8401 MHz
S帯 / X帯880/2213.9819002110 MHz → 8402 MHz
X帯 / S帯240/7490.3204277150 MHz → 2291 MHz
X帯 / Ka帯3344/7494.4646197150 MHz → 31.92 GHz

比が有理数であることが本質的である。位相を保ったまま整数比で逓倍・分周できるので、 下り搬送波の位相は上り搬送波の位相の忠実な写しになる。 その結果、地上局の水素メーザ1台の安定度が、往復経路全体の位相基準になる。 これが「コヒーレント2-way」であり、深宇宙の精密ドップラを成り立たせている仕組みである。

2周波を同時に使う配置(X帯上り/X帯下り+Ka帯下り)が採られることがあるのは、 分散性媒質(電離層・太陽プラズマ)の較正のためである。第3.2章・第3.3章で扱う。

2.3.3 精度の理論限界と、要求 P_C/N_0

ドップラ精度も推定理論の下限で決まる。搬送波位相の測定精度は、測距と同じ形で

σ_{φ} = \frac{1}{\sqrt{2·(P_{C}/N_{0})·T_{c}}} [rad]

である(P_C/N_0 は残留搬送波の電力対雑音密度比。測距の P_R/N_0 とは別物)。 観測量は両端の位相差だから雑音は √2 倍になり、経路長差に直すと

σ_{ΔS} = \frac{c}{2π f_{D}}·\sqrt{2}·σ_{φ}, f_{D} = G·f_{tx}

平均距離変化率は ΔS/(2T_c) なので、最終的に

σ_{\dot{ρ}} = \frac{c}{4π f_{D}\sqrt{(P_{C}/N_{0})}·T_{c}^{3/2}}

という、実務でそのまま使える形になる。T_c の 3/2 乗で効くことに注意してほしい。 積分時間を4倍にすれば精度は8倍になる。測距(√T でしか効かない)よりずっと効率がよい。

逆に解いて、目標精度 σ_ρ̇ に必要な残留搬送波の要求は

\frac{P_{C}}{N_{0}} = \left(\frac{c}{4π f_{D}·σ_{\dot{ρ}}·T_{c}^{3/2}}\right)^{2}
【例2.3-1】熱雑音限界 f_D = 8.4 GHz、P_C/N_0 = 30 dBHz(= 1000)、T_c = 60 s のとき
4π f_D = 1.056×10¹¹、√1000 = 31.6、60^1.5 = 464.8
σ_ρ̇ = 3×10⁸ /(1.056×10¹¹ × 31.6 × 464.8) ≈ 0.19 µm/s
サブマイクロメートル毎秒。人が歩く速さの1億分の1である。

2.3.4 発振器安定度による床 — 実際にはここで止まる

例2.3-1の値は、実際には達成できない。周波数基準そのものの揺らぎが先に効くからである。

2-wayでは Δf/f = −2ρ̇/c だから、基準周波数に相対的な揺らぎ σ_y があると、 それはそのまま距離変化率の誤差に化ける。

σ_{\dot{ρ}}^{(osc)} = \frac{c}{2}·σ_{y}(τ)

ここで肝心なのはどの τ でのアラン偏差を使うかである。 素朴には計数区間 T_c と思いたくなるが、正しくない。 上り送信時刻 t_1 の基準位相と、下り受信時刻 t_3 の基準位相を比べているのだから、 基準が揺らいでよい時間スケールは往復光時間 RTLT である。 火星なら20〜40分、外惑星なら数時間になる。

【例2.3-2】どちらが支配するか 水素メーザの σ_y(60 s) ≈ 1×10⁻¹⁵、σ_y(1000 s) ≈ 1×10⁻¹⁵、σ_y(1時間) ≈ 2×10⁻¹⁵ 程度とする。 RTLT = 1時間の探査機なら
σ_ρ̇ (osc) = 1.5×10⁸ × 2×10⁻¹⁵ = 0.30 µm/s
これに対し例2.3-1の熱雑音限界は 0.19 µm/s。発振器の床のほうが大きい。
両者が等しくなる搬送波強度を求めると P_C/N_0 ≈ 26 dBHz。 深宇宙の通常運用では P_C/N_0 は 25〜40 dBHz なので、 ほとんどの場面でドップラ精度は熱雑音ではなく発振器で決まっている。

この結論は運用判断を変える。「ドップラ精度が足りない」という要求に対して、 送信電力を上げても大型局に替えても改善しない領域があるということである。 効くのは、より良い周波数標準、より長い計数区間、そして 媒質較正(第3部)と力学モデル(第1部)の改善のほうである。

なお非コヒーレント(1-way)ドップラでは、機上のUSOの安定度が直接効く。 USOの σ_y は10⁻¹²〜10⁻¹³ 級なので、2-wayより2〜3桁悪い。 機上原子時計(DSAC級、10⁻¹⁵)が意味を持つのはここである(第5.7章)。

2.3.5 計数区間の設計 — 短くすると何が起きるか

T_c は自由に選べる設計変数だが、両側から縛られる。

長くする方向の利益: 精度が T_c^{3/2} で改善する。データ量が減る。

長くする方向の損失: 区間内の加速度が平均されて潰れる。 マヌーバや短時間の異常加速度が見えなくなる。 区間内で ρ̈ が一定なら平均値は区間中央の瞬時値に等しいが、ρ⃛ が効くと偏る。

Δ_{smear} ≈ \frac{T_{c}^{2}}{24}·\dddot{ρ}
【例2.3-3】平滑化による偏り ρ⃛ = 10⁻⁸ m/s³(惑星周回機の典型)で T_c = 600 s とすると Δ = 600²/24 × 10⁻⁸ = 1.5×10⁻⁴ m/s = 150 µm/s。 精度0.3 µm/sの観測量に150 µm/sの偏りが乗る。これは致命的である。 同じ探査機でも T_c = 60 s なら 1.5 µm/s まで下がる。
巡航中(ρ⃛ が小さい)は T_c を長く、周回・近傍運用では短く、というのが原則である。

実務では複数の計数区間を並行して出す(10 s / 60 s / 600 s)のが普通で、 軌道決定側がフェーズに応じて選ぶ。短い区間から長い区間は後から合成できるが、逆はできない。 迷ったら短く取っておくのが安全である。

2.3.6 地球自転の署名 — ドップラだけで角度が決まる理由

ドップラは視線方向の情報しか持たないはずである。ではなぜドップラ単独で軌道が決まるのか。 答えは地球の自転にある。

探査機が十分遠方にあり、視線方向の単位ベクトル û(赤経 α、赤緯 δ)が 1パスのあいだほぼ一定とみなせるとする。局位置の地心からのずれを û に射影すると

\hat{u}·r_{st}(t) = r_{s}\cos δ\cos(ω_{E}t + λ − α) + z_{s}\sin δ

ここで r_s は局の自転軸からの距離、z_s は赤道面からの高さ、λ は経度、ω_E は地球自転角速度。 これを時間微分すれば、距離変化率に1日周期の正弦が現れる。

\dot{ρ}_{diurnal}(t) = −ω_{E}·r_{s}\cos δ·\sin(ω_{E}t + λ − α)

振幅が赤緯を、位相が赤経を与える。これがドップラから角度が出る仕組みである。

【例2.3-4】署名の大きさと、そこから出る角度精度 緯度36°の局なら r_s = 6371 cos36° ≈ 5154 km、ω_E = 7.292×10⁻⁵ rad/s。
ω_E r_s = 376 m/s。赤緯0°なら振幅376 m/s、赤緯60°でも188 m/s。
これに対し観測精度は0.3 µm/s級。振幅比にして10⁹。桁だけ見れば恐ろしく良く決まる。
1点あたりの角度感度は σ_ρ̇/(ω_E r_s cos δ) = 3×10⁻⁷/376 ≈ 0.8 nrad、 1パス1000点なら形式的には 0.025 nrad。
ただし実際にはここまで出ない。1日周期の系統誤差——局位置誤差、UT1、 対流圏の日変化、太陽輻射圧のモデル誤差——がすべてこの署名と同じ周期を持ち、 分離できないからである。実務での角度精度は数十〜数百 nrad にとどまる。

この最後の一文が、ΔDOR(第2.4章)が存在する理由である。 ドップラの角度情報は1日周期の系統誤差と縮退している。 ΔDORは幾何を直接測るので、この縮退から独立に横方向を拘束できる。 両者は競合ではなく、相補である。

Q. 赤緯が90°に近いとどうなるか?
A. cos δ → 0 なので署名が消える。極方向にいる探査機の赤経は ドップラからほとんど決まらない。逆に黄道面付近(深宇宙探査機の大半)では署名が最大に近く、 ドップラ航法がよく効く。観測幾何が情報量を決めるという第4.8章の主題の、最も分かりやすい例である。
Q. パスが短いと何が起きるか?
A. 正弦波の一部しか見えないので、振幅と位相の分離が悪化する。 とくに「1日周期の正弦」と「一次のドリフト」が数時間の窓では区別しづらい。 最低でも仰角の上がり下がりを含む数時間、できれば異なる時間帯のパスを組み合わせるべきである。 これは第5.1章の追跡スケジュール設計に直結する。

2.3.7 3-way運用と局間バイアス

送信局と受信局が別の局である配置を3-wayと呼ぶ。可視時間の切れ目をまたいで 連続的に追跡できるという運用上の利点があるが、観測量としては性質が変わる。

2-wayでは送受が同一の周波数標準を共有するため、基準の揺らぎは共通で相殺される。 3-wayでは2台の独立な周波数標準の差が観測量に直接乗る。 両局の標準の相対オフセットを Δf/f = ε とすると、距離変化率に

b_{3way} = \frac{c}{2}·ε

のバイアスが現れる。ε = 10⁻¹³ でも b = 15 µm/s であり、 2-wayの精度(0.3 µm/s)の50倍にあたる。3-wayドップラはバイアスを推定パラメータに入れて使うのが原則で、 入れずに2-wayと同じ重みで混ぜると軌道が引っ張られる。

局間の時刻・周波数を高精度で結んでおけば ε は小さくできる。 その手段(GNSS共通視、TWSTFT、光ファイバ分配)は姉妹書『地上局工学』第5部で扱う。

2.3.8 相対論的な効き方

ドップラは搬送波位相を測っているので、相対論は「補正」ではなく定義の一部として入る。 効く経路は3つある。

  • 二次のドップラ(時間の遅れ): 送受信端の速度による固有時の進み方の差。 地上局は地球自転と公転で動き、探査機も動く。一次項に対して (v/c) 倍の大きさ。
  • 重力赤方偏移: 局と探査機のポテンシャルの差。太陽ポテンシャル中を移動すると効く。
  • Shapiro遅延の時間変化: 経路が太陽に近づく/遠ざかると、重力遅延そのものが変化し、 それが距離変化率として観測される。合の前後で急激に効く。

いずれも第3.4章で定量的に扱う。ここで押さえるべきは、 µm/s級の観測量に対して相対論は「効くか効かないか」ではなく「必ず入れる」項であるということである。

2.3.9 ドップラ残差の顔

残差の見え方疑うべき原因切り分け
1日周期の正弦局位置誤差、UT1・極運動、赤経赤緯の誤差複数局・複数日で位相が揃うか見る
仰角と相関対流圏(とくに湿潤成分の日変化)水蒸気ラジオメータ値と相関を取る
パス内の放物線状力学モデル誤差(SRP・重力場)アーク長を変えて形が変わるか見る
階段状の跳びマヌーバ、安全モード遷移、脱ガス機体イベントログと時刻照合(第5.2章)
局ごとの一定オフセット3-way局間バイアス、機器遅延2-wayだけで解いて比較
合の前後で雑音急増太陽プラズマSEP角との相関(第3.3章)
白色でない高周波の揺らぎ発振器、分配系の位相雑音局の位相雑音測定値と突き合わせ

実務の勘所は「同じ周期がレンジ残差にも出ているか」を必ず見ることである。 両方に出るなら幾何・座標系・局位置を疑い、ドップラだけなら周波数標準側を疑う。 群遅延と位相遅延は分散性媒質で符号が逆になるので(第2.2.9)、 符号の関係も切り分けの手がかりになる。

2.3.10 偏微分 — 第4部へ渡す

ドップラ観測量は経路長の差だから、偏微分も差の形になる。

\frac{∂\dot{ρ}}{∂x(t_{0})} = \frac{1}{2T_{c}}\left[\frac{∂S}{∂x}\bigg|_{t_{b}} − \frac{∂S}{∂x}\bigg|_{t_{a}}\right]

幾何項については ∂S/∂r_sc ≈ 2û だから、 両端の視線方向の差が効く。パスのあいだに û がどれだけ回るかが情報量を決める、 という第2.3.6の議論がここに現れる。速度に対する偏微分は状態遷移行列を通じて入る(第2.7章)。

■ この章のまとめ
  • ドップラ観測量は瞬時周波数ではなく位相カウント。実体は2-way経路長の差分である
  • コヒーレント2-wayでは有理数のターンアラウンド比(X/Xで880/749)により、地上の水素メーザ1台が往復全体の位相基準になる
  • 熱雑音限界は σ_ρ̇ = c /(4π f_D √(P_C/N_0) T_c^{3/2})。T_c の3/2乗で効く
  • しかし実際の床は発振器で決まる: σ_ρ̇ = (c/2)σ_y(τ)。τ は計数区間ではなく往復光時間
  • 通常の P_C/N_0(25〜40 dBHz)では、ほぼ常に発振器が支配する。送信電力を上げても改善しない
  • 計数区間を長くしすぎると加速度が平滑化されて偏る。Δ ≈ T_c²ρ⃛/24。短く取って後から合成するのが安全
  • 地球自転が1日周期の署名(振幅 ω_E r_s cos δ ≈ 376cos δ m/s)を刻み、振幅が赤緯・位相が赤経を与える
  • ただしこの角度情報は1日周期の系統誤差と縮退している。だからΔDORが要る
  • 3-wayは2台の独立な標準の差がバイアスになる。必ず推定パラメータに入れる
アラン偏差の具体値(水素メーザの σ_y(τ) 曲線)、 ターンアラウンド比の適用範囲、JAXA地上局のドップラ抽出器が出力する計数区間の選択肢は、 対象システムの仕様書および局の技術資料で確認すること。 本文の数値は設計初期の検討に用いる目安である。

第2.4章ΔDOR観測方程式

■ この章で学ぶこと
レンジは視線方向しか拘束せず、ドップラの角度情報は1日周期の系統誤差と縮退している。 横方向を幾何として直接測れる唯一の電波観測量がΔDORである。 本章では群遅延という観測量の定義から出発し、なぜクオーサとの差分をとるのか、 帯域合成が何をしているのか、角度精度の式と要求S/N、較正天体の選び方、 そして日本のベースライン事情までを扱う。

2.4.1 出発点 — VLBI観測量としての群遅延

離れた2局で同じ電波源を同時に受信する。到来方向の単位ベクトルを ŝ、 2局を結ぶベクトル(ベースライン)を B とすると、両局への到達時刻には差が生じる。

τ = \frac{B·\hat{s}}{c}

この τ を群遅延という。ベースラインの向きは既知(局位置は測量されている)だから、 τ を測れば ŝ の、ベースライン方向成分が決まる。 これは角度の直接測定である——距離でも速度でもなく、天球上の方向そのものを測っている。

局から見た角度誤差は、遅延誤差をベースラインの投影長で割った形になる。

σ_{θ} = \frac{c·σ_{τ}}{B_{proj}}

B_proj は電波源方向に直交する成分(有効ベースライン)である。 式の形が示すとおり、長いベースラインほど角度精度がよい。 これが後で日本の事情として効いてくる(2.4.8)。

2.4.2 なぜ差分をとるのか — DOR から ΔDOR へ

探査機の群遅延 τ_sc を単独で測る(DOR: Differential One-way Ranging)だけでは精度が出ない。 τ_sc には測りたい幾何以外のものが山ほど乗っているからである。

τ_{sc}^{obs} = \frac{B·\hat{s}_{sc}}{c} + Δτ_{clock} + Δτ_{tropo} + Δτ_{iono} + Δτ_{inst} + ...

そこで、探査機とほぼ同じ方向にある電波源を直後に観測し、同じ量を測る。

τ_{q}^{obs} = \frac{B·\hat{s}_{q}}{c} + Δτ_{clock} + Δτ_{tropo}' + Δτ_{iono}' + Δτ_{inst} + ...

2つの差をとる。これがΔDORである。

Δτ = τ_{sc}^{obs} − τ_{q}^{obs} = \frac{B·(\hat{s}_{sc} − \hat{s}_{q})}{c} + (残差項)

何が消えたかを整理しておく。

誤差源差分で理由
局の時計オフセットほぼ完全に消える数分以内なら時計は同じ位相を保つ(コモンモード)
機器遅延(局内経路)ほぼ完全に消える同じ受信系を同じ設定で通す
対流圏大きく減る離角が小さいほど同じ大気を通る。残るのは離角ぶんの差
電離層大きく減る同上。ただし電離層は高度が低く空間相関が短いので残りやすい
局位置誤差減る共通成分は消え、離角に比例した成分が残る
クオーサの位置誤差そのまま残るICRF3の位置精度が上限を与える
電波源の構造残るクオーサが点源でないと系統誤差になる

「差分で消す」ことが本質であり、それが成立する条件は「同じものを通す」ことである。 だから較正天体は探査機に角度的に近くなければならず(2.4.6)、 切り替えは大気が変わらないうちに済ませなければならない(2.4.7)。 この二つの制約が、ΔDOR運用のほぼすべてを規定している。

2.4.3 帯域合成 — 遅延分解能はどこから来るか

群遅延を精密に測るには、広い周波数範囲にわたって位相を測る必要がある。 位相の周波数微分が群遅延だからである。

τ = \frac{1}{2π}·\frac{dφ}{df}

2点の周波数 f_1, f_2 で位相を測れば τ ≈ Δφ/(2πΔf) となり、 Δf(スパンド帯域幅)が大きいほど遅延が細かく決まる。 ここで前章までと同じ位相誤差の式が効いてくる。

σ_{τ} = \frac{σ_{φ}}{2π B_{rms}} = \frac{1}{2π B_{rms}\sqrt{2·(P/N_{0})·T}}

B_rms はスパンド帯域の中心まわりの実効的な広がり(rms帯域幅)である。

【本書を貫く一本の式】 第2.2〜2.4章の精度式は、すべて同じ σ_φ = 1/√(2(P/N_0)T) から出ている。
・測距: σ_ρ = c·σ_φ/(4π f_RC) — 目盛りは測距クロック f_RC
・ドップラ: σ_ρ̇ ∝ c·σ_φ/(f_D T_c) — 目盛りは搬送波 f_D
・ΔDOR: σ_τ = σ_φ/(2π B_rms) — 目盛りはスパンド帯域 B_rms
三つの観測量の違いは「どの周波数を目盛りに使うか」だけである。 測距が1 MHz、搬送波が8.4 GHz、スパンド帯域が数十MHz。 この桁の違いが、そのまま三者の性格の違いになっている。

探査機側は、搬送波の両側にDORトーンと呼ぶ側波帯を意図的に立てる。 トーン間隔を広く取るほど精度がよいが、 間隔が広いと位相のあいまいさ(2π の整数倍)が生じる。 そこで狭い間隔のトーン(あいまいさなし・低精度)と広い間隔のトーン(高精度・あいまいあり)を 階層的に使い、粗い解で細かい解のあいまいさを解く。 測距でクロックと成分符号が役割分担していたのと、まったく同じ構造である。

クオーサは自然の広帯域雑音源なので、受信帯域を離散的に複数チャネル配置して 同様に帯域合成する。合成の設計(チャネル配置)が遅延分解能を決めるので、 チャネルは等間隔ではなく、あいまい解決と分解能を両立するように配置する。

2.4.4 角度精度と要求S/N

2.4.1と2.4.3を合わせると、ΔDORの角度精度が閉じた形で書ける。

σ_{θ} = \frac{c}{2π B_{rms}·B_{proj}\sqrt{2·(P/N_{0})·T}}

逆に解けば、目標角度精度に対する要求S/Nが出る。

\frac{P}{N_{0}} = \frac{1}{2T}\left(\frac{c}{2π B_{rms}·B_{proj}·σ_{θ}}\right)^{2}
【例2.4-1】典型的なΔDORセッション B_rms = 19 MHz(スパンド38 MHz)、B_proj = 8000 km、P/N_0 = 20 dBHz、T = 100 s
σ_φ = 1/√(2×100×100) = 7.07×10⁻³ rad
σ_τ = 7.07×10⁻³/(2π×1.9×10⁷) = 5.9×10⁻¹¹ s = 59 ps
σ_θ = 3×10⁸ × 5.9×10⁻¹¹ / 8×10⁶ = 2.2×10⁻⁹ rad = 2.2 nrad
これを距離に直すと、1 auで 330 m、火星最遠(2.5 au)で 830 m
1回のセッション(数十分)で、億km彼方の探査機の横方向位置が数百mで決まる。

実際には探査機側だけでなくクオーサ側のS/Nも効く。 クオーサは弱い(0.1〜数 Jy)ので、多くの場合クオーサ側が精度を律速する。 合成した遅延誤差は

σ_{Δτ} = \sqrt{σ_{τ,sc}^{2} + σ_{τ,q}^{2} + σ_{sys}^{2}}

となり、σ_sys(差分後に残る系統誤差)が数十psのオーダーで下限を作る。 探査機側をいくら強くしても、クオーサと系統誤差の壁で止まる。

2.4.5 誤差予算

項目典型値(遅延換算)角度換算(B=8000 km)低減の手立て
探査機側の熱雑音10〜60 ps0.4〜2.2 nradDORトーン電力増、積分時間、帯域拡大
クオーサ側の熱雑音20〜100 ps0.8〜3.7 nrad強い天体を選ぶ、積分時間、大口径局
対流圏残差10〜50 ps0.4〜1.9 nrad離角を小さく、水蒸気ラジオメータ
電離層残差10〜100 ps0.4〜3.7 nrad二周波(X/Ka)、TECマップ、夜間観測
局位置誤差離角×局位置誤差/c離角依存測量精度、EOPの更新
クオーサ位置誤差(ICRF3)0.1〜0.5 nrad位置精度のよい天体を選ぶ
電波源構造0.1〜1 nrad構造の小さい天体、構造モデル補正
時計・機器の差分残差数 ps<0.2 nrad切替周期を短く

この表の読み方で大事なのは、上4行は運用設計で動かせるが、下4行は動かしにくいということである。 積分時間を延ばして熱雑音を下げても、対流圏残差と局位置誤差の床に当たれば止まる。 「もう一段精度を上げたい」となったときにどこを攻めるかは、この表を自分の数字で埋めて決める。

2.4.6 較正天体の選び方 — ICRF3から探す

ΔDOR運用の準備で最も手間がかかるのが、較正天体(クオーサ)の選定である。 条件は4つある。

  • 離角が小さいこと。探査機の見かけ位置から数度以内。離角に比例して対流圏・電離層・ 局位置の差分残差が増えるので、近いほどよい。実務上は10度以内、できれば数度以内を狙う
  • 十分明るいこと。観測周波数帯(X帯・Ka帯)でのフラックスが要る。 低周波で明るくても高周波で暗い天体があるので、使う帯域での値を見る
  • 位置精度がよいこと。ICRF3のカタログ位置誤差がそのまま系統誤差になる
  • 構造が小さいこと。ジェット構造を持つ天体は、ベースライン方向によって 見かけの位置がずれる。構造指数の小さい天体を選ぶ

この4条件を同時に満たす天体は多くない。しかも探査機は動くので、 ミッション期間を通じた較正天体のスケジュールを事前に作っておく必要がある。 軌道が変わるたびに作り直しになるのが、この作業の面倒なところである。

【自動化の価値】 「探査機の視位置の時系列 → 各時刻で条件を満たすクオーサ一覧 → セッション計画」 という流れは完全に機械化できる。ICRF3カタログと軌道(第1部)があれば計算だけで済む。 手作業でカタログを引いているなら、そこは道具を作るべき場所である。

2.4.7 スイッチングサイクルの設計

探査機とクオーサを交互に観測する。1周期の時間配分が設計変数になる。

サイクル = [探査機 T_{sc}] → [スルー] → [クオーサ T_{q}] → [スルー] → …

周期を決めるのは大気のコヒーレンス時間である。対流圏の湿潤成分は数分のスケールで変化するので、 これより長い周期で切り替えると、差分で消えるはずの大気が消えなくなる。 一方で周期を短くすると、アンテナのスルー(回転)時間の割合が増えて実効積分時間が減る。

典型的には数分周期。大口径局はスルーが遅いので不利になる。 「大きい局のほうが常に良い」わけではないのがΔDORの面白いところで、 感度(大口径有利)とスルー速度(小口径有利)のトレードがある。

セッション全体は数十分から1時間程度。ベースラインの向きが地球自転で回るので、 長く続ければ2次元の角度が決まる方向に近づくが、 通常は1セッション=1ベースライン=1方向成分と考えるのが安全である。 2次元を決めたければ、直交に近いベースラインでもう1セッション打つ。

2.4.8 ベースライン事情 — 日本でΔDORをやるということ

σ_θ = c σ_τ/B_proj は残酷な式である。ベースラインが10分の1なら角度精度も10分の1になる。

国内の深宇宙局同士では、この式が厳しく効く。臼田と美笹は同一構内に近く、 ベースラインはほぼゼロで、ΔDORのベースラインとしては使えない。 臼田と内之浦を結んでも、緯度差・経度差から計算すれば1000 km を切る。

【例2.4-2】自分で確かめる 臼田(約36.1°N, 138.4°E)と内之浦(約31.3°N, 131.1°E)の距離を球面上で計算すると、 緯度差4.8°で約540 km、経度差7.3°を中緯度で換算して約670 km、 合わせて約900 km
例2.4-1の条件(σ_τ = 59 ps)をこのベースラインに当てはめると σ_θ = 3×10⁸ × 5.9×10⁻¹¹/9×10⁵ = 20 nrad。 大陸間ベースラインの約9倍悪い。1 auで3 kmに相当する。

したがって日本が高精度ΔDORを行うには、次のいずれかを取ることになる。

  • 国内VLBI網の活用。天文観測用のVLBI網は日本列島を縦に使うので、 深宇宙局同士よりずっと長いベースラインが得られる。ただし周波数帯・受信系・ スケジュール調整という別の課題が入る
  • 国際相互支援。海外機関の局とペアを組めば大陸間ベースラインになる。 精度は最良だが、調整・費用・スケジュールの制約を受ける(姉妹書『地上局工学』第7.5章)
  • ΔDORに頼らない設計。ドップラの1日周期署名(第2.3.6)と光学航法(第2.5章)で 横方向を押さえ、ΔDORは要所だけに使う

どれを選ぶかは、ミッションの横方向要求から逆算して決める。 「ΔDORをやるかどうか」ではなく「何 nrad が要るのか」から入るのが正しい順序である。 その計算は第4.8章(可観測性)と第5.1章(追跡計画)で扱う。

臼田・美笹・内之浦の正確な局位置(測地座標および地心直交座標)、 国内VLBI網との連携実績、国際ΔDOR支援の枠組みは、 JAXAの公開資料および局の技術資料で確認すること。 上の距離計算は読者が自分で検算できるよう概算で示したものである。

2.4.9 データの流れと標準形式

ΔDORは局で完結しない。両局で記録した生データを持ち寄って相関処理し、 そこで初めて遅延が得られる。したがって運用の流れは他の観測量と大きく違う。

両局で記録 → データ転送 → 相関処理 → 帯域合成 → 遅延 → 差分 → Δτ → 軌道決定

この流れの各段階でフォーマットの取り決めが要る。 とくに国際協力でΔDORを行う場合、記録フォーマットとメタデータが合っていないと 相関処理そのものができない。CCSDSはΔDORの生データ交換形式を標準化しており、 これに従うことで機関をまたいだ相関処理が可能になる。

最終的な Δτ は追跡データメッセージ(TDM)の観測量として軌道決定へ渡る(第5.5章)。 TDMにはΔDOR観測量のためのキーワードが用意されており、 較正天体の識別子・ベースラインを構成した局・スパンド帯域などのメタデータを添えて渡す。 このメタデータが欠けると、受け取った側は観測量を正しくモデル化できない。

ΔDOR生データ交換形式(CCSDS 506.0-B系)およびΔDORの技術特性を扱う グリーンブック、TDMにおけるΔDOR関連キーワードは、 CCSDS原文書の最新版で確認すること。版によりキーワードが追加されている。

2.4.10 Same-Beam Interferometry — 2機を同時に見る

2機の探査機が同じ天体を回っていて、地上局から見て同一ビーム内に入る場合、 クオーサではなく相手の探査機を較正源にできる。これがSBI(Same-Beam Interferometry)である。

離角が極めて小さい(ビーム幅の中)ので、大気も局位置も機器もほぼ完全に共通になり、 差分後の系統誤差はΔDORよりさらに小さくなる。得られるのは2機の相対角度位置なので、 編隊や、周回機と着陸機の相対位置決定に強い。

制約は明快で、2機が同時に同一ビーム内にいなければ成立しない。 火星や月のように複数機が集まる天体でのみ使える手法である。

2.4.11 偏微分と、他の観測量との組み合わせ

Δτ の探査機位置に対する偏微分は、ベースラインを視線に直交する面へ射影したものになる。

\frac{∂Δτ}{∂r_{sc}} = \frac{1}{c}·\frac{B_{⊥}}{|r_{sc}|}

B_⊥ はベースラインの視線直交成分。レンジ(û方向)とは直交する方向に効くことが式から読める。 これが「レンジ+ドップラ+ΔDORで3次元が決まる」ことの数学的な内容である。

第4.8章で情報行列を組むと、この相補性が定量的に見える。 レンジのみ/レンジ+ドップラ/+ΔDOR と積み上げたときに 共分散行列の各方向がどう縮むかを見ておくと、追跡計画の判断が速くなる。

■ この章のまとめ
  • ΔDORは群遅延 τ = B·ŝ/c を測る角度の直接測定。角度精度は σ_θ = c σ_τ/B_proj
  • クオーサとの差分により、時計・機器・大気・局位置の共通成分が消える。成立条件は「近い方向を、短い時間で」
  • 遅延分解能はスパンド帯域幅で決まる: σ_τ = σ_φ/(2π B_rms)。測距・ドップラと同じ σ_φ から出ている
  • 典型性能は数 nrad。1 auで数百m。ただしクオーサ側S/Nと系統誤差で床が決まる
  • 較正天体は「離角が小さい・明るい・位置精度がよい・構造が小さい」を同時に満たす必要があり、選定は自動化に値する
  • 切替周期は大気コヒーレンス時間(数分)で決まる。感度とスルー速度のトレードがある
  • 日本の深宇宙局同士のベースラインは短い(臼田−内之浦で約900 km)。国内VLBI網・国際支援・非依存設計のいずれかを選ぶ
  • ΔDORは相関処理を経て初めて観測量になる。生データ交換形式とメタデータの標準化が国際協力の前提

第2.5章光学航法とその観測方程式

■ この章で学ぶこと
カメラで天体を撮る — それだけのことが、電波では原理的に得られない情報をもたらす。 すなわち目標天体に対する相対状態を、暦誤差(第1.4章)に汚されずに直接測ることである。 電波の本の中に光学の章がある理由は第2.1章で見たとおり: 接近・近傍フェーズでは主役が光学に入れ替わり、 電波側の技術者も観測方程式のレベルで理解していないと融合ができない。 本章ではピンホールモデルから重心決定・ランドマーク航法まで、 「電波と同じ y = h(x)+ε の枠組み」で光学を書き切る。

2.5.1 観測量は「写った方向」である

画像上の天体の位置 (u, v) は、探査機から見た天体の視線方向単位ベクトルの写像である。 ピンホールカメラモデルで:

\mathbf{p}^{C} = R_{CB}\,R_{BI}(q)\,\frac{\mathbf{r}_{t} − \mathbf{r}_{sc}}{|\mathbf{r}_{t} − \mathbf{r}_{sc}|},  u = f\,\frac{p^{C}_{x}}{p^{C}_{z}} + u_0, v = f\,\frac{p^{C}_{y}}{p^{C}_{z}} + v_0

r_t − r_sc が目標相対位置(推定したい量)、q が姿勢、R_CB がカメラ取付、 f・(u₀,v₀) が焦点距離・主点、これに歪みモデル(半径方向歪み等)が加わる。 ここから光学航法の性格がすべて読める:

  • 測っているのは角度2成分。距離方向は(見かけサイズを使わない限り)盲目 — 第2.1章の図の「横方向」担当
  • 姿勢 q が観測方程式の中にいる。姿勢誤差1 arcsecは角度観測誤差1 arcsecに直結する。 対策が次節の「星と一緒に撮る」である
  • 精度の物差しは1画素の張る角(IFOV)×重心決定精度。 IFOV 10 µrad・重心0.1画素なら1 µrad — 距離10⁵ kmで横方向100 mに相当する

2.5.2 星を一緒に撮る — 姿勢問題の消去

天体だけ写した画像の精度は姿勢決定精度で頭打ちになる。 そこで同じ画像に恒星を写し込む(OpNav画像の基本形)。 恒星の慣性方向は星カタログで正確に分かるから、 画像内の星々がその画像の姿勢(とカメラ内部パラメータ)をその場で決めてくれる。 目標天体の方向は星に対する相対角として読み取られ、 ジャイロ・スタートラッカの誤差から切り離される。

公開情報:現代の星カタログはESAのGaia計画による(Gaia DR3、公開)。 位置精度はmas(ミリ秒角)以下 — 光学航法の姿勢基準としては事実上誤差ゼロであり、 律速は常にカメラ側(重心決定・歪み較正)にある。 かつてのOpNavの主要誤差源だったカタログ誤差は、Gaia以後は歴史的話題になった。

2.5.3 重心決定 — 0.1画素への道と系統誤差

点像(遠い天体・恒星)はPSFフィッティングで0.1〜0.01画素まで追い込める。 問題は面積を持つ天体である。輝面重心(明るさの重心)は 照らされた側に偏る — 位相角(太陽-天体-探査機角)が大きいほど、 幾何中心から系統的にずれる。これは雑音ではなく幾何で決まる系統誤差なので、 形状モデルと位相角からモデル化して補正する(できなければ観測の重みを下げる)。 「三日月に写った小惑星の中心はどこか」— この問いの扱いがOpNavの精度を決める。

2.5.4 ランドマーク航法 — 角度が6自由度に化ける

近傍まで来て表面の地形が分解できると、質が変わる。 表面の既知地点(ランドマーク:クレータ・岩塊)を複数追えば、 各ランドマークが観測方程式を1本ずつ与え、 天体固定座標系に対する探査機の位置・姿勢が同時に決まる(写真測量のリセクションと同型)。 はやぶさ2のタッチダウン航法(第6.1章)はこの枠組み+ターゲットマーカ (自分で置いた人工ランドマーク)である。 ランドマークの3次元座標自体も接近中の画像群から推定される(形状モデル構築 — 第1.6章) — ここでも「観測でモデルを育てる」構図が現れる。

地球局 探査機 目標天体 電波:地球相対 (暦誤差が挟まる) 光学:天体相対 暦(天体がどこにいるか — 第1.4章)
図2.5-1 電波と光学が測る三角形。 電波は「地球→探査機」を、暦は「地球→天体」を、光学は「探査機→天体」を与える。 三辺のうち二辺を測れば三角形は閉じる — 接近航法では 光学(天体相対)を足すことで、暦誤差が到達精度に入り込む経路を断つ。

2.5.5 融合 — 重みと役割の設計

推定器(第4部)から見れば、光学は観測ベクトルに (u,v) の行が増えるだけである。 設計上の要点は:

  • 役割分担を幾何で決める — 巡航は電波(絶対軌道)、接近は電波+光学(相対へ重心移動)、 近傍はランドマーク+高度計が主・電波は従(第6.1章の実例)
  • 系統誤差の相関に注意 — 同一カメラの画像は歪み・重心バイアスを共有する。 画像を増やしても系統誤差は1/√Nで減らない(第3.6章の一般論)
  • 時刻付けを厳密に — 露光中心時刻の誤差は、相対速度×誤差ぶんの位置誤差になる。 電波と同じく、光学もタイムタグが命である(第5.5章と同じ教訓)
Q. 見かけの大きさから距離は測れないのか
A. 測れる — 天体の実サイズが分かっていれば。ただし精度は角度計測とサイズ知識の悪い方で決まり、 接近初期の「点にしか写らない」段階では使えない。 実務では距離方向は電波(レンジ)が受け持ち、光学のサイズ情報は補助に留まることが多い。 近傍でのレーザ高度計(LIDAR)は距離を直接測る強力な補完で、はやぶさ2で本格的に使われた(第6.1章)。
Q. 演習のヒント:画素分解能→位置精度の換算
A. 横方向精度 ≈ 距離 × IFOV × 重心精度[画素]。 IFOV 10 µrad・0.1画素なら、10⁶ kmで1 km、10⁴ kmで10 m。 この一次式を距離で引いたグラフを描き、ΔDOR(数nrad — ただし地球基準)と 「どの距離から光学が勝つか」を比べてみると、第2.1章の分担が数字で腹落ちする。
■ この章のまとめ
  • 光学の観測量は角度2成分(視線方向)。枠組みは電波と同じ y=h(x)+ε
  • 星を同じ画像に写すことで姿勢誤差を消す。カタログはGaia以後、事実上無誤差
  • 面積天体の輝面重心は位相角で系統的にずれる — モデル補正が精度を決める
  • ランドマーク航法は角度観測を天体固定系での6自由度に変える。TD航法の骨格
  • 光学の価値は天体相対にあり、暦誤差の経路を断つ(三角形の第三辺)
  • 融合の要点:役割は幾何で決める・系統誤差は共有される・タイムタグが命
Gaiaカタログ・はやぶさ2の航法カメラ/LIDARの公開情報は付録C。 カメラ較正(歪み・焦点距離の飛行中較正)は星野撮像で行う — その手順自体が 「観測でモデルを育てる」(第1.6章)の一例である。

第2.6章座標系・局位置・地球回転パラメータ

■ この章で学ぶこと
観測方程式 y = h(x) の h の中には、必ず「局の位置」がいる(第2.2〜2.4章)。 局は地面に固定されているが、地面は回り、揺れ、伸び縮みする。 探査機の軌道は慣性系(ICRF)で積分し、局は地球固定系(ITRF)で測量されている — この二つを結ぶのが地球回転パラメータ(EOP)である。 X帯の波長は3.6 cm、要求精度はcm〜dm級。 地球の向き1 masのずれは地表で3 cmに相当し、取りこぼしはそのまま系統誤差になる。 本章は地味だが、深宇宙航法が測地学・VLBIと地続きである理由が分かる章でもある。

2.6.1 二つの基準系 — ICRFとITRF

ICRF(天球基準系)ITRF(地球基準系)
固定するもの遠方クェーサーの方向(回転しない)地殻の点の集合(地球と共に回る)
実現方法VLBIによるクェーサー位置カタログVLBI・GNSS・SLR・DORISの統合解
本書での役割軌道積分・暦(第1.4章)・ΔDOR較正天体(第2.4章)局位置座標の置き場

公開情報:現行の実現はICRF3(クェーサー約4500個の電波位置、公開)と ITRF2020(IERSが公開)。どちらも観測で維持される「実現」であり、 版が更新される — 暦・定数と同じく(第1.4章)、版をそろえて使う。 ΔDORの較正天体カタログがICRFそのものであること、 ITRFの構築にVLBI(クェーサー観測)が使われていること — 深宇宙航法は測地インフラの上に立っている。

2.6.2 変換の分解 — 歳差・章動・自転・極運動

ITRFからICRFへの回転は、慣例的に次の積に分解される:

\mathbf{r}_{ICRF} = P(t)\,N(t)\,R(t)\,W(t)\,\mathbf{r}_{ITRF}
行列中身性質
P·N歳差・章動(自転軸の空間運動)モデルで高精度に計算可(IAUモデル)+小さな補正
R日周自転(角度=UT1予測不能な変動を含む — 測るしかない
W極運動(自転軸の地殻に対する運動)同上。数m規模で漂う

要は「モデルで書ける部分」と「測るしかない部分」に分かれ、 後者 — UT1−UTC と極運動 — がEOPとしてIERSから公開される(週次更新+予測値)。 UT1は地球の自転ムラ(大気・海洋・コアの角運動量のやり取り)でms級で揺らぐ。

【UT1誤差1 msの重さ(章末演習の答えの骨格)】 1 ms の自転角誤差 = 15 mas ≒ 赤道半径×7.3×10⁻⁸ rad ≈ 地表で46 cm。 局位置が視線方向に最大46 cm動けば、レンジに最大46 cmの系統誤差、 ドップラには日周期の誤差(振幅 ≈ 46 cm × 自転角速度 ≈ 0.03 mm/s)が入る。 どちらも現代の測定精度(m級/0.1 mm/s級)に対して無視できない。 EOPの最新値を取り込まずに精密ODは成立しない — これが本章の存在理由である。

2.6.3 局位置 — 測量値と、動き続ける地面

局のITRF座標は測量(GNSS併設・VLBIコロケーション — 『地上局工学』第5.4章)で cm級に決まる。ただし「決まった後も動く」:

変位源扱い
プレート運動年に数cm(方向つき)座標+速度の組で管理(ITRFは位置と速度のカタログ)
固体地球潮汐日周・半日周で数十cmモデル(IERS規約)で必ず補正
海洋荷重・大気荷重cm級精密解析ではモデル補正
地震・地殻イベント突発再測量。座標の版管理で追跡

潮汐変位数十cmは、素朴な直観(「地面は固い」)を裏切る大きさである。 月と太陽は海だけでなく岩も持ち上げている — 精密軌道決定は、この上下動を毎日補正しながら行われている。

2.6.4 誤差の伝わり方 — 日周署名という指紋

局位置・EOPの誤差は、地球自転を通じて観測量に1日周期の署名を刻む (第2.3章の日周署名と同じ幾何)。この事実は二つの顔を持つ:

  • 厄介な顔 — 探査機の赤経・赤緯の情報も日周署名に乗っている(第2.3章)。 局・EOPの誤差は探査機の角度位置の誤差と紛れやすい(縮退 — 第4.8章)
  • 便利な顔 — 残差の日周成分を見れば、局・EOP系の問題を疑える(第4.9章の切り分け)。 複数局・複数日のデータで縮退は解ける

2.6.5 実装と検算の作法

  1. 規約の実装を自作しない — IAU/IERSの変換はSOFA(公式公開ライブラリ)・SPICEに任せる。 自作は検証コストに見合わない
  2. 版の4点セット(第1.4章)にEOPファイルの日付を加える — 「いつのEOPで計算したか」を成果物に記録する
  3. 検算 — 同じ変換を独立実装(SOFA vs SPICE)で突き合わせ、mas級で一致することを確認。 ズレたらほぼ確実に、章動モデルの版・UT1とUTCの取り違え・潮汐補正の有無の差である
Q. EOPの「予測値」で運用してよいのか
A. リアルタイム運用は予測値を使うしかない(確定値は数日〜数週遅れ)。 UT1予測の誤差は数日先でms未満 — 2.6.2の換算でdm級であり、用途次第で効く。 精密解析(重力科学・最終軌道再構築)は確定EOPで再処理する。 「速報値で運用し、確定値で決定版を作る」という二段構えは、測地系データの標準的な付き合い方である。
Q. なぜクェーサーは「動かない」と言えるのか
A. 数十億光年の彼方にあるため、固有運動が角度としてほぼ消えるからである(μas/年以下)。 ただし電波構造の変化(ジェット)で見かけの位置が揺れる天体はあり、 ICRFカタログは安定性で天体を格付けしている。ΔDOR用の較正天体選び(第2.4章)でも この格付けを使う — 「不動の基準」も観測で品質管理されている。
■ この章のまとめ
  • 軌道はICRF、局はITRF。結ぶのは P·N·R·W — UT1と極運動だけは測るしかない(EOP)
  • UT1誤差1 ms = 地表46 cm。EOP更新なしに精密ODは成立しない
  • 局は動く:プレート運動cm/年、固体潮汐は日に数十cm — モデル補正が必須
  • 局・EOP誤差は日周署名として観測量に入り、探査機の角度と縮退しうる
  • 変換はSOFA/SPICEに任せ、独立実装で突き合わせる。EOPの版を成果物に記録する
  • 深宇宙航法はICRF/ITRF/VLBIという測地インフラの上に立つ
ICRF3・ITRF2020・EOP・IERS規約・SOFAはいずれも公開(付録C)。 規約は改訂される — モデル(章動・潮汐)の版とEOP系列の整合に注意。 『地上局工学』第5.4章(局位置の測量の実務)と対で読むこと。

第2.7章光行時間と偏微分係数 — 感度行列を組む

■ この章で学ぶこと
第2部の締めであり、第4部(推定)への継ぎ目である。 推定器が必要とするのは観測の計算値 h(x) だけではない。 「状態を少し動かしたら観測はどれだけ動くか」 — 偏微分 ∂h/∂x が要る。 これがなければ残差をどの方向に配って状態を直せばよいか分からない。 本章ではレンジ・ドップラの偏微分を具体形まで書き下し、 状態遷移行列(第1.2章)と連鎖させて感度行列 H に組み上げ、 検算の作法(数値微分との突き合わせ)で締める。 式は地味だが、軌道決定ソフトウェアの心臓部はこの章である。

2.7.1 復習 — 計算値 h(x) は光行時間つきで

レンジ・ドップラの計算値は光行時間方程式の反復解(第2.2章2.2.2項)を通じて評価する。 偏微分もこの構造 — 「観測時刻 t₃ は共通、送信・反射時刻は状態依存」 — の上で取る。 幸い、光行時間の状態依存を厳密に微分する必要はない: その効果は (v/c) 倍の高次項になり、一次の偏微分では無視できる (残差反復 — 第4.2章 — の中で吸収される)。

2.7.2 レンジの偏微分 — 視線方向単位ベクトルそのもの

2-wayレンジ ρ = (ρ_up + ρ_down)/2 の、反射時刻の探査機位置に対する偏微分は:

\frac{∂ρ}{∂\mathbf{r}_{sc}} = \frac{1}{2}\big(\hat{\mathbf{u}}_{up} + \hat{\mathbf{u}}_{down}\big) ≈ \hat{\mathbf{u}} (視線方向単位ベクトル)
\frac{∂ρ}{∂\mathbf{v}_{sc}} ≈ \mathbf{0}

û_up・û_down は上り・下り経路の方向単位ベクトル(ほぼ等しい)。 つまりレンジは視線方向の位置だけを、感度1で測る — 第2.1章の図の数学的な中身がこれである。速度への感度は実質ゼロ。

2.7.3 ドップラの偏微分 — 差分レンジとして取る

ドップラ観測量は計数区間 [t_a, t_b] の差分レンジ(第2.3章)だから、偏微分も差分で書ける:

\frac{∂\bar{D}}{∂\mathbf{x}(t)} ∝ \frac{1}{T_c}\left[\hat{\mathbf{u}}\big|_{t_b}\frac{∂\mathbf{r}(t_b)}{∂\mathbf{x}(t)} − \hat{\mathbf{u}}\big|_{t_a}\frac{∂\mathbf{r}(t_a)}{∂\mathbf{x}(t)}\right]

「両端のレンジ偏微分の差 ÷ T_c」。実装上はレンジ偏微分のルーチンを2回呼ぶだけであり、 瞬時レンジレートの微分(û̇ を含む式)を別途導出するより単純で、 観測量の定義(第2.3章:ドップラは積分量)とも厳密に整合する。 定義に忠実な実装は導出も検算も楽になる — 差分レンジ観の実利がここにある。

2.7.4 エポックへの引き戻し — Φ との連鎖

偏微分は観測時刻 t での状態に対するものだが、推定したいのはエポック t₀ の状態である (バッチ推定 — 第4.2章)。状態遷移行列(第1.2章)で連鎖させる:

H = \frac{∂h}{∂\mathbf{x}(t_0)} = \underbrace{\frac{∂h}{∂\mathbf{x}(t)}}_{幾何(本章)}\;\underbrace{Φ(t, t_0)}_{力学(第1.2章)}

この式が本書前半の総決算である:幾何(第2部)と力学(第1部)の積が感度になる。 レンジ単独では速度が見えない(∂ρ/∂v≈0)のに軌道が決まるのは、 Φ が「後の位置は前の速度に依存する」ことを知っているからである。 観測の時間分布が可観測性を作る(第2.1章・第4.8章)ことの数学的な実体もこの積にある。

エポック状態 x(t₀) =推定したいもの Φ 時刻tの状態 x(t) 力学(第1.2章) ∂h/∂x 観測 h(x) 幾何(本章) H = (∂h/∂x)·Φ(t,t₀) ← 幾何 × 力学
図2.7-1 感度行列は幾何と力学の積である。 本書前半の総決算:第2部(観測の幾何)と第1部(力学の伝播)が、この一つの積で合流する。 レンジ単独では速度が見えない(∂ρ/∂v≈0)のに軌道が決まるのは、 Φが「後の位置は前の速度に依存する」ことを知っているからである。

2.7.5 パラメータ偏微分 — 状態を拡げる

SRP係数 C_r・重力場係数・マヌーバΔV・局バイアスなど、 推定パラメータ p への感度も同じ形で作る:

\frac{∂h}{∂\mathbf{p}} = \frac{∂h}{∂\mathbf{x}(t)}\,S(t) + \frac{∂h}{∂\mathbf{p}}\bigg|_{直接},  S(t) = \frac{∂\mathbf{x}(t)}{∂\mathbf{p}}(センシティビティ行列 — 変分方程式で積分)

力学パラメータ(C_r等)は S(t) 経由で、 観測パラメータ(局バイアス・時計 — 第3部・第5.6章)は直接項で効く。 「状態6個+パラメータ」を並べた拡大状態で推定する準備が、これで整う(第4.2章)。

2.7.6 検算 — 数値微分と3桁合わせる

感度行列の実装ミスは、推定をゆっくり間違った答えへ収束させる陰湿なバグになる (収束はするので気づきにくい)。防御は機械的な検算である:

  1. 状態成分 i を ±δ 動かし、(h(x+δ)−h(x−δ))/2δ を計算(中心差分)
  2. 解析偏微分と相対誤差10⁻³以下で一致することを全成分で確認
  3. δ は成分のスケール×10⁻⁶程度から振って、一致がδに依存しないことを見る

この検算はテストコードとして常設し、モデルを触るたびに回す。 第1.2章の変分方程式検算と合わせ、「力学と幾何の微分は常に機械検算済み」という状態を保つ — 軌道決定ソフトの品質は、この地味な習慣で決まると言ってよい。

Q. 偏微分の中の媒質項(第3部)はどうするのか
A. 媒質遅延は主に時刻と幾何(仰角)の関数で、探査機状態への依存は弱いので、 一次の感度では無視するのが通例である(残差反復で吸収)。 ただし媒質パラメータ自体を推定する場合(天頂遅延推定 — 第3.1章)は、 その直接項 ∂h/∂p を持つ。「状態には鈍感、パラメータとしては推定対象」という二面性である。
Q. 自動微分(AD)を使えばこの章は不要では?
A. ADは有力で、新しい実装では現実的な選択である。それでも本章が要る理由は二つ。 ①構造の理解 — H = 幾何×力学 という分解が読めないと、可観測性(第4.8章)や 縮退の診断ができない。②検証 — ADの出力も結局、独立な方法(数値微分・解析式)と 突き合わせて初めて信用できる。道具が変わっても検算の作法は変わらない。
■ この章のまとめ
  • 推定に渡すのは h(x) と ∂h/∂x。光行時間の状態依存は一次では無視できる
  • レンジの偏微分は視線方向単位ベクトル。速度感度はゼロ — 第2.1章の図の数学的実体
  • ドップラは両端レンジ偏微分の差÷T_c — 差分レンジ観に忠実な実装が最も単純
  • H = (∂h/∂x)·Φ — 幾何×力学。第1部と第2部はこの積で合流する
  • パラメータはセンシティビティ行列(力学系)と直接項(観測系)で拡大状態に載せる
  • 数値微分との3桁一致を常設テストに。感度のバグは「静かに間違う」から怖い
具体形の完全な導出(3-way・ΔDOR・光学の偏微分を含む)は付録Cの標準文献 (Moyerの定式化書 — JPL公開 — が事実上の仕様書)に譲る。 本章の簡約形は倍精度・現代の観測精度の下で十分であることが同文献で確認できる。
第 III 部 媒質較正と相対論
電波は真空を飛ばない。対流圏・電離層・太陽プラズマ、そして時空の曲がりが、観測量に系統誤差として乗る。これを較正しきることが精度の本体である。

第3.1章対流圏遅延 — 天頂遅延とマッピング関数

■ この章で学ぶこと
第3部では、電波が通ってくる媒質の「請求書」を一枚ずつ精算する。 最初は最も身近な大気 — 対流圏である。 乾いた空気と水蒸気が電波を遅らせる量は天頂方向で約2.3 m。 観測精度(cm級)の二桁上であり、較正しなければ話にならない。 幸い構造は素直で、天頂遅延×マッピング関数(仰角依存)という分解がよく効く。 本章はこの分解、乾湿の性格の違い(乾は読める・湿は読めない)、 そして「読めない分は推定する」という第4部的な解決までを扱う。

3.1.1 物理 — 屈折率がわずかに1を超える

中性大気の屈折率 n はわずかに1より大きく、電波は真空より遅く・わずかに曲がって進む。 経路遅延(距離換算)は屈折率の道のり積分:

Δρ_{tropo} = \int (n−1)\,ds = 10^{-6}\int N\,ds (N:屈折度)

対流圏は非分散性(この周波数帯で遅延が周波数によらない)である点が電離層(第3.2章)と決定的に違う。 つまり二周波でも消せない — 気象の実測とモデルで較正するしかない。

3.1.2 乾燥成分と湿潤成分 — 性格が正反対の二人組

乾燥(静水圧)成分湿潤成分
天頂遅延の桁約2.3 m(全体の9割)数cm〜数十cm
何で決まるかほぼ地上気圧だけ(静水圧平衡)水蒸気の鉛直分布(激しく時間変動)
較正精度気圧計1 hPa → 約2.3 mm。mm級で読める地上湿度からは読めない。cm級の誤差が残る
実務気圧実測+標準式で確定扱いモデル+残差推定 or WVR(3.1.4〜3.1.5)

この表が本章の骨子である。大きい方(乾燥)は正確に読めて、 小さい方(湿潤)が誤差予算(第3.6章)に生き残る — 対流圏の実務は「湿潤数cmとの戦い」と要約できる。

3.1.3 マッピング関数 — 1/sin(el) の精密版

斜め経路の遅延は、天頂遅延 Z に仰角依存の倍率 m(el) を掛けて表す:

Δρ(el) = Z_{dry}\,m_{dry}(el) + Z_{wet}\,m_{wet}(el), m(el) ≈ \frac{1}{\sin el}(一次近似)

平面大気なら 1/sin(el) だが、地球は丸く大気は層をなすので、 低仰角ほど 1/sin から外れる。精密なマッピング関数は連分数形で与えられ、 乾燥・湿潤で別の関数を使う(湿潤は低い高度に集中するため仰角依存が強い)。

公開情報:現代の標準は数値気象モデルから作られるVMF系 (Vienna Mapping Functions — ウィーン工科大が公開、グリッド値が定期配信)と、 その場の気象によらない経験版GMF/GPT系。いずれもGNSS/VLBI測地と共通の公開インフラであり、 深宇宙ODは測地コミュニティの成果をそのまま輸入している(第2.6章と同じ構図、付録C)。

【仰角マスクの根拠】 仰角10°で m ≈ 5.8:天頂2.3 mの乾燥遅延は13 m、湿潤10 cmは58 cmに化ける。 しかもマッピング関数自体の誤差も低仰角で増える。 精密OD用データに仰角下限(10〜15°)を置く運用(第5.1章)は、 「低仰角はデータ量より誤差を持ち込む」というこの換算が根拠である。 リンク設計の仰角マスク(『地上局工学』第3.7章)とは別の、航法側の理由がここにある。

3.1.4 較正の道具箱

  1. 地上気象実測 — 気圧→乾燥成分(mm級で確定)。気温・湿度→湿潤の粗い見積り
  2. 数値気象モデル — 湿潤成分の3次元場から遅延を計算(VMF系の入力)。cm級
  3. 水蒸気ラジオメータ(WVR) — 視線方向の水蒸気輝線放射を測って湿潤遅延を直接推定。 良条件でmm〜cm級。重力波検出級の精密電波科学(第6.5章)で使われる
  4. GNSS併設受信機 — 測地GNSS解析の副産物として局上空の天頂遅延が出る。 深宇宙局にGNSS受信機を置く理由の一つ(『地上局工学』第5.4章)

3.1.5 残差推定 — 読めない分は解いてしまう

較正してもcm級が残る。最後の手は湿潤天頂遅延の残差 δZ_wet を推定パラメータに加えることである (第2.7章のパラメータ偏微分:∂h/∂δZ = m_wet(el) という直接項)。 仰角が時間変化するパスでは m_wet(el) の形が探査機状態の感度と異なるため分離可能 — GNSS測地では常識の手法で、深宇宙でも精密解析で使う。 ただし低仰角データがないと分離が弱い(m_wetの変化が乏しい)という綾があり、 「精度のため低仰角を切る」3.1.3項との間で設計判断になる。 ここでも統計(第4部)と物理(本章)が絡み合う。

Q. 雨が降ったら対流圏遅延はどうなるのか
A. 遅延への直接寄与(雨滴の屈折)は小さく、主な実害は減衰と雑音上昇 (『地上局工学』第3.7章)のほうである。ただし雨を伴う気象状態は水蒸気場が荒れている状態なので、 湿潤遅延の較正誤差は悪化する。「雨の日のドップラは重みを下げる」運用には リンクと較正の両方の根拠がある。
Q. 演習のヒント:気圧から乾燥天頂遅延を出す
A. 標準式(Saastamoinen型)の骨格は Z_dry ≈ 2.28 mm/hPa × P₀(緯度・高度の小補正つき)。 P₀=1013 hPaで2.31 m。台風接近で気圧が960 hPaに落ちれば遅延は12 cm変わる — 気圧計を読まない較正はcm級を最初から捨てていることが分かる。
■ この章のまとめ
  • 対流圏は非分散 — 二周波では消えない。天頂で約2.3 m
  • 乾燥は気圧だけでmm級に読める。湿潤のcm級が誤差予算に残る
  • 斜め経路は「天頂遅延×マッピング関数」。低仰角で誤差が急増 — 仰角マスクの航法側の根拠
  • 道具箱:気象実測・数値気象モデル(VMF系)・WVR・GNSS併設 — 測地インフラの輸入
  • 最後はδZ_wetを推定して吸収する。ただし分離には仰角変化が要る
係数・マッピング関数の現行版はIERS規約・VMF配信サイト(公開、付録C)。 本章の数値(2.3 m・2.28 mm/hPa等)は標準的な公開値の丸めである。

第3.2章電離層とTEC

■ この章で学ぶこと
対流圏(前章)が「消せないが読める」媒質だとすれば、 電離層は「読みにくいが消せる」媒質である。 プラズマの遅延は周波数の2乗に反比例する分散性を持ち、 二つの周波数で同時に測れば遅延そのものを観測から追い出せる。 本章では位相と群で符号が逆になるという独特の物理、TECという通貨、 二周波較正の原理と限界、そして較正しきれないシンチレーションまでを扱う。 ここで作る道具は次章(太陽プラズマ — 同じ物理の凶悪版)でそのまま使う。

3.2.1 位相は進み、群は遅れる

プラズマ中の電波は、搬送波の位相速度が光速を超え(位相は進む)、 変調・情報の伝わる群速度は光速より遅い(群は遅れる)。一次近似で大きさは等しく符号が逆:

Δρ_{group} = +\frac{40.3\,TEC}{f^{2}}, Δρ_{phase} = −\frac{40.3\,TEC}{f^{2}} [m]

TEC(全電子数:視線に沿った電子密度の柱密度、単位TECU=10¹⁶ el/m²)が媒質の状態を表す唯一の量である。 実務上の帰結:レンジ(群測定)は長く測られ、搬送波位相・ドップラは短く測られる。 同じ経路なのに符号が逆 — この非対称は、レンジと位相を比べることで 電離層を推定できるという便利さの種でもある。

3.2.2 桁 — どれくらい効くか

条件TECX帯(8.4 GHz)遅延Ka帯(32 GHz)遅延
夜間・静穏数TECU数cmmm級
昼間・中緯度20〜50 TECU0.1〜0.3 m1〜2 cm
太陽活動極大・低仰角100 TECU超0.5 m超数cm

昼夜で1桁動き、太陽活動(11年周期)でさらに変わる。 「電離層は時刻と太陽で呼吸する」— 静的な補正値では追えない相手である。 なおS帯では上表の13倍(第2.2章)になり、電離層だけでm級 — S帯が精密ODに使われない理由が再確認できる。

3.2.3 二周波較正 — 分散性を逆手に取る

遅延が 1/f² に正確に比例するなら、2周波数 f₁, f₂ の同時観測から 電離層フリーの組合せが作れる:

ρ_{iono\text{-}free} = \frac{f_1^{2}ρ_1 − f_2^{2}ρ_2}{f_1^{2} − f_2^{2}}

探査機がS/X、X/Ka の2バンド同時ダウンリンク(第2.3章のデュアル下り)を持てば、 地上で受けるだけで視線上のプラズマ遅延が観測ごと消える。限界も知っておく:

  • 雑音の増幅 — 組合せ係数の分だけ測定雑音が増える(f₁/f₂が近いほど悪化)。 X/Ka(比3.8)は増幅が小さく理想的、S/X(比3.7)も良好
  • higher-order項 — 1/f³以降(磁場との結合等)は残る。mm級を狙う電波科学で効く
  • 機器遅延の差 — 2バンドの機器群遅延差が較正誤差として直結する(第5.6章のゼロ点較正)

3.2.4 一周波しかないとき — GNSS TECマップ

単一バンドのミッションは外部情報で補正する。 世界中のGNSS受信機網(それ自体が二周波)から作られる全球電離層マップ(GIM)が 公開されており(IGS等が定期配信 — 付録C)、視線方向へ写像して遅延を見積もる。 精度は数TECU(X帯で数cm)どまり — 二周波の代替ではなく「無いよりずっと良い」道具である。 地上局の直上はGNSSで密に測れるが、視線は斜めに電離層を貫くので、 マップの空間分解能と写像関数の誤差が残る。

二周波(自前) 視線そのものを測る ◎ 残差mm〜cm級 GNSSマップ(外部) 全球マップから視線へ写像 ○ 数TECU=X帯数cm 気候学モデルのみ 平均的な昼夜・季節変化 △ 数十%は外す 精密OD・電波科学 単バンド運用の標準 最後の手段・設計見積り 下に行くほど「観測」から「統計」へ — 残差はその分、推定(第4部)と誤差予算(第3.6章)が背負う
図3.2-1 電離層較正の三段構え。 自前の二周波が最善、GNSSマップが実用の標準、気候学モデルは見積り用。 どの段で較正するかが、誤差予算(第3.6章)の電離層行の数字を決める。

3.2.5 シンチレーション — 較正できない揺らぎ

電離層の不規則構造(数百m〜km規模のプラズマ密度ムラ)を電波が通ると、 振幅と位相が数秒スケールでランダムに揺れる — シンチレーションである。 磁気赤道帯の日没後と高緯度で強く、太陽活動極大期に増える。 これは平均遅延の較正では消えない確率的な過程であり、扱いは: ①観測の重み下げ(分散を膨らませる — 第4.2章)、 ②搬送波ループ側の対策(帯域選択 — 『宇宙通信』第3部)、 ③ひどい時間帯・幾何のデータ棄却(第4.9章)。 「較正の章」の最後に「較正できないものの扱い」が来る — この構図は次章の太陽プラズマで極端になる。

Q. 上りと下りで電離層は同じ量だけ効くのか
A. 2-way観測では上り(7.1 GHz)と下り(8.4 GHz)で周波数が違うため、 同じTECでも遅延量が違う(1/f²)。往復の平均としてモデル化する際に 両周波数を正しく使うこと。また往路と復路で時刻が違う(RTLT)ため、 電離層が速く変わる時間帯には往復差そのものが誤差になる — 精密解析では往復を別々に評価する。
Q. 演習のヒント:S/X比とX/Ka比、較正の雑音増幅はどちらが小さいか
A. iono-free組合せの雑音増幅係数は f₁²/(f₁²−f₂²) と f₂²/(f₁²−f₂²)。 周波数比が大きいほど1に近づく。S/X(2.3/8.4)とX/Ka(8.4/32)は比がほぼ同じ(3.7 vs 3.8)なので 増幅はほぼ同等 — 差が出るのは元の遅延の大きさ(Ka系は元から小さい)と機器の較正性である。 計算して確かめてほしい。
■ この章のまとめ
  • 電離層は分散性:遅延∝TEC/f²。群は遅れ、位相は進む(符号が逆)
  • X帯で昼間0.1〜0.3 m、太陽活動と昼夜で1桁動く。S帯はその13倍
  • 二周波で観測から消せる — 電離層較正の王道。雑音増幅と機器遅延差が限界を決める
  • 単バンドはGNSS TECマップ(公開)で数cm級まで。気候学モデルは見積り用
  • シンチレーションは較正不能の確率過程 — 重み・ループ設計・棄却で扱う
GIM・電離層気候学モデル(IRI等)は公開(付録C)。 40.3の係数の単位系・高次項の扱いは電波科学の標準文献で確認のこと。 S帯の13倍・Ka帯の1/14という換算は『周波数管理と国際調整』第2.2章の表と共通である。

第3.3章太陽プラズマと合 — 最大の誤差源に化ける区間

■ この章で学ぶこと
電離層(前章)と同じ物理 — プラズマの分散性遅延 — が、 規模を変えて太陽のまわりに広がっている。太陽コロナと太陽風である。 普段は電離層より穏やかな寄与だが、探査機が太陽の向こう側に回る合(conjunction)の前後、 視線が太陽をかすめる幾何では、遅延・位相揺らぎ・雑音が急増し、 あらゆる誤差源の中で最大に化ける。 合は外惑星・火星ミッションなら必ず定期的に来る。 本章では太陽離角(SEP角)を軸に、何がどう悪化し、いつ追跡を止め、 どう設計で緩和するか(Ka帯・二周波)を扱う。 最後に視点を反転させ、この「雑音」が太陽物理の観測データになることを見る。

3.3.1 コロナ・太陽風の電子密度 — 1/r² で薄まる海

太陽からの距離 r での電子密度は、遠方(太陽風領域)でおおむね N_e ∝ 1/r²、 コロナ近傍ではより急な項が加わる経験モデルで表される。 視線がインパクトパラメータ p(太陽中心からの最近接距離)で太陽をかすめるとき、 TECは視線積分で決まり、pが小さいほど急増する。 遅延は電離層と同じ 40.3·TEC/f² [m] — 物理は完全に共通で、規模だけが違う。

3.3.2 SEP角 — 運用を支配する一つの角度

地球から見た太陽と探査機の離角(SEP角)が幾何を代表する。 p ≈ 1 au × sin(SEP) なので、SEP角がそのまま「視線がどれだけ太陽に近いか」を表す。

太陽 地球 探査機 SEP角 p ≈ 1au·sin(SEP) SEPが小さい=視線が太陽をかすめる=プラズマの濃い海を貫く
図3.3-1 合の幾何。 探査機が太陽の向こうへ回るとSEP角が縮み、 視線のインパクトパラメータ p が小さくなって濃いコロナを貫く。 影響は連続的だが急峻で、実務は「SEP角のしきい値」で運用を切り替える。
SEP角の目安X帯で起きること運用
> 10°プラズマ寄与は誤差予算の一項(小)通常運用
10°〜5°ドップラ雑音が目に見えて増える。レンジ残差にうねり精密OD用データとしては重み低下。臨界運用は避ける計画に
5°〜2°遅延数m級・位相シンチレーション強。リンク自体も劣化(『宇宙通信』)航法データとしてはほぼ棄却。コマンドは慎重運用
< 2°通信・追跡とも実用困難な時間帯が出る追跡休止・事前計画による無人区間(第6.4章)

数値はX帯・平均的太陽活動での目安(太陽活動・CMEで大きく動く)。 重要なのはこの期間が暦から何年も前に正確に予測できることである — 幾何の問題だから。合をまたぐ運用設計(マヌーバを置かない・成立性をどう保つか)は 第6.4章で事例として扱う。

皆既日食で見た太陽コロナ
図3.3-2 電波が通る「濃い海」の正体。 2010年7月11日のイースター島皆既日食で撮影した内側コロナ(白黒)に、 SOHO衛星のLASCOコロナグラフが捉えた外側コロナ(赤の擬似カラー)を重ねた合成画像。 画像: NASA/GSFC。 合の期間、探査機の電波はまさにこの赤い領域 — 太陽から数〜数十太陽半径の外側コロナ — を貫いてくる。 滑らかに見えて実際は乱流であり、密度のムラが視線を横切るたびに位相が揺れる — それが本節の「平均遅延より揺らぎが効く」の物理的な姿である。

3.3.3 なぜ航法に効くのか — 遅延よりも「揺らぎ」

平均的な遅延なら較正のしようもあるが、太陽風は乱流である。 密度ムラが視線を横切るたび、位相が数秒〜数分スケールで揺らぎ、 ドップラ残差のパワーが増える(Allan偏差の悪化として現れる — 第2.3章の精度限界の議論)。 この揺らぎは:

  • 白色でも定常でもない — 重み付けの前提(第4.2章)を壊す。時間相関つき誤差として扱う(第4.7章)
  • 1/f²で効く — 分散性なので二周波(第3.2章)とKa帯化が効く。 X帯→Ka帯で揺らぎの寄与は1/14 — 「合に強い」がKa帯の隠れた利点である (『周波数管理と国際調整』第2.4章の表には出ない項目)
  • 幾何だけで決まらない — CME(コロナ質量放出)が視線を横切れば、SEP角が大きくても突発的に荒れる。 宇宙天気情報との突き合わせが切り分け(第4.9章)に役立つ

3.3.4 設計での緩和 — まとめ

  1. 計画:合の期間を暦で特定し、臨界イベント(マヌーバ・軌道投入)を置かない(第5.1章・第6.4章)
  2. 周波数:Ka帯利用・二周波構成はプラズマに対して1〜2桁の耐性を買う
  3. 推定:合の前後のデータは分散を膨らませ・相関誤差として扱い、アーク設計(第4.5章)で合を跨がない
  4. 探査機側:合期間の自律動作(コマンド無しで安全に過ごす — セーフィング設計)を前提に組む

3.3.5 逆転の視点 — 雑音は信号である

合のドップラ・レンジデータは、航法にとってはゴミでも、 太陽コロナを電波で串刺しにした断層観測そのものである。 探査機の合を利用したコロナ電子密度の推定、太陽風の乱流スペクトルの研究、 さらに一般相対論の検証(Shapiro遅延の精密測定 — 第3.4章)は、 すべて「合の悪条件データ」を主役にした電波科学である(第6.5章)。 同じデータが立場で信号にも雑音にもなる — 本書で繰り返し現れる構図の、最も鮮やかな例である。

Q. 合の間、探査機の軌道情報はどんどん劣化しないのか
A. する。追跡できない数週間、軌道は力学モデルだけで外挿され、 共分散は成長する(第5.4章の予測劣化)。だから合明けの再捕捉計画 (不確かさに耐える捕捉戦略)と、合前の「置き土産」(合直前に良い軌道解を確定させる集中追跡 — 第5.1章)が対で設計される。第6.4章で実務の型を扱う。
Q. 太陽の「手前」を通る内合でも同じか
A. 幾何は同じくSEP角で決まる(内惑星ミッションの内合・外惑星の外合とも、 視線が太陽に近づくことが本質)。違いは距離とRTLT、そして内合では探査機が地球に近いため 同じSEP角でも視線のコロナ通過区間の位置が変わること。 いずれにせよ運用判断の物差しはSEP角+宇宙天気である。
■ この章のまとめ
  • 太陽プラズマは電離層と同じ物理(40.3·TEC/f²)のスケール違い。合で最大の誤差源になる
  • 幾何はSEP角一つで代表。p ≈ 1au·sin(SEP)。実務はしきい値運用(〜10°で警戒、〜2°で休止)
  • 効くのは平均遅延より乱流性の揺らぎ — 白色でも定常でもない誤差として推定側で扱う
  • 緩和は計画(暦で予測可能)・Ka帯/二周波・アーク設計・自律化の四本柱
  • 合期間は何年も前から暦で分かる — 驚いてはいけない誤差源の代表
  • 同じデータがコロナ科学・相対論検証の一級の観測になる(第6.5章)
SEP角しきい値は各ミッションの周波数・要求で変わる — 表の値は目安であり、 自ミッションの値はリンク解析と航法要求から決めること(第6.4章に設計例)。 コロナ密度モデル・宇宙天気情報の入手先は付録C。

第3.4章相対論的補正 — Shapiro遅延と座標時

■ この章で学ぶこと
深宇宙の測距は、一般相対論を使わないと合わない精度で行われている。 アインシュタインの理論は、この分野では検証対象である以前に日常の較正項である。 本章では桁の確認から始め、二大補正 — 経路の側のShapiro遅延と、 時計の側の座標時・固有時の変換 — を実務の形で押さえる。 深遠な理論の章ではなく、「入れ忘れると残差に何メートル出るか」の章である。 ただし最後に一度だけ深遠に振り返る:この補正項の精密測定こそ、 太陽系で最も厳しい相対論検証だからである。

3.4.1 まず桁 — 入れ忘れたらどう見えるか

効果桁(典型幾何)入れ忘れの症状
Shapiro遅延(太陽)往復で数十µs=十km級。合の近くで急増レンジに幾何依存の大きな系統差
時間の遅れ(探査機の時計)速度・重力ポテンシャルで秒/年の桁の割合差1-way系観測・SCLK相関のドリフト
TT−TDB周期項(地球の時計)振幅約1.7 ms(年周)暦の引数誤り→位置で数百km相当の誤読(第1.4章)
光行差・座標系の運動v/c ≈ 10⁻⁴ の角度・周波数補正方向・ドップラの系統ずれ

どれも「小さな補正」ではない。m級の測距に対して桁違いに大きいものばかりであり、 相対論はモデル h(x)(第2.1章)の必須構成要素である。

3.4.2 Shapiro遅延 — 重力場の中で光は「遠回り」する

質量 M の天体のそばを通る電波は、時空の曲がりのぶん余計な時間がかかる。 送信点 r₁・受信点 r₂・天体からの距離を使って(PPNパラメータγ込みで):

Δt_{Shapiro} = \frac{(1+γ)GM}{c^{3}}\,\ln\!\left[\frac{r_1 + r_2 + r_{12}}{r_1 + r_2 − r_{12}}\right] (一般相対論では γ = 1)

太陽項が支配的で、(1+γ)GM☉/c³ ≈ 9.9 µs。対数の中身は幾何で決まり、 視線が太陽をかすめる(合 — 第3.3章)ほど分母が小さくなって遅延が伸びる。 太陽から離れた普通の幾何でも往復数十µs(10 km級)あり、常時入れる。 地球・惑星の項はns級だがcm精度では入れる。

公開事例:カッシーニ探査機の2002年合でのドップラ精密追跡は、 γ = 1 + (2.1±2.3)×10⁻⁵ という当時最高精度の相対論検証を与えた(公開文献)。 使われた道具は本書の道具立てそのもの — Ka帯多周波リンク(第3.3章のプラズマ除去)と 精密ドップラ(第2.3章) — である。航法の較正項と基礎物理の検証が同じ測定だという実例。

3.4.3 時計の相対論 — どこで時を刻むかで速さが違う

時計の進みは、重力ポテンシャルが深いほど・速く動くほど遅くなる:

\frac{dτ}{dt_{coord}} ≈ 1 − \frac{U}{c^{2}} − \frac{v^{2}}{2c^{2}}

地球表面の時計と太陽系重心の座標時の間には、この積分として 年周期の振幅約1.7 msの差(TT−TDBの周期項)と定数レート差が生じる。 探査機の時計(USO・SCLK — 第3.5章)も、軌道ごとに固有のレート差・周期差を持つ。 1-way観測(機上時計基準の観測量)やSCLK相関(第3.5章)では、 この変換を入れないと観測方程式が最初から破綻する。

3.4.4 実装の形 — どこに何を入れるか

実務では相対論は三か所に分散して実装される。場所を覚えておくと混乱しない:

  1. 力学 — 運動方程式にポストニュートン補正項(太陽の1/c²項など)を足す(第1.2章の a_pert の一つ)
  2. 経路 — 光行時間方程式(第2.2章)にShapiro項 Δ_rel を足す
  3. 時計 — 全時刻タグを正しい時系(第3.5章)で解釈し、TDB⇄TT⇄固有時の変換を通す

三か所は同じ計量の一貫した近似でなければならない。 力学だけ相対論的で時計がニュートン的、という「つまみ食い」は系統誤差を作る。 標準の定式化(JPLのMoyer定式 — 第2.7章注記の公開文献)に従うのが安全で、 SPICE・主要ODソフトはこれを実装している。

Q. 特殊相対論のドップラ(横ドップラ等)は別に入れるのか
A. 別に入れない — 正しい定式化では自動的に入る。 観測モデルを「座標時での光行時間の差分」(第2.3章の差分レンジ観)として組み、 時刻変換(3.4.3)を通せば、v²/c²の横ドップラも重力赤方偏移も式の中に現れる。 「効果を一個ずつ足す」のではなく「一貫した時空で計算する」のが現代の実装である。
Q. ニュートン力学との差を体感する一番簡単な計算は?
A. GPSが好例である(公開の教科書的事実):衛星時計は重力赤方偏移+速度の効果で 地上より1日に約38 µs速く進み、補正しなければ測位誤差は日に10 km級で成長する。 深宇宙はGPSより幾何が大きいぶん、Shapiro遅延(10 km級)が最初から見えている — 「相対論は工学の道具」という感覚は、この二例で腹に落ちる。
■ この章のまとめ
  • 相対論は検証対象である前に日常の較正項。入れ忘れはkm〜10 km級の系統誤差
  • Shapiro遅延:太陽項9.9 µs×幾何対数。合で急増、普段から10 km級
  • 時計:重力と速度で進みが変わる。TT−TDB年周1.7 ms、探査機時計は軌道固有のドリフト
  • 実装は力学・経路・時計の三か所に分散 — 同じ計量で一貫させる(Moyer定式)
  • 効果を足すのではなく一貫した時空で計算すると、横ドップラ等は自動で入る
  • 同じ測定が最高精度の相対論検証になる(カッシーニγ測定 — 第6.5章)
定式化の一次資料はMoyer(JPL公開 — 付録C)。 PPNパラメータの現行検証値は公開文献で確認。 本章の数値(9.9 µs・1.7 ms・38 µs/日)は標準的な公開値である。

第3.5章時系と時計 — TAI/TT/TDB と SCLK相関

■ この章で学ぶこと
観測量の正体は時刻の測定である(レンジ=光行時間、ドップラ=位相の時間差分)。 だから時刻の扱いを誤れば、すべてが静かに壊れる。 本章では時系の系譜(UTC/TAI/TT/TDB)を「どれで何をするか」の実務対応で整理し、 機上時計SCLKと地上時刻を結ぶ時刻相関、 時計の確率的な揺らぎ(アラン偏差)が観測精度に与える床までを扱う。 第2.3章(ドップラ精度は基準の安定度で決まる)と第3.4章(時計の相対論)が、 ここで一つの体系に合流する。

3.5.1 時系の系譜 — 4つだけ覚える

時系正体本書での用途
UTC原子時にうるう秒を挿入した社会の時刻データのタイムタグ・運用の時刻
TAI国際原子時(連続・うるう秒なし)UTCとの橋。TAI = UTC + うるう秒累計
TT地球時。TT = TAI + 32.184 s(定義上の定数)地球近傍の理論時刻
TDB太陽系力学時(重心系の座標時の実用版)軌道積分・暦の引数(第1.4章)。TTとの差は年周1.7 ms(第3.4章)

実務の流れは一本道である: 観測はUTCで記録 → TAI・TTへ(定数とうるう秒表) → TDBへ(周期項変換) → 力学計算。 逆向きも同様。この変換チェーンのどこかで1段抜けると、 32.184 s(光で約10⁷ km!)や、うるう秒1 s、TT−TDBの1.7 msが系統誤差として現れる。 幸いどれも特徴的な大きさなので、残差を見れば「どの段を抜いたか」まで診断できる — 32秒級ならTT-TAI、1秒ちょうどならうるう秒、年周msならTDB変換である。

公開情報:うるう秒の挿入はIERSが公報(Bulletin C)で決定・公表し、 SPICEのLSKカーネル(第1.4章)や各種うるう秒表として配布される。 2035年ごろまでにうるう秒を廃止する方向が国際的に決議されており(2022年CGPM決議、公開)、 将来は「うるう秒表が更新されなくなる」— 時刻系も制度も変わり続ける前提で版管理すること。

UTC 観測の記録 うるう秒 TAI 連続な原子時 +32.184 s TT 地球時 年周1.7 ms TDB 暦・軌道積分 抜けた段は特徴的な大きさで残差に出る — 大きさが診断名になる 32秒級=TT−TAI忘れ / 1秒ちょうど=うるう秒 / 年周ms=TDB変換忘れ
図3.5-1 時系の変換チェーンは一本道。 観測はUTCで記録し、力学はTDBで計算する。 途中の段を飛ばすと、その段固有の大きさの系統誤差が残差に現れる — 逆に言えば、残差の大きさから抜けた段を逆算できる

3.5.2 SCLK — 機上のもう一つの時計

探査機は自分のクロック(SCLK:ミッション経過のカウンタ)で動く。 テレメトリの時刻も観測機器のタイムスタンプもSCLKである。 SCLKと地上時系(UTC/TT)の対応づけが時刻相関で、実務は:

  1. 地上局がコマンド/パケットの送受時刻(地上UTC)を精密に記録する
  2. 機上でそのパケットのSCLK受信時刻が記録される
  3. 電波伝搬時間(=レンジ! 第2.2章)と機上処理遅延を差し引いて、SCLK⇄UTC対応点を得る
  4. 対応点の列に時計モデル(オフセット+レート+…)をあてはめ、相関係数として配布する(SPICEのSCLKカーネル)

ここに美しい再帰がある:時刻相関にはレンジ(軌道)が要り、レンジ計測には時刻が要る。 実際には要求精度の差(時刻相関はms級で足りることが多い/測距はns級)が この循環を実用上ほどいている。ただし1-way観測(機上USO基準 — 電波科学や掩蔽)では 機上時計そのものが観測基準になり、時計モデルの精度が観測精度に直結する。

3.5.3 時計の確率モデル — アラン偏差という言葉

時計の品質は「どれだけ正確か」ではなく「どの時間スケールでどれだけ安定か」で語る。 その標準語がアラン偏差 σ_y(τ):平均化時間 τ での周波数の相対的なばらつきである。

基準σ_y(1000 s)の桁(公開仕様の典型)ドップラ換算(×c)
水素メーザ(地上局 — 『地上局工学』第5.1章)10⁻¹⁵ 級0.3 µm/s級 — 現代ドップラの床
超安定発振器 USO(機上)10⁻¹³ 級30 µm/s級 — 1-way観測の床
一般の水晶(機上SCLK駆動)10⁻⁹〜10⁻¹⁰時刻相関の対象。観測基準には不可

2-wayコヒーレント観測(第2.3章)が強いのは、 探査機の時計を使わず、地上メーザ1台で往復を閉じるからである — 機上USOの2桁悪い安定度が観測に入らない。 1-way・3-way(送受別局)では誰の時計がどこに入るかが変わり、 その分の時計パラメータを推定に加える(第5.6章)。

3.5.4 時計パラメータの推定

時計の誤差はオフセット・レート・エージング(レートのドリフト)の多項式+確率揺らぎでモデル化し、 多項式係数は推定パラメータ(第2.7章の直接項)、揺らぎは確率過程(第4.7章)として扱う。 3-way観測の局間時計差、1-way観測のUSOドリフトが典型の推定対象である。 ここでも「決定論はモデルへ、確率は統計へ」(第1.5章)の分業が現れる。

Q. うるう秒の瞬間をまたぐパスはどうなるのか
A. UTCの時刻目盛が1秒ぶん不連続になる(23:59:60が挿入される)。 連続時系(TAI/TT)へ変換してから処理すれば何も起きない — 逆に言えば、UTCのまま時刻差を計算するコードがあれば、その夜だけ1秒の化け物残差が出る。 うるう秒明けの運用で残差が1秒相当ずれたら、まず時刻変換ライブラリの版(LSK)を疑うこと。 この種の事故が繰り返されてきたことが、うるう秒廃止決議の背景の一つである。
Q. なぜ軌道積分はTDBでなければならないのか
A. 「ならない」のではなく「暦がTDB引数で作られている」からである(第1.4章)。 力学の時刻とはすなわち暦の時刻であり、揃っていれば理論上はどの座標時でもよい。 実務は暦に合わせる — DE暦=TDB、が事実上の標準である。 TTのままDE暦を引くと年周1.7 ms(地球公転速度30 km/s×1.7 ms=火星位置で50 m級の誤読)が入る。
■ この章のまとめ
  • 変換チェーンは一本道:UTC →(うるう秒)→ TAI →(+32.184 s)→ TT →(年周1.7 ms)→ TDB
  • 抜けた段は特徴的な大きさで残差に出る — 大きさが診断名になる
  • SCLK相関は伝搬時間を差し引いて対応点を作る。時刻と軌道の循環は要求精度の差でほどける
  • 時計の言葉はアラン偏差。地上メーザ10⁻¹⁵が2-wayドップラの床(0.3 µm/s級)
  • 2-wayの強さ=機上時計が観測に入らないこと。1-way/3-wayは時計パラメータを推定に足す
  • うるう秒は制度ごと変わる(廃止決議済み) — 時刻系も版管理の対象
うるう秒公報(IERS Bulletin C)・SCLK/LSKカーネル仕様(NAIF)は公開(付録C)。 アラン偏差の値は機器の公開仕様の桁 — 自局・自機の実測値(『地上局工学』第5.1章)で置き換えて使うこと。

第3.6章観測量誤差予算を組む

■ この章で学ぶこと
第3部の総決算として、ここまでの誤差源を一枚の表に束ねる。 誤差予算は会計であると同時に設計文書である: どの項が支配的かが分かれば、較正投資(WVRを買うか・二周波にするか)の優先順位が決まり、 推定に渡す観測重み(第4.2章)の根拠になる。 鍵は誤差を大きさだけでなく性格(ランダム/バイアス/時間相関)で分類すること — 性格が違えば、観測を増やしたときの振る舞いも、推定での扱いも全く違うからである。

3.6.1 誤差の三つの性格

性格振る舞いN個平均すると推定での扱い
ランダム(白色)点ごとに独立1/√N で減る観測重み(分散)に反映(第4.2章)
バイアス(一定系統)アーク内で一定減らないパラメータとして推定 or consider(第4.6章)
時間相関(色つき)ゆっくり漂う(媒質・時計)相関時間より密に取っても減らない確率過程モデル(第4.7章)・データ間引き

最重要の警告を先に:「たくさん測れば精度が上がる」はランダム成分にしか通用しない。 深宇宙の観測残差はたいてい時間相関が支配的で、 1秒レートのドップラを60秒に圧縮しても情報はほぼ失われない(第4.5章のデータ圧縮の根拠)。 逆に、バイアスを1/√Nで割って「平均精度」を誇る予算表は自己欺瞞である。

平均する点数 N → 誤差 ランダム:1/√N で減る バイアス:減らない 時間相関:相関時間までしか減らない 「たくさん測れば精度が上がる」はアクセント色の線にしか通用しない
図3.6-1 誤差の三つの性格と、平均の効き方。 予算表を性格別に分けるのは、この図の三本の線がまったく違う振る舞いをするからである。 バイアスを1/√Nで割って「平均精度」を誇る予算表は自己欺瞞であり、 深宇宙の残差はたいてい相関誤差(下の線)が支配する。

3.6.2 レンジ誤差予算(2-way・X帯・較正後の残差)

性格桁(現代の目安)出所
熱雑音(S/N・積分時間)ランダム0.1〜1 m第2.2章の精度式
局機器遅延(ゼロ点較正残差)バイアス0.5〜2 m第5.6章
機上折返し遅延(温度変動込み)バイアス+相関0.3〜3 m第2.2章2.2.9
対流圏(較正残差)相関数cm〜0.2 m第3.1章
電離層+太陽プラズマ(X帯・非合)相関数cm〜0.5 m第3.2〜3.3章
局位置・EOPバイアス(日周構造)数cm〜dm第2.6章
合計(RSSでなく性格別に併記)ランダム<1 m/系統1〜3 m級

読み方:現代の2-wayレンジは雑音より系統(機器遅延系)が支配的である。 精度を上げたければ積分時間ではなく較正(第5.6章)に投資する — 予算表が投資判断を教える例である。

3.6.3 ドップラ誤差予算(2-way・X帯・60 s圧縮点)

性格出所
熱雑音(ループSNR)ランダム0.01〜0.1 mm/s第2.3章
周波数基準(メーザ)相関〜0.3 µm/s(σ_y=10⁻¹⁵)第3.5章
対流圏の揺らぎ相関 — 通常これが支配0.03〜0.1 mm/s第3.1章
プラズマ(非合/合近傍)相関0.01 mm/s/×10〜100第3.2〜3.3章
機上USO(1-wayのみ)相関2-wayでは入らない第3.5章

ドップラは雑音の床(µm/s級)が異様に低く、実効精度は大気とプラズマの揺らぎで決まる。 だから天気と幾何(仰角・SEP角)で日々変わる — 重み(第4.2章)を固定値でなくパスごとに評価する運用には、この予算構造の裏付けがある。

3.6.4 ΔDOR誤差予算(X帯・典型セッション)

性格桁(角度)出所
探査機トーン/クェーサーS/Nランダム1〜3 nrad第2.4章の式
クェーサー位置(ICRF)バイアス<1 nrad第2.6章
対流圏差分残差相関1〜2 nrad(離角に比例)第2.4章・第3.1章
電離層・プラズマ差分残差相関<1〜数nrad第3.2〜3.3章
局位置・EOPバイアス<1 nrad第2.6章
合計数nrad(1 auで数百m)第2.4章の例と整合

3.6.5 予算から重みへ — 第4部への受け渡し

推定器に渡すのは予算表そのものではなく、そこから導いた統計モデルである:

  1. ランダム項 → 観測分散 σ²(重み行列 W = R⁻¹ — 第4.2章)。 圧縮レート(60 s点など)に合わせて換算する
  2. バイアス項 → 推定パラメータに昇格(局バイアス b_st — 第2.2章の表)、 または consider parameter として共分散にだけ効かせる(第4.6章)
  3. 相関項 → 確率過程(ガウス・マルコフ等 — 第4.7章)としてモデル化、 または相関時間程度までデータを間引いて「準白色」として扱う(実務の常套)
【予算表の健全性チェック】 予算が正しければ、収束後の残差RMSは予算のランダム項と一致し、 残差の時間構造は相関項の想定と一致するはずである。 残差が予算より良すぎる場合も疑う — 過剰パラメータが系統誤差を「食べて」いる兆候かもしれない (第4.6章・第4.9章)。予算表は書いて終わりではなく、飛行データと照合し続ける生きた文書である。
Q. 各項をRSS(二乗和平方根)で合計してはいけないのか
A. 性格の違う誤差のRSSは意味が薄い。バイアスと白色雑音を足しても 「N点平均後」の値が表せない(前者は残り後者は消える)。 本章の表が「合計」を性格別に併記するのはそのためである。 一つの数字がどうしても要る文書では、何点平均・どのアーク長での実効値かを明記して出すこと。
Q. 3つの予算表のうち、結局どれが軌道精度を決めるのか
A. 幾何とフェーズによる — が答えの型は第2.1章にある: 視線方向はレンジ/ドップラ系統、横方向はΔDOR・光学の予算が支配する。 共分散解析(第4.6章)に3表の統計モデルを入れて回せば、 「自分のミッションのこのフェーズでは何が効くか」が定量で出る。 予算表はその入力データである。
■ この章のまとめ
  • 誤差は性格(ランダム/バイアス/相関)で分類する。1/√Nはランダムにしか効かない
  • レンジは系統(機器遅延)支配 — 投資先は積分時間でなく較正
  • ドップラは雑音床µm/s級、実効は大気・プラズマの揺らぎ支配 — 重みはパスごとに
  • ΔDORは差分の妙で各項1〜数nradに収まり、合計数nrad
  • 受け渡し:ランダム→重み、バイアス→推定/consider、相関→確率過程/間引き
  • 予算表は残差と照合し続ける生きた文書。良すぎる残差も疑う
表の数値は現代の較正水準での桁の目安(DSN公開文書等 — 付録C — と整合)。 自ミッションの予算は自局の実測(『地上局工学』第3.5章・第5.6章)で置き換えて組むこと。
第 IV 部 推定理論
本書の背骨。観測量から状態を推定する枠組みを、最小二乗から共分散解析・consider parameter まで通しで構築する。

第4.1章推定問題の定式化

■ この章で学ぶこと
材料は揃った。力学 x(t)(第1部)、観測 y = h(x)+ε(第2部)、 誤差の統計モデル(第3部)。第4部はこれらを束ねて逆問題を解く — 観測の束から状態を推定する。本章はその定式化: 状態ベクトルに何を入れるか、非線形をどう線形化するか、 「最良の推定」とは何を最小化することか。 ここで決める記法と概念(参照軌道・残差・重み・コスト関数)は 第4部の残り8章で共通に使う。本書の新規性の核はこの部にある — じっくり足場を組む。

4.1.1 状態ベクトルの設計 — 何を「未知」と認めるか

推定する量の選択そのものが設計である。典型的な拡大状態:

\mathbf{X} = \big[\underbrace{\mathbf{r}_0,\ \mathbf{v}_0}_{エポック状態6},\ \underbrace{C_r,\ ΔV_i,\ …}_{力学パラメータ},\ \underbrace{b_{st},\ δZ_{wet},\ …}_{観測・媒質パラメータ}\big]
入れる基準説明
観測に効き、かつ不確か効かない量は決まらない(可観測性 — 第4.8章)。確かな量は定数でよい
他とほぼ縮退しない縮退する組(C_d·A·ρ — 第1.6章)はまとめて1個に
入れないなら consider へ推定しないが不確かな量は共分散にだけ効かせる(第4.6章)

「とりあえず全部推定」は誤り — パラメータを増やすほど解は柔らかくなり、 系統誤差を吸って軌道を歪める(第3.6章の「良すぎる残差」、第4.6章)。 状態設計は少なすぎず多すぎずの綱渡りであり、第4部全体がその判断材料を与える。

4.1.2 線形化 — 参照軌道の周りの小さな世界

力学も観測も非線形だが、良い初期推定(参照軌道)x* があれば、 その周りのずれ δx(t) = x(t) − x*(t) は小さく、一次展開が成り立つ。 さらに δx(t) は状態遷移行列でエポックのずれ δX₀ に引き戻せる(δx(t) = Φ(t,t₀)δX₀ — 第1.2章)から、 未知数はエポックの δX₀ ただ一つにまとまる:

δy \equiv y − h(x^{*}) ≈ H\,δ\mathbf{X}_0 + ε, H = \frac{∂h}{∂\mathbf{x}}Φ(t,t_0) (第2.7章)

左辺 δy が残差(O−C:観測引く計算)である。 非線形問題は「残差をδXの線形式で説明する」問題に化け、 解いたら参照軌道を更新してまた線形化する — この反復(微分補正)が第4.2章の骨格になる。 デリケートな点は一つだけ:初期推定が悪すぎると一次近似が壊れて収束しない。 打上げ直後・機動直後など「参照が粗い」場面の対処は第4.4章(非線形拡張)で扱う。

4.1.3 何を最小化するか — 重みつき二乗和

観測誤差 ε の共分散を R とすると、最小化すべき自然なコストは

J(δ\mathbf{X}) = (δ\mathbf{y} − H\,δ\mathbf{X})^{T} R^{-1} (δ\mathbf{y} − H\,δ\mathbf{X})

R⁻¹ が重み:正確な観測ほど強く効く(第3.6章の予算がRの中身)。 このJを最小にする δX̂ が重みつき最小二乗解(第4.2章)である。 統計的な位置づけを三つの顔で持っておくと後の章が読みやすい:

  • 幾何の顔 — 残差ベクトルを H の張る空間へ直交射影する(重み付き内積で)
  • 最尤の顔 — εがガウスなら J の最小化は尤度の最大化と同じ
  • ベイズの顔 — 事前情報 (X̄₀, P̄₀) を「仮想観測」として足せば事後最頻値(第4.2章のベイズ最小二乗、カルマンへの橋 — 第4.3章)

4.1.4 推定量の品質 — 三つの問い

問い概念実務での意味
ずれていないか不偏性モデル誤差・系統誤差があると破れる(第3部の較正が前提)
データを増やせば真値に行くか一致性相関誤差(第3.6章)があると「増やしても行かない」
これ以上良くできるか有効性・下限クラメール・ラオ下限(第4.8章)が理論の床を与える

教科書的なきれいな性質は「モデルが正しくεが白色ガウス」の世界の話であり、 実データは必ずその外にいる。第4部後半(4.6〜4.9)は全部、この「外」との戦い方である — と先に見取り図を示しておく。

4.1.5 記法の約束

記号意味
X₀ / δX₀エポック拡大状態/参照からのずれ(推定対象)
x*(t)参照軌道(線形化の中心。反復で更新)
H, R, W=R⁻¹感度行列(第2.7章)・観測誤差共分散・重み
P̄ / P̂事前/事後の状態共分散
Φ(t,t₀), Q状態遷移行列(第1.2章)・プロセス雑音共分散(第4.3章)
Q. エポック状態は「いつ」に置くのがよいのか
A. 慣例はデータアークの先頭または中央。数値的にはアーク中央が条件数に優しい (両端への外挿距離が最短 — Φの成長が対称になる)。 運用上は「次の判断が要る時刻」(マヌーバ設計時刻など)へ解を伝播して使うので、 エポック自体は計算の都合で選んでよい。アーク設計とセットの議論は第4.5章で。
Q. R(観測誤差共分散)を過小に与えるとどうなるか
A. 形式共分散 P̂ が実力より小さく出て(自信過剰)、 重みの相対バランスも歪む。逆に過大なら情報を捨てる。 第3.6章の予算表がRの根拠であり、収束後の残差統計とRの整合チェック (residual ratio test — 第4.9章)が答え合わせになる。 「Rはチューニングつまみではなく物理の申告」という規律を最初に置いておく。
■ この章のまとめ
  • 推定対象は拡大状態:エポック状態+力学・観測パラメータ。状態設計自体が設計判断
  • 参照軌道の周りで線形化し、残差 O−C を δX の線形式で説明する。解いては再線形化(反復)
  • コストは重みつき二乗和。幾何(射影)・最尤・ベイズの三つの顔で同じ式を見る
  • きれいな統計的性質は白色ガウスの世界の話 — 実データとの落差を4.6〜4.9で埋める
  • Rは物理の申告(第3.6章の予算)であり、チューニングつまみではない
本章の定式化はODの標準(Tapley/Schutz/Born、Moyer — 付録C)に沿う。 記法は本書内で閉じるよう最小化した — 他書と突き合わせるときは記号対応表を自分で作ること。

第4.2章重み付き最小二乗とバッチ推定

■ この章で学ぶこと
深宇宙軌道決定の主力エンジンであるバッチ最小二乗(微分補正法)を、 解の式から数値実装(QR/Cholesky)・反復収束まで一気通貫で組む。 カルマンフィルタ(次章)のほうが有名だが、 定常運用のODは今も昔も「アークのデータを貯めてバッチで解く」が基本形である — なぜそうなのかも本章で分かる。式は第4.1章の J を最小化するだけ。 本章の実質は正しく・安定に・収束させるための工学にある。

4.2.1 正規方程式 — 解の骨格

∂J/∂δX = 0 から:

\big(H^{T}WH\big)\,δ\hat{\mathbf{X}} = H^{T}W\,δ\mathbf{y},  \hat{P} = \big(H^{T}WH\big)^{-1}

Λ = HᵀWH は情報行列 — 観測がもたらした情報の総和で、 各観測の寄与 HᵢᵀWᵢHᵢ の足し算になっている(だから逐次化できる — 第4.3章)。 その逆行列が事後共分散 P̂:解と同時に「どれだけ信じてよいか」が出るのが最小二乗の美点である。 P̂ の意味と限界(形式誤差 vs 実誤差)は第4.6章で深掘りする。

4.2.2 事前情報つき(ベイズ)最小二乗

前回の解や打上げ情報など、事前推定 X̄₀(共分散 P̄₀)があるなら「仮想観測」として足す:

δ\hat{\mathbf{X}} = \big(P̄_0^{-1} + H^{T}WH\big)^{-1}\big(H^{T}W\,δ\mathbf{y} + P̄_0^{-1}\,δ\bar{\mathbf{X}}_0\big)

データが弱い方向は事前が支え、強い方向はデータが上書きする。 弱い可観測性の成分(第4.8章)を安定化する実務の標準装備であり、 この式を時間方向に分解したものがカルマンフィルタになる(第4.3章の等価性)。 注意も対で:事前を強く与えすぎれば、間違った事前が答えを固定する。 P̄₀は「本当に信じている分だけ」申告する — Rと同じ規律である(第4.1章)。

4.2.3 数値の作法 — 正規方程式を「作らない」

HᵀWH を明示的に作ると条件数が二乗される(κ(HᵀH) = κ(H)²)。 桁の違うパラメータが混ざる拡大状態(位置kmとバイアスnsが同居)では致命的になりうる。 現代の実装は:

  1. スケーリング — 各状態を代表誤差で無次元化してから解く(条件数の大幅改善)
  2. QR分解 — W^{1/2}H を直接QR分解して三角系を解く(二乗を回避 — 平方根情報フィルタSRIFの思想)
  3. 正規方程式を組む場合もCholesky分解で解き、逆行列は最後まで作らない

「逆行列を書いたら負け」は数値線形代数の一般則だが、 ODでは状態の桁差が極端なぶん、破ったときの罰も大きい。

4.2.4 反復 — 微分補正のループ

参照軌道 x*(t) を積分(第1部) 残差 O−C と H を計算(第2部) 最小二乗で δX̂ を解く 収束判定 ‖δX̂‖ 小? No:参照を更新 x* ← x* + δX̂ して再線形化 Yes:解 X̂・共分散 P̂・残差統計を出力 残差RMSが予算(第3.6章)と整合するかまで確認して初めて「収束」(第4.9章)
図4.2-1 微分補正のループ。 「積分 → 残差とH → 解く → 参照更新」を残差が動かなくなるまで回す。 通常2〜4回で収束する。収束の宣言には‖δX̂‖の縮小だけでなく 残差統計と予算の整合(第3.6章・第4.9章)まで含める — 収束した誤答は珍しくない。

収束しない・振動するときの三大原因と対処: ①初期推定が粗すぎる(→データを一部に絞って粗く解いてから全量へ、または第4.4章) ②Hのバグ(→第2.7章の数値微分検算) ③状態の縮退(→第4.8章。縮退方向は事前情報で支えるか状態から外す)。

4.2.5 なぜ実務はバッチが基本なのか

  • 反復再線形化が自然 — 全データで参照軌道を作り直せるので、非線形に強い
  • データ編集と相性が良い — 外れ値の除去・重み変更(第4.9章)を全体を見て何度でもやり直せる
  • 運用のリズムに合う — ODは「パスのデータが揃ってから、次の判断(予測配布・マヌーバ設計)までに解く」 という数時間〜日単位の営みであり、瞬時性への要求が薄い

逐次(カルマン)が勝つのは、リアルタイム性が本質の場面 — 機上自律航法(第5.7章)・着陸誘導 — である。両者の使い分けは次章で正面から扱う。

Q. 観測の種類(レンジとドップラ)で単位も桁も違う。どう混ぜるのか
A. 重み W = R⁻¹ が自動的に無次元化する — J の各項は (残差/σ)² という無次元量である。 「mとmm/sをどう足すのか」という疑問の答えは「σで割ってから足している」。 だからこそRの申告(第3.6章)が混合比を決める急所になる。
Q. 反復のたびにHも計算し直すのか
A. 原理上はYes(Hは参照軌道に依存)。実務では、残差だけ更新してHを固定する省略も 収束後半ではよく使う(Hの変化は二次の効果)。ただし初回の大きな補正の後は再計算が安全。 「どこまで手を抜けるか」は非線形の強さ次第 — 迷ったら再計算する。
■ この章のまとめ
  • 解は (HᵀWH)δX̂ = HᵀWδy。情報行列は観測の寄与の和、逆が共分散
  • 事前情報は仮想観測。データが弱い方向を支えるが、強すぎる事前は毒
  • 数値の作法:スケーリング・QR/Cholesky・逆行列を作らない。条件数の二乗を避ける
  • 微分補正ループは2〜4回で収束。収束の宣言に残差統計との整合まで含める
  • 実務の基本形はバッチ — 非線形・編集・運用リズムに合う。逐次はリアルタイムの場面で
SRIF等の数値実装の詳細はBierman(推定の数値解法の古典 — 付録C)。 収束判定・編集の実務は第4.9章とセットで運用手順に落とすこと。

第4.3章逐次推定 — カルマンフィルタ

■ この章で学ぶこと
バッチ(前章)が「データを貯めて一括で解く」なら、 カルマンフィルタは観測が来るたびに解を更新する。 数学的には同じ最小二乗の時間分解にすぎない — が、 逐次化によって初めて自然に入る概念が一つある:プロセス雑音 Q、 すなわち「力学モデル自身も完全ではない」という申告である。 本章では予測・更新の2ステップ、バッチとの等価性と使い分け、 Qの意味(これが第4.7章の主役になる)、発散と平方根実装までを扱う。

4.3.1 二拍子のアルゴリズム

状態推定 x̂ と共分散 P を、観測のたびに二拍子で回す:

予測:\ \bar{x}_{k} = f(\hat{x}_{k-1}),\quad \bar{P}_{k} = Φ_{k}\hat{P}_{k-1}Φ_{k}^{T} + Q_{k}
更新:\ K = \bar{P}H^{T}\big(H\bar{P}H^{T} + R\big)^{-1},\quad \hat{x} = \bar{x} + K\,(y − h(\bar{x})),\quad \hat{P} = (I−KH)\bar{P}

読み方:予測で共分散は力学で伸ばされ(Φ P Φᵀ)、モデル不確かさで膨らむ(+Q)。 更新でカルマンゲイン K が「予測をどれだけ信じ、観測をどれだけ信じるか」を 共分散の比で自動配分する。K の分母 HP̄Hᵀ+R は イノベーション(予測残差)の予想分散 — 実測のイノベーションがこれと合うかが フィルタ健全性の監視量になる(第4.9章)。

4.3.2 バッチとの関係 — 同じ山を別の道で登る

バッチ(第4.2章)逐次(本章)
Q=0のとき数学的に同じ解(情報の足し算の順序が違うだけ)
非線形への強さ◎ 全データで再線形化を反復△ 線形化は一度きり(→第4.4章EKF/UKF)
モデル誤差(Q>0)素の形では持てない(拡張が要る — 第4.7章)自然に持てる — 最大の存在理由
データ編集◎ 全体を見て往復できる△ 流れてくる順にしか見えない
出番定常のOD・精密再構築リアルタイム:自律航法(第5.7章)・着陸誘導・エアロブレーキング

「新しいデータが来たらバッチを回し直す」ことは今の計算機ならすぐできる — だから深宇宙の地上ODでは逐次性そのものの価値は小さい。 逐次を選ぶ本当の理由はQを通じて「忘れる」機能にある。次節。

4.3.3 プロセス雑音 Q — 忘却という機能

Q=0のフィルタは、全履歴を等しく信じ続ける。共分散は単調に縮み、 ゲインは0に近づき、新しい観測を聞かなくなる。 現実の力学モデルには誤差がある(第1.5〜1.6章の非重力・密度)から、 これは「間違った確信」への一本道である — フィルタ発散の古典的な機構。

Q>0 はこれを直す:予測のたびに共分散へ不確かさを注ぎ、 共分散にを作り、ゲインを開き続ける。 効果として古いデータを指数的に忘れるフィルタになる — 時定数は QとΦの釣り合いで決まる。 「Qはモデル誤差の物理的申告であり、同時に忘却時定数の設計つまみ」という二面性を押さえること。 何をどうQに入れるか(SNC/DMC)は第4.7章の主題である。

時間 →(▲=観測の時刻) √P Q大:観測間で膨らみ、更新で縮む(呼吸) Q=0:縮む一方 → 聞かなくなる
図4.3-1 共分散の呼吸。 Q=0(実線)では不確かさが縮む一方で、フィルタはやがて観測を無視する。 Q>0(破線)では予測区間で膨らみ・更新で縮む「呼吸」が生まれ、 定常の不確かさレベル — 観測とモデル誤差の均衡点 — に落ち着く。

4.3.4 発散と数値 — 平方根形式

フィルタの故障モードは二系統ある:

  • 統計的発散 — Q・Rの申告が実態と乖離(Q過小が典型)→ 自信過剰 → 残差増大。 監視はイノベーションの統計検定(第4.9章)、対処はQの見直し(第4.7章)
  • 数値的発散 — P の対称性・正定値性が丸め誤差で壊れる((I−KH)P̄ 形は特に弱い)。 対処は平方根実装:Pの平方根因子(Cholesky因子)だけを伝播するSRIF/UDU分解 — 条件数が半分(平方根)になり、正定値性が構造的に保たれる

数値の教訓は第4.2章と同じ(二乗を作るな)である。 情報行列側で回す情報フィルタ形式は、事前情報ゼロ(P̄→∞)の初期化が自然にでき、 観測更新が「情報の足し算」になる — バッチとの等価性が最も見やすい形でもある。

Q. 結局、地上のODでフィルタを使う場面はあるのか
A. ある。①モデル誤差が本質の局面(エアロブレーキング — 第1.6章:毎周回密度が変わる)、 ②長大アークで区分的なモデル誤差を吸いたいとき(フィルタ+平滑化 — 第4.5章)、 ③リアルタイムの監視表示。伝統的な「バッチ一本槍」と「全部フィルタ」の間で、 現代の実務はバッチを主、フィルタ系を状況で併用という混合が普通である。
Q. R(観測雑音)とQ(プロセス雑音)の役割の違いを一言で言うと?
A. Rは「観測を疑う量」、Qは「自分(モデル)を疑う量」。 残差が大きいとき、Rを膨らませれば観測を聞かなくなり、Qを膨らませれば過去を忘れて観測に寄る。 どちらで対処すべきかは誤差の出所(第3.6章の予算と第4.9章の診断)が決める — つまみを回す前に、どちらの疑いが正当かを問うこと。
■ この章のまとめ
  • フィルタは予測(ΦPΦᵀ+Q)と更新(ゲインKで配合)の二拍子
  • Q=0ならバッチと同じ解。逐次の存在理由はQ=忘却の機能
  • Qは「モデル誤差の申告」かつ「忘却時定数の設計」— 共分散は呼吸するようになる
  • 発散は統計系(Q過小)と数値系(正定値性の崩壊)。後者は平方根実装で構造的に防ぐ
  • 実務はバッチ主・フィルタ併用。リアルタイムと「モデルが日々変わる」局面がフィルタの出番
  • Rは観測を疑い、Qは自分を疑う — 残差対処の第一の問い
UDU・SRIF実装はBierman(付録C)。イノベーション監視の実務は第4.9章、 Qの具体的な設計(SNC/DMC)は第4.7章で扱う — 本章はその入口である。

第4.4章非線形への拡張 — EKF・UKF・粒子フィルタ

■ この章で学ぶこと
ここまでの道具は「良い参照軌道の近くでは世界は線形」という仮定(第4.1章)の上にある。 この仮定が壊れる場面 — 初期捕捉・大きなマヌーバ直後・小天体到着・着陸 — が 深宇宙には確実にあり、そこで使う拡張が本章の主題である。 結論を先に:拡張の系譜(EKF→UKF→粒子)は「分布をどこまで正直に運ぶか」の階段であり、 上るほど頑健で重い。実務は「壊れる場面でだけ一段上る」— その判断基準まで含めて扱う。

4.4.1 EKF — 参照を推定値で走らせる

拡張カルマンフィルタ(EKF)は、線形カルマン(第4.3章)の線形化点を 固定参照でなく最新の推定値 x̂ に置き直し続けるだけの変更である。 f・h は非線形のまま評価し、Φ・H だけ推定値まわりで作る。 軌道決定の文脈では「毎ステップ再線形化するバッチ」に近く、 非線形が中程度なら十分に働く。壊れ方も明確で:

  • 初期誤差が大きいと、間違った線形化点で作ったゲインが誤差を増幅する(初期捕捉問題
  • 共分散が一次近似で運ばれるため、強い非線形では実分布よりP̂が楽観的になり、自信過剰型の発散(第4.3章)へ

4.4.2 UKF — 微分をやめて点で運ぶ

アンセンテッドカルマンフィルタ(UKF)は、線形化(ヤコビアン)を捨てる: 共分散を代表する2n+1個のシグマポイントを選び、 それぞれを非線形の f・h に「そのまま」通し、 通した点群から平均と共分散を再構成する。

\mathcal{X}_{i} = \hat{x} ± \big(\sqrt{(n+κ)P}\big)_{i} → 各点を f, h に通す → 重み付き平均・分散を取る

利点:①ヤコビアン不要(実装が単純・微分不能なモデルも可)、 ②平均・共分散が二次精度(EKFは一次)— 強い非線形での自信過剰が緩和される。 費用:f・h の評価が2n+1回(拡大状態のnが大きいと効く)。 軌道決定では「Φを変分方程式で持つ既存資産(第1.2章)」があるためEKFの実装コストが低く、 UKFの相対的な旨味はモデルが微分しづらい場面(接触力学・大気飛行など)で大きくなる。

4.4.3 粒子フィルタ — 分布そのものを運ぶ

ガウス近似すら捨てたいとき — 分布が多峰になるとき — の道具が粒子フィルタである。 状態空間に多数の粒子(仮説)をばらまき、各粒子を力学で伝播し、 観測との整合度(尤度)で重み付け・リサンプリングする。 深宇宙で多峰性が本当に現れる場面は限られるが、確かにある:

  • 初期軌道決定 — 短い観測弧では複数の軌道仮説が同程度に観測を説明する(角度のみ観測の古典的問題)
  • あいまい解決 — 測距のあいまい範囲(第2.2章)・電波位相の整数不定性が仮説の離散集合を作る
  • 地形相対航法 — 似た地形(クレータの取り違え)が対応づけの多峰性を作る(第2.5章)

次元の呪い(粒子数が状態次元に対して指数的に要る)のため、 6次元フルの軌道推定に素朴に使うのは重い。 実務は多峰性のある低次元部分だけ粒子・残りはカルマン系という混合(Rao-Blackwell化)が定石である。

EKF:接線で運ぶ 曲がりは無視される UKF:点で運ぶ 曲がりごと平均・分散へ 粒子:群れで運ぶ 多峰・非ガウスもそのまま
図4.4-1 「分布をどこまで正直に運ぶか」の階段。 同じ非線形写像(破線の曲線)に対し、EKFは接線1本、UKFは代表点2n+1個、 粒子フィルタは点の群れで分布を運ぶ。右へ行くほど正直で重い。

4.4.4 壊れの診断と選択基準

状況兆候推奨
定常運用(良い参照あり)バッチ/EKF系で十分(第4.2〜4.3章)
非線形が疑わしい反復のたびに解が有意に動く/伝播した楕円が「曲がる」UKF、またはバッチの反復回数を増やして様子を見る
初期捕捉・仮説が複数複数の解に収束しうる/残差が同程度の別解がある粒子(低次元)+カルマン混合、または仮説別に並列バッチ

簡便な非線形性の診断は「共分散の端を非線形で伝播してみる」ことである: ±1σ・±3σ点をfに通し、線形伝播(ΦPΦᵀ)の予想と比べる。 ずれが共分散の数%を超えたら一次近似は要注意 — UKFのシグマポイントは、 まさにこの診断を推定器の中に常設したものと言える。

Q. 深宇宙の巡航ODで非線形が問題にならないのはなぜか
A. 不確かさが軌道スケールに対して微小だからである。 位置誤差km級 対 軌道半径10⁸ km — この比では力学はほぼ完璧に線形に見える。 非線形が牙をむくのは不確かさが系のスケールに近づくとき: 到着直前の天体相対(誤差km 対 天体半径km!)、着陸、初期捕捉である。 「非線形性は系の性質ではなく、不確かさと系の比の性質」— この見方が選択の指針になる。
Q. UKFのパラメータ(κ等)はどう選ぶのか
A. 標準推奨値(ガウス仮定でn+κ=3など)から始めて構わない。 それで結果が敏感に変わるようなら、そもそも非線形が強すぎてUKFの守備範囲を 出かけている兆候であり、パラメータ調整より粒子系・仮説分割を検討すべきである。 「チューニングで粘る前に、一段上るべきかを問う」。
■ この章のまとめ
  • 系譜は分布をどこまで正直に運ぶか:EKF(接線)→UKF(代表点)→粒子(群れ)
  • EKFは「参照を推定値で走らせる」だけ — 中程度の非線形まで。自信過剰型の壊れ方をする
  • UKFは微分不要・二次精度。旨味は微分しづらいモデルで最大
  • 粒子は多峰性(初期捕捉・あいまい解決・地形対応)専用。低次元に絞って混合で使う
  • 非線形性は不確かさと系のスケールの比で決まる — 巡航では線形、到着・着陸で牙をむく
  • 診断は「σ点を非線形で伝播して線形予想と比べる」— 迷ったらこれ
UKF・粒子フィルタの標準文献は付録C。 本章は深宇宙ODでの選択基準に絞った — 手法の完全な導出は原典に譲る。

第4.5章平滑化とデータアーク設計

■ この章で学ぶこと
二つの実務技術を対で扱う。平滑化は「後のデータで前の推定を良くする」 — フィルタ(第4.3章)が前向きにしか使わなかった情報を、後ろ向きにも流す。 アーク設計は「どの区間のデータで一つの解を作るか」 — バッチ推定(第4.2章)の暗黙の前提だった区間の切り方を、設計変数として正面から扱う。 両者は同じ問いの表裏である:情報を時間方向にどこまで繋ぐか。 繋ぐほど統計は強くなり、モデル誤差への曝露も増える — このトレードが本章の主題である。

4.5.1 平滑化 — 未来が過去を正す

フィルタの推定 x̂(t_k) は時刻 t_k までの情報しか使わない。 アーク全体が終わった後なら、t_k より後の観測も t_k の状態推定に使えるはずである。 これが固定区間平滑化(RTS平滑化):前向きフィルタの結果を保存し、 後ろ向きの漸化式で各時刻の推定を補正する。

\hat{x}_{k|N} = \hat{x}_{k|k} + C_{k}\big(\hat{x}_{k+1|N} − \bar{x}_{k+1|k}\big) (後ろ向きに k = N−1, …, 0)

効果はアークの前半で大きい(後半はもともと大半の情報を使えている)。 Q=0ならバッチ解と一致する — つまりバッチは「生まれつき平滑化されている」。 平滑化が独自の価値を持つのは Q>0 の世界(第4.7章)である: プロセス雑音で「忘れながら」推定した軌道を、後から全情報で均す — エアロブレーキング再構築・精密軌道の事後決定の標準手順がこれである。

4.5.2 アークの長さ — 統計とモデルの綱引き

長いアーク短いアーク
統計(ランダム誤差)◎ 観測が多い・幾何の変化が大きい(可観測性↑)△ 情報が薄い。事前依存が増す
モデル誤差への曝露× 蓄積する(重力場・非重力 — 第1部)◎ 蓄積が浅い
パラメータ推定(C_r等)◎ 長期の署名が見える× ほぼ不可
不連続(マヌーバ等)跨ぐ設計が要る(4.5.3)切れば避けられる

最適な長さは「モデル誤差の成長が統計の利得を食い始める点」で決まり、 ミッション・フェーズごとに違う。巡航なら数週間、 低高度周回(重力場誤差が支配 — 第1.3章)なら数日〜1日以下、が典型の桁である。 共分散解析(第4.6章)でアーク長を振って予測精度を比べれば、定量的に決められる。

4.5.3 アーク境界の置き方

  1. マヌーバで切る — 大きなΔVの前後で解を分けるのが最も安全。 跨ぐ場合はΔVを推定パラメータに(第5.2章)
  2. 合で切る — プラズマ荒れの区間(第3.3章)をアークの中央に入れない
  3. イベントに合わせる — 解を使う時刻(TCM設計・接近)がアーク終端の近くに来るよう切る (外挿距離の最小化 — 第5.4章の予測劣化)
  4. エポックはアーク内に — 第4.1章Q&A。数値条件と外挿の観点から

4.5.4 重なりアーク — 解の整合性という検査

時間 → アーク A アーク B 重なり区間 重なり区間で両解を比較:差が両者の共分散と整合すれば健全、超えればモデル誤差の兆候
図4.5-1 重なりアーク検査。 独立に解いた二つのアークの重なり区間で軌道を比較する。 差が形式共分散の説明範囲を超えていれば、 共通のモデル誤差が両解を別々に歪めている証拠 — 形式共分散の楽観(第4.6章)を実データで検出する、最も実際的な方法である。

この検査はODの品質保証の定番であり、 「昨日の解と今日の解が言うことが違う」を定量化する道具でもある。 差の時系列に周期構造があれば、そこからモデル誤差の犯人(重力場か・SRPか)の 見当までつく(第4.9章の診断へ続く)。

4.5.5 収束しない・解が渡らないときの切り分け

  1. データを半分に割って別々に解く — 片方だけ悪ければデータ異常(第4.9章)、 両方悪ければモデルか初期値
  2. 観測種別を落として解く — レンジのみ/ドップラのみで解が動く量から、 どちらの系統誤差かを切り分ける(第3.6章の予算と突き合わせ)
  3. アークを短くして解く — 短アークで収束するなら、長アークで蓄積するモデル誤差が犯人
  4. パラメータを固定して解く — 拡大状態を絞って安定化し、一つずつ解放して犯人を特定

共通の思想は二分探索である。推定は多くの要素の合成なので、 「全部入り」のまま睨んでも原因は見えない — 半分にして比べる、を機械的に繰り返す。

Q. アークを繋がず、毎回独立に短く解き続けるのはだめなのか
A. それは実質「Qの大きいフィルタ」を手動でやっているのと同じで、 パラメータ(C_r・バイアス類)が毎回リセットされて決まらない。 長期署名を持つ量(第1.5章)はアークを繋がないと見えない。 逆に言えば、短アーク連発で運用が回るフェーズは「パラメータ推定を諦めても困らない」フェーズであり、 それはそれで合理的な設計である — 選択は要求から。
Q. 平滑化した軌道とバッチ解、配布するならどちらか
A. Q=0でモデルに自信があるならバッチ(=平滑化と同じ)。 モデル誤差をQで吸ったフィルタ運用なら、配布は必ず平滑化後 — フィルタの生の軌跡は更新のたびに段差があり、力学的に滑らかでない(積分で再現できない) 軌道を配ると下流(第5.4章・SPK化)で事故になる。 「フィルタは推定のため、平滑化は成果物のため」と覚える。
■ この章のまとめ
  • 平滑化=未来の観測で過去の推定を正す。Q=0ならバッチと同じ、Q>0で独自の価値
  • アーク長は統計の利得とモデル誤差の蓄積の均衡で決める。フェーズごとに桁で違う
  • 境界はマヌーバ・合で切り、解を使う時刻の近くに終端を置く
  • 重なりアーク検査が形式共分散の楽観を実データで暴く — 品質保証の定番
  • 不調の切り分けは二分探索:データ半分・観測種別・アーク長・パラメータ固定
  • 配布するのは滑らかな解 — フィルタは推定のため、平滑化は成果物のため
RTS平滑化の導出は標準文献(付録C)。 アーク設計の実例は第6部(はやぶさ2の近傍・MMXのQSO)で再訪する。

第4.6章共分散解析と consider parameter

■ この章で学ぶこと
推定器が出す共分散 P̂ は「答えの信頼区間」の顔をしているが、 その正体は「申告したモデルが正しければ」の条件つき保証にすぎない。 実誤差は形式共分散より大きい — ほぼ常に。 本章はこの乖離を正面から扱う:楽観の源、 推定しない不確かさを共分散にだけ効かせるconsider解析、 観測を取る前に精度を予測する共分散解析(追跡計画設計の道具 — 第5.1章の裏側)、 そして共分散の検証法。 「誤差の見積りを誤ると、正しい軌道でも間違った判断をする」 — マヌーバ設計・衝突回避はP̂の上に立っているのだから。

4.6.1 形式共分散はなぜ楽観か

P̂ = (HᵀWH)⁻¹(第4.2章)に入っている仮定を数えると: ①誤差は白色(相関なし)、②Rの申告が正確、③モデル(force・観測)は完璧、 ④線形近似が妥当。第3部で見たとおり①②③は現実には破れており、 とくに時間相関誤差を白色扱いすると、N点の平均効果を過大評価する (第3.6章:1/√Nはランダムにしか効かない)。 経験則として「実誤差は形式σの数倍」がしばしば語られるが、 倍率は誤差構造に依存する — だから倍率で誤魔化さず、構造をモデルに入れるのが本章の道具である。

4.6.2 consider parameter — 推定しないが、無視もしない

不確かな量 p(局位置・暦・重力係数…)を推定に入れると、 観測が弱ければ系統誤差を吸って解を歪める(第4.1章)。 入れずに無視すれば共分散が楽観になる。第三の道がconsider推定はしない(値は固定)が、その不確かさ C_p を共分散にだけ伝える

P_{c} = \hat{P} + S\,C_{p}\,S^{T}, S = \frac{∂\hat{x}}{∂p} (解のpへの感度)

感度 S は「pが1σずれたら解がどれだけ引きずられるか」であり、 推定の副産物として計算できる。considerつき共分散 P_c は形式P̂より必ず大きい — 「知らないことを知っている」ことの数学的表現である。

扱い選ぶ基準
推定する観測がよく決める&不確か状態・C_r・ΔV・局バイアス
consider観測が弱くしか見ない&不確か局位置・EOP残差・暦・高次重力係数
定数扱い不確かさが結果に効かないμ☉・十分に決まった定数

どの箱に入れるかの感度チェックは機械化できる: 各候補pについて S·C_p·Sᵀ の寄与を並べ、効かないものを定数へ落とす — これが誤差予算(第3.6章)の「軌道版」であり、次節の共分散解析そのものである。

4.6.3 共分散解析 — 観測を取る前に精度を設計する

H・R・C_p は観測の実データなしに計算できる(幾何と統計モデルだけで決まる)。 つまり「この追跡計画なら、この時刻の位置誤差はこうなる」が飛ぶ前に出せる。 これが共分散解析であり、用途は:

  • 追跡計画の設計 — パス数・観測種別・ΔDOR投入の費用対効果を比較(第5.1章の③はこれ)
  • 要求の検証 — 「TCM時点で位置1 km」が達成可能かの事前証明(ミッション設計への回答)
  • アーク長・データ重みの感度試験(第4.5章)

共分散解析の結論は「何を測るか」だけでなく「何がconsiderで効いているか」を必ず添える。 「ΔDORを2セッション足すと横方向が半分になる — ただし残る誤差の主因は暦consider」 という形の報告が、投資判断(もっと追跡するか・暦の更新を待つか)を可能にする。

4.6.4 伝播 — 誤差楕円は時間とともに形を変える

エポックの共分散は Φ で任意時刻へ運べる:P(t) = Φ(t,t₀)P₀Φᵀ(+ 過程雑音項)。 深宇宙で覚えておくべき変形の型は二つ:

  • 沿道方向への伸長 — T方向速度誤差が沿道位置誤差に化けて成長する(第1.1章)。 予測が長いほど誤差楕円は「軌道に沿った葉巻」になる(第5.4章の予測劣化の形)
  • B平面への写像 — 接近解析では共分散をB平面(第5.3章)に落とし、 到達誤差楕円として可視化する。マヌーバ設計・衝突確率評価の共通言語である

4.6.5 共分散を検証する — 三点セット

  1. 重なりアーク差(第4.5章) — 独立解の差が P_c の予言と合うか
  2. 予測対実績 — 予測した軌道と後の確定軌道の差を、伝播した P_c と比べる(第5.4章の運用データがそのまま検証データになる)
  3. マヌーバ再構築・接近実績 — B平面予測と実際の到達点の差の統計(ミッションをまたぐ長期の検証)

三点とも「P_cが説明できない差」が出たら、consider の顔ぶれか C_p の大きさが実態と合っていない。 共分散は主張であり、検証可能である — 検証されない共分散に基づく衝突確率・成功確率は数字遊びである。

Q. considerに入れた量は、いつ推定に昇格させるべきか
A. S·C_p·Sᵀ が誤差予算の支配項になり、かつデータがその量への感度を持ち始めたときである (幾何の変化・アークの延長で可観測性は変わる — 第4.8章)。 昇格したら残差と共分散がどう動くかを見て、吸い込み(他の系統誤差を食べる兆候 — 解が物理的にありえない値へ動く等)がないか監視する。昇格は一方通行ではない — フェーズが変われば降格もする。
Q. 共分散解析で「観測ノイズを半分にする」と「considerを半分にする」、どちらが効くか一般論はあるか
A. フェーズ依存だが、傾向として成熟したODではconsider側が支配的である (雑音は平均で潰せるが、considerは潰せない — 第3.6章の構図の再現)。 つまり精度向上の投資先は、受信機の改良より較正インフラ(暦・EOP・局位置・媒質)に 向かうことが多い。本書が第3部(較正)に厚みを割いた理由の、推定側からの裏付けである。
■ この章のまとめ
  • 形式共分散は条件つき保証 — 白色・正しいR・完璧なモデルの仮定の上に立つ楽観値
  • consider:推定しない不確かさを P_c = P̂ + S C_p Sᵀ で共分散にだけ効かせる
  • 推定/consider/定数の三分類は感度で機械的に決められる — 誤差予算の軌道版
  • 共分散解析は観測ゼロで回る — 追跡計画・要求検証を「飛ぶ前に」設計する道具
  • 誤差楕円は沿道に伸び、接近ではB平面に落として使う
  • 共分散は検証可能な主張:重なりアーク・予測対実績・到達実績の三点で答え合わせする
consider解析の定式化はODの標準文献(付録C)。 検証されない共分散で意思決定しない — 本章のこの一文だけは、規律として持ち帰ってほしい。

第4.7章力学モデル誤差の扱い — SNC と DMC

■ この章で学ぶこと
第1部の最後(第1.5〜1.6章)で積み残した宿題 — 書けない加速度(SRP残差・脱ガス・密度変動) — をここで回収する。 道具は第4.3章で導入したプロセス雑音Qの具体化である: 加速度誤差を白色と見なすSNCと、 時間相関を持つ確率過程として状態に組み込むDMC(経験的加速度)。 さらに実務の急所であるパラメータ(分散・相関時間)の決め方と、 「効きすぎの弊害」 — Qは万能の消しゴムではない — までを扱う。

4.7.1 問題の形 — 加速度の誤差は速度・位置に積もる

未知の加速度誤差 δa(t) は、時間とともに δv = ∫δa dt、δr = ∬δa dt² として蓄積する。 加速度が10⁻¹² km/s²(SRPの1%誤差の桁 — 第1.5章)でも、 1日で δv ≈ 0.09 mm/s(ドップラで見える!)、10日で δr ≈ 0.4 km、100日で 37 km。 「小さいから無視」が通用しないのは積分器の中で二回積もるからである。 モデルに書けない以上、統計として扱う — その書式が Q である。

4.7.2 SNC — 白色加速度という最も単純な申告

State Noise Compensation:加速度誤差を分散スペクトル密度 σ²_a の白色雑音と見なし、 伝播時間 Δt に対して

Q_{SNC} = σ_a^{2}\begin{bmatrix} \frac{Δt^{3}}{3}I & \frac{Δt^{2}}{2}I \\ \frac{Δt^{2}}{2}I & Δt\,I \end{bmatrix} (位置・速度ブロック)

Δt³・Δt²の構造が「加速度が二回積もる」ことの共分散版である。 SNCの美点はつまみが一つ(σ_a)であること。 RTN方向別に σ_a を変える程度の拡張で、実務の大半はこれで回る。 弱点は「白色」という嘘 — 実際のモデル誤差(SRP・密度)は時間相関を持つ(第3.6章)。 相関のある誤差を白色Qで吸わせると、必要以上に大きなσ_aが要り、 その分だけ推定が緩く(メモリが短く)なる。

4.7.3 DMC — 誤差そのものを推定対象にする

Dynamic Model Compensation:未知加速度 w(t) を 一次ガウス・マルコフ過程として状態ベクトルに加える:

\dot{\mathbf{w}} = −\frac{1}{τ}\mathbf{w} + \mathbf{u}(t) (τ:相関時間、u:白色駆動雑音)

運動方程式には r̈ = … + w が入り、フィルタはw自体を観測から推定する。 τ→0 でSNC(白色)に、τ→∞ でバイアス(定数加速度の推定)に漸近する — SNCと定数推定を両端に持つ連続的な一般化である。DMCの価値は二つ:

  • 推定されたw(t)の履歴が診断情報になる — wが特定の周期(軌道周期・自転周期)で振れていれば、 その周期の物理(重力場・熱 — 第1.3章・第1.5章)を疑う手がかりになる。 「消す」だけでなく「読む」ことができる
  • 相関を正しく持つ分、同じ吸収力でも推定のメモリが長い — パラメータ推定(C_r等)との共存がよい

4.7.4 パラメータの決め方 — 物理から出発する

  1. σ(大きさ):第1部の誤差見積りから — SRPの数%、密度モデルの数十%等を加速度に換算。 「予算表(第3.6章)の力学版」を先に作る
  2. τ(相関時間):誤差源の物理時定数から — 姿勢イベント間隔・自転/軌道周期・気象時定数。 迷ったら「観測パス間隔と同程度」が実務の初期値としてよく機能する
  3. 検証:イノベーション統計(第4.9章)が白色・分散整合になるか、 推定wが申告σの範囲で振る舞うか、で答え合わせして調整する

4.7.5 やりすぎの弊害 — Qは消しゴムではない

Q(プロセス雑音)の大きさ → 残差は下がり続ける(見かけは改善) 予測誤差・パラメータ推定精度は悪化へ 適正域:物理の申告と整合する範囲
図4.7-1 Qを増やすと残差はいくらでも下がる — が。 Qを盛るほどフィルタは観測に追従し、残差(実線)は改善して見える。 引き換えに力学の拘束が緩み、予測(第5.4章)とパラメータ推定(青)は悪化する。 残差の小ささはQの正しさの証明にならない — 検証は予測対実績(第4.6章)で行う。

Qで何でも吸えるからこそ、規律が要る: ①Qは物理の見積りから出発し、チューニングは検証統計に基づく微調整に留める。 ②系統誤差(較正で取るべきもの — 第3部)をQで誤魔化さない — 吸えてしまうが、原因は残り、予測で仕返しされる。 ③Qを入れた推定の成果物は平滑化してから配る(第4.5章)。

Q. SNCとDMC、どちらを使うべきか
A. 初手はSNC(つまみ1個・十分に働く)。DMCへ進む合図は、 ①残差・イノベーションに明確な時間相関が残る、②推定した加速度履歴を診断に使いたい、 ③パラメータ推定との共存でメモリの長さが要る、のどれかが立ったとき。 「単純な道具で始め、データが要求したら複雑化する」— モデル選択の一般則どおりである。
Q. バッチ推定(第4.2章)でモデル誤差を扱う方法はないのか
A. ある。区分定数の経験的加速度(アークを区切って各区間の定数加速度を推定)が バッチ流のDMC相当であり、広く使われる。区間長がτの役を果たす。 ほかに、アークを短くする(第4.5章)こと自体がモデル誤差対策である。 フィルタ+Q、バッチ+区分加速度、短アーク — 三つは同じ問題への別変換であり、 運用の形(第4.2章5節)に合うものを選べばよい。
■ この章のまとめ
  • 加速度誤差は二回積もる — 10⁻¹² km/s²でも100日で数十km。統計として扱うしかない
  • SNC:白色加速度・つまみ1個。実務の初手。相関誤差には非効率
  • DMC:ガウス・マルコフ過程を状態に足す。τでSNC⇄定数推定を連続に繋ぐ。 推定した加速度は診断情報として読める
  • σは物理の見積りから、τは誤差源の時定数から。検証はイノベーション統計で
  • 残差の小ささはQの正しさを証明しない — 予測対実績で検証し、系統誤差をQで誤魔化さない
  • バッチ流の等価物は区分定数加速度・短アーク — 形はどれでも、思想は同じ
SNC/DMCの定式化はODの標準文献(付録C)。 推定した経験的加速度から物理を掘り当てた実例は第6.1章(はやぶさ2)・第6.5章で再訪する。

第4.8章可観測性とクラメール・ラオ下限

■ この章で学ぶこと
本書で何度も棚上げしてきた言葉 — 縮退・可観測性・「幾何が情報を作る」 — に、 ここで数学の実体を与える。中心は一つの行列、情報行列 Λ = HᵀWH(第4.2章)である。 そのランクが「決まるか」を、固有値が「どの方向がどれだけ決まるか」を、 逆行列(クラメール・ラオ下限)が「これ以上は原理的に無理」の床を教える。 理論の章だが、実務の出口は明快:推定が暴れたら相関行列を読む — その読み方を身につけて第4部の理論編を締める。

4.8.1 可観測性 — 情報行列のランク

ある状態成分(の線形結合)が観測から決まるとは、 その方向が H の行空間に含まれることである。判定は情報行列で:

Λ = H^{T}WH:\ \mathrm{rank}(Λ) = n ⇔ 全状態が可観測

ランク落ちの方向(Λの零空間)は観測が何も語らない方向であり、 解けば数値誤差か事前情報が勝手に決める — 見かけ上「答え」は出るのが怖いところである。 深宇宙ODの古典的なランク落ち・縮退の例:

縮退の例機構解く鍵
C_d·A·ρ(第1.6章)観測に積でしか現れない解かない(まとめて1個に)
探査機の赤緯 vs 局・EOP系(第2.6章)どちらも日周署名として現れる複数局・複数日・ΔDOR
黄道面近くの赤緯(ドップラのみ)日周署名の赤緯感度が sinδ で消える幾何ΔDOR(第2.4章)・時間経過
SRP係数 vs 経験的加速度(第4.7章)同じ向きの加速度として現れる長アーク・距離変化(1/r²署名)
よく決まる(等方) 条件数 ≈ 1 弱可観測(縮退に近い) 最弱方向(最小固有値) 条件数 ≫ 1 — この方向は事前情報が決めてしまう
図4.8-1 情報行列の固有値が誤差楕円の形になる。 ランク落ち(完全な縮退)はまれで、実務で出会うのは右のような細長い楕円である。 長軸方向はデータがほとんど語っておらず、事前情報・編集の仕方に敏感に振れる。 相関行列(4.8.5項)はこの楕円の傾きを数字で見る道具にほかならない。

4.8.2 弱可観測 — ランクはあるが力がない

実務で出会うのはランク落ちより弱可観測 — 固有値が桁違いに小さい方向 — である。 症状:その方向の推定が事前情報・データ編集にひどく敏感で、 アークを少し変えると解が大きく振れる。 情報行列の固有値分解(またはHの特異値分解)で定量化でき、 条件数(最大/最小固有値比)が数値の危うさ(第4.2章のスケーリング)と直結する。 対処の優先順位:①観測を足して幾何を変える(ΔDOR・アーク延長)、 ②事前情報で支える(第4.2章 — 正直なP̄₀で)、③その方向を諦めて固定する

4.8.3 クラメール・ラオ下限 — 原理の床

不偏推定量の共分散には下限がある:

\mathrm{Cov}(\hat{x}) ⪰ F^{-1}, F:フィッシャー情報行列(ガウス誤差では F = H^{T}R^{-1}H)

ガウス・線形の世界では最小二乗がこの下限を達成する — つまり形式共分散P̂はCRBそのものであり、「これ以上は観測を変えるしかない」の床である。 使い道は設計にある:どんな推定アルゴリズムの工夫でもCRBは破れないから、 精度が足りなければアルゴリズムでなく観測(幾何・種別・精度)を変えるべきだと 即断できる。共分散解析(第4.6章)はCRBの計算に他ならない。

4.8.4 幾何が情報を作る — H の中身を見る

フィッシャー情報は感度 H の「向きの多様性」で決まる。 H = (∂h/∂x)Φ(第2.7章)だから、情報を増やす道は二つ: 観測の向き ∂h/∂x を変える(別の観測種別・別の局=別の視線)か、 力学 Φ に時間を与える(待てば軌道が幾何を変えてくれる)。 「同じ観測を同じ幾何で反復しても情報は1/√Nでしか増えず、 新しい向きの観測1点が桁で効く」— レンジ1点の価値(第5.1章の例)の理論的正体である。

4.8.5 実務の読み方 — 相関行列という診断書

共分散 P̂ を正規化した相関行列(対角1、非対角が±1に近いほど縮退)は、 推定の健康診断書である。読み方の型:

  1. |ρ| > 0.99 の組を列挙する — その2パラメータは実質1個しか決まっていない。 片方を固定するか、まとめるか、幾何が変わるのを待つ
  2. 解が暴れるパラメータの行を見る — 高相関の相手が犯人であることが多い
  3. アーク・観測を変えたときの相関の変化を見る — ΔDORを1点足して相関が落ちれば、 それが「効く観測」の直接の証拠(第4.6章の共分散解析と同じ操作)
【縮退は悪ではない】 縮退は「観測がその区別に興味を持っていない」という情報である。 区別できないなら、区別せずに済む定式化(積のまま推定・差だけ推定)に変えれば、 解は安定し、決まる量は正確に決まる。 敵は縮退ではなく、縮退に気づかず両方を別々に信じることである。
Q. 非線形問題でもCRB・可観測性の議論は使えるのか
A. 局所的には使える — 参照軌道まわりの線形化(第4.1章)の範囲で、 FもΛも「その近傍での」情報を表す。大域的な非線形可観測性(多峰性 — 第4.4章)は 別の枠組みが要るが、実務の大半は局所解析+「幾何を変えて再評価」で足りる。 CRB自体も非線形版(一般化CRB)があるが、深宇宙ODで持ち出す場面は稀である。
Q. 情報行列の固有値を全部見るのは大変では
A. 全部は見なくてよい。実務は ①条件数(1個)、②最小固有値の固有ベクトル(最弱方向が物理的に何か)、 ③相関行列の高相関ペア、の三点チェックで十分に回る。 これを収束のたびに自動出力する仕組みにしておけば、 縮退は「事故ってから探す」ものでなく「毎回目視する」ものになる。
■ この章のまとめ
  • 可観測性=情報行列のランク。零空間は「観測が何も語らない方向」— 解けてしまうのが怖い
  • 実務の敵は弱可観測(小さい固有値)。対処は幾何を変える→事前で支える→固定する、の順
  • CRB=形式共分散が原理の床。足りなければアルゴリズムでなく観測を変える
  • 情報はHの向きの多様性:新しい向きの1点が反復のNより効く
  • 相関行列が診断書:|ρ|>0.99の組・最弱方向・観測追加での変化の三点チェックを常設する
  • 縮退は情報である — 気づいて定式化を変えれば敵ではない
可観測性・CRBの一般論は推定理論の標準文献(付録C)。 本章の縮退例はすべて本書の前章までに物理として登場済みである — 索引代わりに表の参照章をたどり直すと、第4部と前半の接続が一望できる。

第4.9章データ編集とロバスト推定

■ この章で学ぶこと
第4部の最終章は、理論が現実のデータと出会う場所 — 汚れたデータとの付き合い方である。 実データには外れ値が必ず混じる:ロック外れの瞬間の化け値、RFIのバースト、 設定ミスのパス丸ごと。最小二乗は二乗ゆえに外れ値へ極端に弱く、 1点の化け値が解全体を引きずる。 本章では外れ値の発生源、自動編集とその危険、ロバスト重み、 残差の統計検査、そして編集履歴を残す規律までを扱う。 最後の一つが実は最重要である — 編集は「データを削る」行為であり、 無記録の削除は科学と工学の両方を壊すからである。

4.9.1 外れ値はどこから来るか

発生源典型パターン本書の該当
受信系のロック外れ・再捕捉パス冒頭・低仰角・弱信号時の孤立した化け値、サイクルスリップ『宇宙通信』第3部
RFI・プラズマバースト時間帯・幾何に相関するばらつき増大第3.3章・『地上局工学』第7.3章
機器・較正の段差ある日から残差が一斉にジャンプ(機器交換・較正更新)第5.6章
設定・メタデータ誤りパス丸ごと系統的にずれる(TDMメタデータの取り違え等)第5.5章
モデル側の問題「外れ値」に見えるが全点が正しい — モデルが違う第1部・第3部

最後の行が本章の最大の注意である: 外れ値処理は「データが悪い」という仮説の実行であり、 本当はモデルが悪いとき、編集は証拠隠滅になる。

4.9.2 自動編集 — 3σの罠

標準の自動編集は残差のNσ判定(|残差| > N×予測σで棄却、N=3〜5)である。 有効だが、二つの構造的な罠を知って使う:

  • マスキング — 強い外れ値が解を引きずり、正常点が3σ外に出て、 外れ値本人は3σ内に残る。対策:編集は反復の各周で軽く、収束につれて厳しく (最初から3σで刈らない)。初期反復は中央値ベースの頑健な尺度でσを見積もる
  • 切りすぎの自己実現 — 刈るほど残差は小さくなり、σが縮み、さらに刈れる。 「棄却率が数%を超えたら手を止めて原因を見る」という上限則を機械側に入れておく

4.9.3 ロバスト重み — 捨てる代わりに軽くする

二値の棄却(使う/捨てる)の代わりに、大きな残差の重みを連続的に下げる: Huber型(閾値まで二乗・先は線形)やその類種である。 利点は境界の恣意性が消え、マスキングに強いこと。 実務では「ロバスト重みで収束させ、最終解の残差で改めて編集を確定し、 確定編集で通常の最小二乗を最終実行」という二段構えが、 頑健さと(共分散の解釈しやすい)標準理論の両取りとしてよく使われる。

4.9.4 残差の検査 — 白色・正規・整合の三点

「収束した」の宣言(第4.2章)に含めるべき統計検査:

  1. 白色性 — 残差の自己相関・連の検定。時間構造が残れば、 相関誤差(第3.6章)の扱い漏れかモデル誤差(第4.7章)
  2. 正規性・分散整合 — 残差RMSが申告Rと合うか(residual ratio ≈ 1)。 フィルタならイノベーションが予測分散(第4.3章)と合うか
  3. 構造の目視 — 時刻・仰角・局・パス別にプロットして眺める。 機械検定より人間の目が早く見つけるパターン(パス単位の段差・仰角依存)は実在する
【残差プロットの読影パターン】 傾き → エポック状態の速度誤差か暦。 日周正弦 → 局位置・EOP・赤緯系(第2.6章)。 パス内の弓なり → 対流圏マッピング(第3.1章)か仰角依存の系統。 パス単位の段差 → 機器較正・メタデータ(第5.5〜5.6章)。 観測種別間の不整合 → どちらかの系統誤差(第3.6章の予算で当たりをつける)。
このパターン集は第2〜3部の物理の索引そのものである — 残差読影は、本書前半をデータの上で逆引きする技能と言ってよい。
傾き → 速度誤差・暦 日周正弦 → 局位置・EOP・赤緯 パス内の弓なり → 対流圏・仰角依存 パス単位の段差 → 較正・メタデータ 孤立スパイク → 外れ値・スリップ 階段状のばらつき増 → プラズマ・RFI
図4.9-1 残差読影のパターン集。 残差の「形」が原因の章を指し示す — この図は本書第1〜3部の索引でもある。 機械検定より人間の目が先に見つけるパターンは実在し、 だから収束宣言に「構造の目視」(4.9.4項)を入れる。

4.9.5 編集の規律 — 削った記録は成果物である

  1. 原データは不変 — 編集はフラグで表現し、元の値を上書きしない
  2. 全編集に理由コード — 自動(Nσ)か手動か、手動なら根拠(RFI記録・運用ログとの突き合わせ)
  3. 棄却率を成果物に記載 — 解の報告(第5.4章)に「何%をなぜ削ったか」を添える。 棄却率の推移自体が局・機器の健全性指標になる(『地上局工学』第7.2章)
  4. 削った側も保存 — 後日モデルが改良されたとき、 「外れ値」が実は信号だったと分かる例(未知の摂動・イベント)は歴史上実在する
Q. パス丸ごと怪しいときも点単位のNσ編集でよいか
A. だめである。系統的にずれたパスは点単位では「全部少しずつ変」で刈れず、 解を静かに歪める。パス単位の検査 — パス平均残差の局間・日間比較、 重なりアーク(第4.5章)、観測種別間の突き合わせ — を別枠で持ち、 怪しいパスは丸ごと重み下げ/除外して原因(メタデータ・較正)を追う。 「点の編集」と「パスの編集」は別の病気に対する別の薬である。
Q. どこまで自動化してよいか
A. 定常運用の点編集は全自動でよい(そうでないと回らない)。 ただし①棄却率の上限則、②パス単位の異常の人間への通知、③編集履歴の完全記録、 の三つの安全弁を機械側に必ず入れる。 自動化してよいのは判断ではなく既に決めた規則の執行である — 規則の外の事象(初めて見るパターン)は人間に上げる設計にする。
■ この章のまとめ
  • 最小二乗は外れ値に弱い — 編集は必須。ただし編集は「データが悪い」仮説の実行と自覚する
  • Nσ編集の罠:マスキング切りすぎの自己実現。反復とともに徐々に絞り、棄却率に上限則
  • ロバスト重みで収束→編集確定→通常LSで最終実行、の二段構えが実務の型
  • 収束宣言は白色性・分散整合・構造の目視の三点検査つきで
  • 残差読影は本書前半の逆引き技能 — パターンごとに疑う章が決まっている
  • 原データ不変・理由コード・棄却率の報告・削った側の保存 — 編集履歴は成果物
ロバスト統計の一般論は付録C。 これで第4部(推定理論)は完結 — 第5部では、この推定エンジンを運用のループに組み込む。
第 V 部 運用としての軌道決定
いつRARRを取り、いつΔDORを打ち、結果をどう予報に変えて局へ配るか。道具(STK・TDM・OEM)の使い方も含めて、実務の手順に落とす。

第5.1章追跡スケジュールの設計 — いつRARRを取り、いつΔDORを打つか

■ この章で学ぶこと
追跡計画は「局が空いている時間に取れるだけ取る」ものではない。 観測量ごとに取るべき時刻があり、それは幾何と情報量から決まる。 本章では1パスの中の時間割から、フェーズごとの追跡計画、 そして取った観測量が軌道決定の精度にどう化けるかまでを、 設計として説明できる形で扱う。

5.1.1 RARRとは何を指すか

RARR(Range And Range Rate)は、レンジとドップラを組にして取る標準的な追跡モードを指す。 現場では「今日のパスはRARRあり」「このパスはドップラのみ」という言い方をする。 レンジを打つかどうかが運用上の選択肢になるのは、第2.2.6で見たとおり レンジ変調が搬送波とテレメトリから電力を奪うからである。

したがって追跡計画の最小単位は「1パスで何を取るか」であり、 その選択肢は概ね次の4つになる。

モード取れるもの代償使う場面
ドップラのみρ̇なし(テレメトリ最大)巡航の平常運用、データ取得優先のパス
RARRρ, ρ̇テレメトリレートを一段落とす軌道決定の主力。週数回〜毎日
RARR + ΔDORρ, ρ̇, Δτ2局占有、相関処理が要る重要イベント前、合の前後
テレメトリ専用軌道情報が得られない大量データ取得、緊急運用

5.1.2 1パスの中の時間割

1パスは概ね次の順序で進む。ここで重要なのは、 使える時間の全部が観測に使えるわけではないということである。

AOS → 局設定 → 上り掃引・捕捉 → 機上ロック確認(RTLT待ち) → 下り搬送波ロック → テレメトリ同期 → 測距開始 → 測距捕捉完了 → 定常観測 → 測距停止 → LOS

時間を食うのは2箇所である。

往復光時間による待ち。上りを掃引して機上のPLLがロックしたかどうかは、 RTLTが経過するまで地上では分からない。火星なら20〜40分、外惑星なら数時間。 仰角10度以上の可視が6時間しかないパスで、RTLTが2時間なら、 2-way観測ができるのは実質4時間である。この待ちは短縮できない。

測距の捕捉時間。第2.2.8で見たとおり、成分符号ごとの位相推定に時間がかかる。 弱いリンクでT4B符号を使えば数分から十数分。 パスの終わり際に測距を始めても、捕捉が終わる前にLOSになる。

【現場の原則】 測距はパスの前半で開始する。 理由は3つある。
① 捕捉時間を確保できる
② 仰角が上がっていく時間帯なので、媒質誤差が減る方向に測れる
③ 異常が起きたときに、まだパス時間が残っている
逆に「最後に余った時間で測距」は最悪の設計である。捕捉できずに終わる確率が高い。
AOS(可視開始) LOS 仰角(媒質誤差は高仰角ほど小) 捕捉・設定 測距(前半で取る) ドップラ(パス全体で連続 — 日周署名を作る) 較正・引き渡し 測距はパス前半 — 捕捉時間を確保し、仰角が上がる方向で測り、異常時に時間が残る
図5.1-1 1パスの中の時間割。 ドップラは全体で連続、測距は前半に置く(5.1.2項の三つの理由)。 「最後に余った時間で測距」が最悪の設計である理由が、この一枚で見える。

5.1.3 いつレンジを取るか — 幾何から決める

レンジは視線方向しか拘束しない(第2.2.11)。したがって 視線方向が変わったところで取り直すことに価値がある。 同じ幾何で何点取っても、情報は雑音の平均化ぶんしか増えない。

視線方向が有意に変わるのは次の3つの時間スケールである。

  • 1パス内(数時間): 地球自転で局が動く。第2.3.6の署名と同じ幾何。 パスの前半と後半で最低2点は欲しい
  • 日単位: 地球自転が一巡し、かつ探査機が動く。異なる時間帯のパスを混ぜると効く
  • 週〜月単位: 地球公転と探査機の軌道運動。これが最も大きく幾何を変える

実務的な出発点としては、巡航中は週2〜3回のRARRパス、 イベント前は毎日、というのが一つの目安になる。 ただしこれは目安であって、正しくは第4.8章の情報行列で決める。 「週2回で足りるか」は、要求精度と力学モデル誤差を入れて共分散を伝播すれば答えが出る。

【設計の順序】 ① ミッションから位置・速度の要求精度を受け取る(例: TCM実行時に位置1 km)
② 力学モデル誤差(第1.5章のSRP不確かさなど)を consider parameter に入れる(第4.6章)
③ 追跡計画案ごとに共分散を伝播し、要求時刻での誤差楕円を出す(第4.6章)
④ 要求を満たす最小の案を選ぶ
「毎日追跡します」は設計ではない。③まで通して初めて、局に要求を出す根拠になる。

5.1.4 いつΔDORを打つか

ΔDORは高価である。2局を同時に占有し、較正天体のスケジュールを組み、 生データを転送して相関処理する。したがって効くところに絞って打つ

効くのは、横方向誤差が運用判断を左右する場面である。具体的には次の5つ。

場面なぜ効くか典型的なタイミング
TCM(軌道修正)の前ΔV の方向を決めるのは横方向誤差。ここが甘いとTCMが無駄になる実行の数日〜1週間前に1〜2セッション
惑星接近・投入の前B平面誤差楕円(第5.3章)を縮める。投入可否の判断根拠接近数週間前から頻度を上げる
スイングバイの前後前は狙い、後は実際にどこを通ったかの確認。誤差が増幅される(第6.3章)前後それぞれ
太陽合の直前・直後合中は観測が壊れる。入る前に精度を上げ、出た直後に取り直す合の入り・出のそれぞれ数日以内
長期の追跡空白のあとドップラだけでは横方向が縮退したまま。幾何を直接測って収束させる再開直後

逆に、巡航中の平常時にΔDORを打っても費用対効果は低い。 横方向誤差がゆっくり成長しているだけの期間なら、 ドップラの1日周期署名(第2.3.6)が押さえてくれる範囲で足りることが多い。

1セッションで決まるのは1方向成分だけ(第2.4.7)である点にも注意がいる。 2次元の横方向を押さえたいなら、方向の異なるベースラインで2セッションを組む。 これは「同じ局ペアで時間をずらす」(地球自転でベースラインの向きが回る)か、 「別の局ペアを使う」かのどちらかになる。

5.1.5 フェーズごとの追跡計画

フェーズ特徴追跡の重点典型的な頻度
打上げ直後(LEOP)軌道が未知に近い。誤差が大きいとにかく連続。ドップラ主体、早期にレンジ連続追跡。複数局リレー
初期軌道決定数日で軌道を確定させたいRARRを毎パス。幾何が変わる時間帯を混ぜる毎日、複数パス
巡航(平常)力学が素直。誤差成長が遅いドップラ主体、定期的にRARR週2〜3回
TCM前後ΔVの設計と再構築前: RARR頻度増+ΔDOR。後: 直後から連続前1週間は毎日、後は数日連続
接近・軌道投入B平面精度が投入可否を決めるRARR毎日+ΔDOR複数セッション毎日。イベント直前は連続
周回・近傍短周期の力学。計数区間を短くドップラ短区間、重力場推定なら連続可能な限り連続
太陽合観測量が壊れる入る前に精度を上げる。合中は縮退運用合中は最小限(第6.4章)

5.1.6 RARRの結果は、軌道決定にどう化けるか

ここが本章で最も重要な節である。「レンジを1点取ると軌道がどれだけ良くなるのか」に 定量的に答えられるようにする。

第4.2章で見たとおり、観測を1点加えることは情報行列に1項を加えることである。

Λ = Λ_{0} + \sum_{i} \frac{1}{σ_{i}^{2}}H_{i}^{T}H_{i}, P = Λ^{-1}

この式から3つのことが読める。

① 効くのは σ ではなく 1/σ²。精度が2倍の観測量は、情報としては4倍の価値がある。 逆に言えば、精度の悪い観測量をたくさん足しても、良い観測量1点に及ばないことがある。

② 効くのは H の向き。H が既に良く決まっている方向を向いていれば、 その観測はほとんど情報を足さない。幾何が変わらないうちに何点取っても無駄というのは、 この式の直接の帰結である。

③ Λ_0(事前情報)と競合する。既に精度が高い状態では、 新しい観測1点の寄与は相対的に小さくなる。収束したあとは頻度を落としてよい。

【例5.1-1】レンジ1点の価値を桁で見る 巡航中の探査機で、視線方向の位置不確かさが 5 km あるとする。 レンジ精度 σ_ρ = 1 m の観測を1点入れると、視線方向の情報は 1/1² = 1 [m⁻²] 加わる。事前情報は 1/5000² = 4×10⁻⁸ [m⁻²]。
比にして2500万倍。1点で視線方向はほぼ確定する。
一方、横方向に対する H の成分はほぼゼロなので、 横方向の不確かさは1 mmも縮まない。
これが「レンジを何点取っても横方向は決まらない」ことの数量的な意味である。

ではドップラはどうか。ドップラ1点も視線方向(の変化率)を測るが、 第2.3.6の署名により1パス分を積み上げると横方向にも効く。 ただしその効き方は「1日周期の正弦の振幅と位相」という形なので、 パスの一部だけでは分離できない。ドップラは点で効くのではなく、 パス全体の形で効く観測量である。

ΔDORは1セッションで横方向を直接叩く。例2.4-1の2.2 nradは、 1 auで330 m。上の例で横方向5 kmだったものが、1セッションで330 mになる。 ドップラを何週間積んでも届かない領域に、1回で到達する。

【まとめると】 ・レンジ: 視線方向を点で決める。1点で効く。絶対距離の基準
・ドップラ: 視線方向の変化を細かく追い、パスの形で横方向にも効く。ただし系統誤差と縮退
・ΔDOR: 横方向を幾何として直接叩く。縮退から独立
三者は代替ではなく、状態空間の別々の方向を担当している。 だから「ドップラがあるからレンジは要らない」も「ΔDORがあるからドップラは要らない」も成り立たない。

5.1.7 観測が軌道決定を通って予報になるまで

取った観測量が運用に返るまでの一巡を、時間つきで押さえておく。

パス実施 → 局で観測量生成(TDM) → 転送 → 前処理・編集 → 軌道決定(バッチ or 逐次) → 解の評価 → 予報生成(OEM・指向予報・周波数予報) → 局へ配布 → 次のパスで使用

この一巡にかかる時間が、追跡計画の設計に効いてくる。 たとえば「TCMの2日前までに軌道を確定したい」なら、 その一巡の時間を逆算して最後のパスをいつに置くかが決まる。 前処理と軌道決定に半日、レビューに半日、予報生成と配布に半日かかるなら、 最終パスはTCMの3日半前に置かなければ間に合わない。

予報の側にも有効期限がある。予報位置誤差が大きくなると、 局のアンテナ指向が外れ、上り掃引の範囲が足りなくなる(第5.4章)。 「何日ごとに予報を更新するか」は、予報誤差の成長率から決まる。 この計算も共分散伝播(第4.6章)でできる。

5.1.8 局への要求の書き方

追跡計画は最終的に局への要求として文書になる。技術者として書くべき項目は次のとおり。

  • いつ: 期間、パス数、1パスの長さ、優先度
  • どの局: 局の指定、ΔDORなら局ペアと組む時間帯
  • 何を取るか: ドップラ(計数区間の指定を含む)、レンジ(符号系・チップレート)、ΔDOR
  • 制約: 最低仰角、測距開始の目安時刻、テレメトリレートとの優先関係
  • 根拠: なぜその頻度・その局・そのタイミングなのか

最後の「根拠」が本章の主題である。局の時間は有限で、他ミッションと取り合いになる (姉妹書『地上局工学』第7.1章)。 「要りそうだから」では通らず、「これを削るとB平面誤差が○km増え、TCMのΔVが○m/s増える」と言えれば通る。 共分散解析はそのための道具でもある。

5.1.9 資源競合と折り合い

要求どおりのパスが取れないことは日常的に起きる。そのときに何を諦めるかの優先順位を、 あらかじめ決めておくのが実務である。

削られたもの影響代替手段
パス数が減る誤差成長が続く。収束が遅れる1パスを長くする。幾何の良い時間帯に集中
大口径局が取れないP_C/N_0 低下 → 観測精度低下計数区間を延ばす(T^{3/2}で効く)。測距を諦めドップラに絞る
ΔDORが取れない横方向が縮退したままドップラを異なる時間帯で多く取る。光学航法(第2.5章)
低仰角しか取れない媒質誤差増大気象データによる較正を強化。重みを下げる

ここでも判断の根拠は共分散である。「取れなかった場合にどうなるか」を事前に計算しておけば、 交渉の場で即答できる。これは技術の問題であると同時に、組織の中で仕事を通す技術でもある。

■ この章のまとめ
  • RARRはレンジとドップラの組。レンジは電力を食うので「打つかどうか」が運用の選択肢になる
  • 1パスの有効時間は往復光時間と測距捕捉時間で削られる。測距はパスの前半で開始する
  • レンジは幾何が変わったところで取り直す価値がある。同じ幾何で何点取っても情報は増えない
  • ΔDORはTCM前・接近前・スイングバイ前後・合の前後・追跡空白後に絞って打つ。1セッション=1方向成分
  • 観測の価値は情報行列 Λ = ΣH^T H/σ² で決まる。効くのは 1/σ²H の向き
  • レンジは視線方向を点で、ドップラはパスの形で、ΔDORは横方向を直接。三者は別々の方向を担当しており代替できない
  • 観測から予報までの一巡に要する時間を逆算して、最終パスの時刻を決める
  • 局への要求には必ず根拠を書く。共分散解析がその根拠を作る

第5.2章マヌーバの推定と再構築

■ この章で学ぶこと
探査機は自分で軌道を変える — TCM・軌道投入・アンローディング。 推定側から見れば、マヌーバは意図的に注入されるモデル不連続であり、 放置すれば軌道解を確実に壊す。 本章ではマヌーバのモデル化(インパルスか有限か)、アークの切り方(第4.5章の応用)、 実行結果の推定(再構築)、予定外の加速度の検出、 そして再構築を次の計画に戻すところまで — 推進と航法のループを扱う。 「計画どおり吹いたか」に答えるのは推進系のテレメトリではなく、最終的には軌道決定である。

5.2.1 モデル化 — インパルスと有限推力

インパルス近似有限推力モデル
表現時刻t_mで速度がΔVだけ跳ぶ加速度a(t)を噴射区間で積分
妥当な条件噴射時間 ≪ 軌道の時定数(数分のTCM等)長時間噴射(投入・低推力・スパイラル)
推定パラメータΔV3成分(+時刻)スケール・向きの係数、区分パラメータ
積分の扱いt_mで積分を区切る(第1.2章)噴射区間を細かい刻みで積分

低推力(電気推進)は「常時吹きっぱなし」であり、 マヌーバというよりモデル化すべき力(第1.5章の仲間)に近い。 推力モデル(スロットル・向き履歴)を力学に入れ、 スケール係数を推定する — DMC(第4.7章)と地続きの扱いになる。

5.2.2 アークの切り方と ΔV 推定

マヌーバ前後の扱いは三択である(第4.5章の応用):

  1. 切る — 前後を独立に解く。最も安全。前アークの終端状態と後アークの始端状態の差が 「実行されたΔV」の推定になる(差分法)
  2. 跨いで推定 — ΔVをパラメータ(第2.7章の直接項)に入れて一本のアークで解く。 前後のデータが互いを強め、ΔVの形式精度も出る。標準のやり方
  3. 跨いで固定 — 計画値を信じて推定しない。小さなアンローディングでのみ許される(それでも推定が安全)

跨ぐ場合の実務則:マヌーバ直後に十分な観測があること。 直後のデータがないと、ΔV誤差とその後の伝播誤差が絡んで分離が弱くなる (可観測性 — 第4.8章)。「マヌーバ後の最初のパスは落とすな」は追跡計画(第5.1章)の定番要求である。

5.2.3 実行誤差 — 計画とのずれを統計にする

再構築ΔV と計画ΔV の差が実行誤差である。慣例のモデル(Gates型)は 大きさ比例成分+固定成分、それぞれ噴射方向と直交方向で分ける:

σ_{∥} = \sqrt{(k_{p}\,|ΔV|)^{2} + σ_{p0}^{2}}, σ_{⊥} = \sqrt{(k_{x}\,|ΔV|)^{2} + σ_{x0}^{2}}

係数(k:比例、σ₀:床)はミッション累積の再構築統計から更新していく。 この統計が次のマヌーバの共分散(B平面誤差楕円 — 第5.3章)に入り、 TCM回数・推薬予算の設計(Systems-Engineering側)へ波及する — 再構築は過去の精算であると同時に、将来の誤差モデルの供給源である。

5.2.4 予定外の加速度を検出する

セーフモード遷移のスラスタ噴射、予定外のアンローディング、脱ガス(第1.5章)。 検出の入口はいつも同じ — 残差の構造(第4.9章)である: ある時刻を境に残差が傾き始めたら、その時刻に未知ΔVを仮置きして解き、 有意な値が立つか・残差が白色に戻るかを見る。 時刻自体が未知なら、残差の折れ点探索(区分フィットのF検定)で当たりをつける。 検出したΔVは運用ログ(姿勢イベント・機器状態)と突き合わせて物理を同定する — 「読めない加速度」三段構え(第1.5章)の実戦形である。

5.2.5 ループを閉じる — 再構築から次の計画へ

マヌーバ設計 (目標B平面から) 実行 (実行誤差つき) OD・再構築 ΔV̂ と共分散 実行誤差統計 (Gates係数更新) 次のTCM設計の誤差モデルへ(第5.3章のB平面楕円に入る) 再構築なしの推進系運用は「答え合わせをしない射撃」である
図5.2-1 推進と航法のループ。 設計→実行→再構築→統計更新→次の設計。 TCMの回数・大きさの計画(推薬予算)は、このループが回してきた実行誤差統計の上に立つ。
Q. 推進系のテレメトリ(積算噴射時間・タンク圧)があればΔVは分かるのでは
A. それは「機体が何をしたつもりか」であり、軌道が実際どう変わったかはODだけが知っている。 推力の較正誤差・ミスアライメント・プルームの干渉は、テレメトリには写らない。 両者の差こそが実行誤差モデル(5.2.3)の中身であり、 差が大きければ推進系の較正(比推力・推力ベクトル)への還元情報になる — 再構築は推進系にとっても最良の飛行較正である。
Q. マヌーバ時刻の直前・直後、どちらにエポックを置くべきか
A. 慣例は「使う側の都合」で決める:接近運用なら後(以降の予測に直結)、 精算・較正目的なら前後両方の解を出す。 数値的にはどちらでもよいが、ΔVパラメータとエポック状態の相関(第4.8章)が 配置で変わるので、相関行列を見て条件の良い方を選ぶ、が丁寧な流儀である。
■ この章のまとめ
  • マヌーバは意図的なモデル不連続。インパルス(短時間)か有限推力(長時間・低推力)でモデル化
  • アークは「切る/跨いで推定/固定」の三択。標準は跨いでΔV推定+直後の観測確保
  • 実行誤差は比例+固定・軸別(Gates型)でモデル化し、再構築統計で係数を更新し続ける
  • 予定外加速度は残差の折れ点から検出し、運用ログと突き合わせて物理を同定する
  • 再構築は次の設計の入力 — 答え合わせをしない射撃にしない
Gates型実行誤差モデルの原典・低推力ODの実務は付録C。 B平面での目標設定と判断は次章で扱う。

第5.3章B平面と到達誤差楕円

■ この章で学ぶこと
惑星到着・スイングバイ・衝突回避 — 「どこに届くか」を語る場面の共通言語がB平面である。 接近双曲線(第1.1章)の漸近線に垂直な平面を天体中心に張り、 そこへの到達点と誤差楕円で航法の現状を一枚に表す。 TCMを打つか見送るか、惑星保護の非衝突確率は足りるか — 接近フェーズの意思決定はすべてこの平面の上で行われる。 本章では定義から共分散の写像、運用判断、 そして「会議で誤解されない楕円の描き方」という実務の作法までを扱う。

5.3.1 定義 — 漸近線に垂直な的

接近双曲線の入射漸近方向を Ŝ(V∞の向き — 第1.1章)とする。 天体中心を通りŜに垂直な平面がB平面、 Bベクトルは天体中心から「重力がなければ探査機が貫く点」までのベクトルである。 平面内の座標軸は慣例で T̂(Ŝに垂直で基準面—通常は黄道またはその天体の赤道—に平行)と R̂ = Ŝ×T̂ を取り、(B·T, B·R) の2数で到達点を表す。

天体 入射漸近方向 Ŝ B 誤差楕円 紙面=B平面(Ŝに垂直)。天体の重力を「まだ入れない」直線飛行の貫通点でねらいを語る
図5.3-1 B平面。 重力で曲がる前の「素の狙い」を語る平面なので、 目標設定(この点を狙えば投入後に望む軌道になる)と誤差の議論が線形できれいに閉じる。 これがB平面が使われる理由である — 実際の近点位置で語ると、重力の非線形が全部絡んでくる。

5.3.2 共分散の写像 — 6次元から2次元へ

エポックの状態共分散 P を接近時刻へ伝播し(第4.6章)、 B平面パラメータへの感度行列 K = ∂(B·T, B·R)/∂x で射影する:

P_{B} = K\,P\,K^{T} (2×2)→ 固有分解して誤差楕円の長短軸・向き

楕円には確率レベルを必ず添える:2次元ガウスでは1σ楕円の被覆確率は39%にすぎず、 99%には約3.03σが要る。「1σ楕円が天体に触れていないから安全」は それだけでは何も言っていない — 確率の読み違いはこの平面で最も多い事故である。 到達時刻の誤差(Ŝ方向 — 楕円には出ない)も別途一言添える。

5.3.3 運用判断 — TCMを打つか

接近中の判断は「現在の推定到達点+誤差楕円」対「目標点+許容域」の比較で行う:

  1. ずれが楕円に対して有意でなければ見送り(統計的に無意味な補正はしない — 補正すれば実行誤差(第5.2章)を新たに注入するだけ)
  2. 有意なら、TCMの大きさ・時期をトレード:早いTCMは安い(同じB平面修正に要るΔVは 到達までの時間に反比例して減る)が、早い時点の軌道解は粗い。 「解が固まるのを待つ利得」と「待つほど高くなる補正」の均衡点が実務のTCM時期であり、 共分散の時間発展(第4.6章)がその計算を与える
  3. 最終TCM後は「打てるカードがない」— だから最終TCM前に集中追跡・ΔDOR(第5.1章)を置き、 楕円を最小にしてから最後の一手を打つ

5.3.4 惑星保護 — 楕円と天体の距離

惑星保護(生命探査対象の汚染防止)の要求は、B平面上では 「非目標天体への衝突確率の上限」として現れる(例:巡航段の衝突確率10⁻⁴以下など、 ミッション区分に応じた公開の要求値がある — COSPAR方針・各機関規程)。 計算はP_B と天体断面(重力フォーカシングで拡大した実効半径)の重なり積分である。 実務上の重要な帰結がバイアス照準: 巡航中は意図的に天体を外した点を狙い、最終盤のTCMで初めて目標に載せる。 「途中で機能停止しても衝突しない」経路設計であり、 MMXの分離モジュールの扱い(『宇宙機システムズエンジニアリング』併読)とも同じ思想である。

5.3.5 伝え方 — 誤解されない楕円の作法

  1. 確率レベルを図中に明記(「99%楕円」)— 1σ楕円だけの図は誤読を誘う
  2. スケールバーと天体を同じ図に — 楕円だけ拡大した図は安心・不安を等しく誇張する
  3. 時系列で並べる — OD更新ごとの楕円の縮小と中心の移動を同一スケールで。 「解が収束しつつあるか」が一目で伝わる(会議で最も効く図)
  4. 到達時刻誤差・使用した実行誤差モデル(第5.2章)を欄外に付記する
Q. 周回軌道への投入でもB平面で語るのか
A. 語る。投入噴射の設計は「どのB平面点・どの近点高度で来るか」を入力に行われ、 B平面誤差がそのまま投入後軌道(近点高度・傾斜角)の誤差に写像される。 着陸・突入では、B平面の延長として突入回廊(飛行経路角の許容帯)に 写して語る — 的が「点」から「帯」に変わるだけで、思想は同じである。
Q. 誤差楕円の長軸はなぜたいてい一方向に長いのか
A. 視線方向の観測(レンジ・ドップラ)が強く、横方向が弱いという 情報の異方性(第2.1章)がB平面に射影されるからである。 地球から見た視線とB平面の幾何関係で長軸の向きが決まり、 ΔDOR・光学(第2.4〜2.5章)を足すと長軸が縮む — 楕円の形そのものが「どの観測が足りないか」を語っている(第4.8章の可視化とも言える)。
■ この章のまとめ
  • B平面=漸近線に垂直な的。重力で曲がる前の「素の狙い」で語るから線形で閉じる
  • 共分散は K P Kᵀ で2×2に射影。1σ楕円の被覆は39% — 確率レベルを必ず明記
  • TCM判断:統計的に無意味な補正は打たない・早いほど安い・最終TCM前に楕円を最小化
  • 惑星保護は衝突確率の上限として現れ、バイアス照準(外して狙い、最後に載せる)が定石
  • 楕円の形は情報の異方性の写し絵 — どの観測を足すべきかまで読める
  • 伝え方も技術のうち:確率レベル・スケール・時系列の三点セット
B·T/B·R の厳密な定義・座標規約は各ODソフトの文書で確認(付録C)。 惑星保護の現行要求値はCOSPAR方針・各機関規程(公開)から引くこと。

第5.4章予測の配布とループを閉じる

■ この章で学ぶこと
軌道決定の成果物は論文ではなく予報である。 局はどこへアンテナを向け、どの周波数で聞き、いつ掃引するか — すべてODが配る予報の上で動く。予報が悪ければ次のパスが取れず、 パスが取れなければ次の解が作れない:OD→予報→追跡→ODのループこそ 深宇宙運用の心臓の鼓動である。 本章では予報の種類、有効期限(誤差成長)、周波数予報と掃引、 そして「予報の失敗はどう見えるか」までを扱う。 『地上局工学』第6章(局側の使い方)と対になる、送り手側の章である。

5.4.1 配るものの棚卸し

予報中身使い手効く誤差
軌道そのものSPK(チェビシェフ係数 — 第1.4章)/OEM(点列 — 第5.5章)各種計算の親
指向予報局から見た方位・仰角の時系列アンテナ制御(『地上局工学』第2.5章)横方向誤差÷距離=角度
周波数予報ドップラ込みの受信周波数・上り補償周波数受信機・励振器(同 第6.1章)視線速度誤差
光行時間・イベント予報RTLT、可視開始終了、掩蔽・食運用計画(第5.1章)視線距離誤差

供給形態の実務標準はSPKで軌道を配り、下流が各予報を計算する形 (計算の一貫性が保たれる)。ただし局のレガシー系・他機関切りには 点列・専用フォーマットの変換が入る — 変換もまた事故源であり、第5.5章の主題になる。

5.4.2 有効期限 — 予測誤差の成長則

アークの外に出た軌道は、観測の拘束を失いモデルだけで飛ぶ。 誤差の成長は(第1.1章のT方向成長・第4.6章の伝播のとおり) 沿道方向が支配的で、時間の1〜2乗で伸びる。成長速度を決めるのは:

  • エポック速度誤差(アークの出来 — 第3.6章の予算)
  • モデル誤差(SRP・重力場 — 第1部):これが利くと成長は加速的になる
  • 予定・予定外のマヌーバ(第5.2章):跨いだ予報は実行誤差ぶん即座に劣化する

実務は「予報の賞味期限」を共分散の伝播(第4.6章)で定量化して配布に添える。 巡航なら週単位で余裕、近傍運用では日〜時間単位、という桁の差が出る。 更新頻度はこの期限から逆算して決まる — 「毎週更新」は慣習でなく計算の結果であるべきである。

5.4.3 周波数予報と掃引 — 捕捉の物理

受信機が探査機の信号を捕まえるには、 予測周波数の誤差が捕捉帯域に収まっていなければならない。 視線速度誤差 δv は受信周波数誤差 δf = f·δv/c に化ける: X帯で δv = 1 m/s → δf ≈ 28 Hz。狭帯域ループ(弱信号時 — 『宇宙通信』第3部)の 捕捉幅は数Hz〜数十Hzであり、m/s級の速度予報誤差が捕捉可否を分ける

上り側はさらに繊細である:探査機のトランスポンダに確実にロックさせるため、 地上局は予測ドップラを補償した上で掃引(周波数スイープ)をかける(『地上局工学』第6.1章)。 掃引プロファイル(中心・幅・速度)はODの予測共分散から生成される — 不確かさが大きいほど広く・ゆっくり掃く。 緊急時(軌道が粗い)に掃引幅を思い切って広げる判断も、共分散が根拠を与える。

5.4.4 予報失敗の症状学

症状(局側で見える)疑う予報誤差切り分け
掃引しても上りロックしない視線速度(周波数予報)掃引幅を広げて再試行 → 捕まった周波数のずれから δv を逆算
信号は見えるがビーム端で弱い横方向(指向予報)コニカルスキャンでピーク探索 → ずれ角から横方向誤差を逆算
予定時刻に信号が来ない視線距離(イベント予報)・またはマヌーバ齟齬待ち受け時間を広げる。運用ログで実行イベント確認

重要な視点:失敗した捕捉の記録は観測データである。 「どれだけずらしたら捕まったか」は粗い観測量として次の解を助ける — 緊急時運用(セーフモードからの復旧)では、この「捕捉の考古学」が最初の軌道情報になる。

5.4.5 ループを閉じる — 鼓動としてのOD

軌道決定 (第4部) 予報(SPK・指向・周波数) 局が追跡 (『地上局工学』) 新しい観測(TDM — 第5.5章) ループの周期=予報の賞味期限。切れる前に次の解を回す — 運用設計(第5.1章)の拍
図5.4-1 深宇宙運用の心臓ループ。 予報が追跡を可能にし、追跡が次の解を作る。 どちらかが一拍でも落ちると(パス欠測・解の遅延)、次の拍が苦しくなる — 合(第3.3章)・緊急時は、このループが数週間止まる事態として捉えると設計が見える。
Q. 予報と実際の差はどう管理するのか
A. パスごとに「予測残差」(予報に対する観測のずれ — 局が必ず記録する)を回収し、 時系列で監視する。これは①予報品質のKPI、②共分散の検証データ(第4.6章の予測対実績)、 ③異常検出の一次情報(第4.5章・第4.9章)を兼ねる、最も安価で豊かな運用データである。 『地上局工学』第6.3章の局側記録と同じものを、OD側も自分の成績表として持つ。
Q. 複数機関の局に配るとき(クロスサポート)の注意は
A. フォーマット(OEM/SPK)と規約の明示に尽きる:座標系・時系(第5.5章のメタデータ問題)、 そして更新の通知経路。相手局の予報生成系が自分と違う近似をする可能性も含め、 初回は必ず互換性試験(『地上局工学』第7.5章のRFコンパチ試験の予報版)を行う。 「同じ軌道から作った予報が局によって微妙に違う」は実在する事故類型である。
■ この章のまとめ
  • ODの成果物は予報:SPKで軌道を配り、指向・周波数・イベントは下流で一貫計算が標準形
  • 予測誤差は沿道方向にt¹〜²で成長。賞味期限は共分散伝播で定量化し、更新頻度を逆算する
  • δv 1 m/s = X帯28 Hz — 速度予報が捕捉可否を分ける。掃引幅は共分散から生成
  • 捕捉失敗の記録は観測データ — 「どれだけずらしたら捕まったか」が緊急時の最初の軌道情報
  • OD→予報→追跡→ODのループが運用の鼓動。予測残差の監視がKPI・検証・異常検出を兼ねる
予報フォーマットの標準(CCSDS OEM等)は第5.5章。 局側の受け取りと使い方は『地上局工学』第6章 — 本章と対で読むと送受の全体が閉じる。

第5.5章追跡データと航法データの標準形式 — TDM・OEM・TLE

■ この章で学ぶこと
観測量も軌道も、他人に渡さなければ仕事にならない。局から軌道決定へ、軌道決定から局・ 機体運用・科学チーム・他機関へ。ここで効くのが標準形式である。 本章ではTDM(追跡データ)とODM(軌道データ)の構造を、 メタデータの意味に重点を置いて扱う。数値より、単位と参照系と時刻の定義で事故が起きるからである。 TLEを深宇宙で使ってはいけない理由も、ここで明確にする。

5.5.1 なぜ形式で事故が起きるのか

観測量の数値そのものは単純な浮動小数点である。事故はいつも周辺で起きる。

  • 時刻タグが送信時刻なのか受信時刻なのか
  • ドップラの時刻が計数区間の開始・中央・終了のどれか
  • レンジの単位が km なのか秒なのか RU(レンジユニット)なのか
  • すでに適用済みの補正はどれで、まだ適用していない補正はどれか
  • 参照系が ICRF なのか J2000 なのか EME2000 なのか、中心天体は何か

これらはすべてメタデータで定義される。数値だけ受け取っても観測方程式は組めない。 標準形式の価値は、この定義の受け渡しを取り決めた点にある。

5.5.2 TDM — 追跡データメッセージ

TDM(CCSDS 503.0-B系)は、局が生成した観測量を運ぶ形式である。 構造は3層になっている。

HEADER(版・作成者・作成日時) META_START … META_STOP(この区間の観測量の定義) DATA_START … DATA_STOP(時刻タグつきの数値)

メタデータブロックは複数置ける。局が変わる、モードが変わる、といった区切りごとに 新しいメタデータを置いて定義を切り替える。

軌道決定側が必ず確認すべきメタデータを挙げる。

キーワード意味間違えると何が起きるか
PARTICIPANT_1, 2, …信号経路に登場する局・探査機2-wayか3-wayかを取り違える
PATH信号がどの参加者をどの順で通ったか観測方程式の幾何が丸ごと違う
TIMETAG_REF時刻タグが送信基準か受信基準かRTLTぶん(数十分)ずれる。致命的
INTEGRATION_INTERVALドップラの計数区間 T_c精度の重み付けを誤る
INTEGRATION_REF時刻が区間の START / MIDDLE / END のどれかT_c/2 のバイアス。60 sなら数十m相当
RANGE_MODECOHERENT / CONSTANT / ONE_WAYターンアラウンドの扱いを誤る
RANGE_UNITSkm / s / RURUをkmと読むと桁が違う
RANGE_MODULUSあいまい範囲あいまい解決ができない
TRANSMIT_BAND / RECEIVE_BAND使用帯域媒質補正の周波数依存を誤る
TURNAROUND_NUMERATOR / DENOMINATORターンアラウンド比 Gドップラのスケールが違う
CORRECTION_* / CORRECTIONS_APPLIED適用済み補正の宣言二重補正または未補正
【RUという地雷】 レンジは歴史的経緯から、距離でも時間でもない「レンジユニット」で報告されることがある。 RUは測距クロックのサイクル数に対応する量で、局や符号系によって物理量への換算係数が違う。 RANGE_UNITS = RU となっているデータをkmとして読めば、値は桁で狂う。 幸い狂い方が大きいので気づくが、換算係数を1つ間違えた場合は気づきにくい。 新しい局・新しい機関からデータを受け取ったときは、 必ず既知の軌道で残差を見て、換算が合っていることを確かめること。

ΔDORもTDMで運ばれる。この場合、較正天体の識別子、ベースラインを構成した局、 スパンド帯域といったメタデータが不可欠になる。第2.4.9で述べたとおり、 これらが欠けると受け取った側は観測量をモデル化できない。

5.5.3 ODM — 軌道データメッセージ

軌道の側にも標準形式がある。用途によって4種類が使い分けられる。

種類中身典型的な用途
OPM(Orbit Parameter Message)ある1エポックの状態ベクトル+共分散+マヌーバ軌道決定結果の受け渡し、マヌーバ計画
OEM(Orbit Ephemeris Message)状態ベクトルの時系列+補間次数予報の配布、局への指向予報の元データ
OMM(Orbit Mean-Elements Message)平均軌道要素+使用する解析理論の指定地球周回。TLE/SGP4を運べる
OCM(Orbit Comprehensive Message)上記を包括し、力学モデル・摂動情報も含むより詳細な受け渡し

深宇宙の実務で最もよく使うのはOEMである。中身は時刻・位置・速度の表であり、 使う側は補間して任意時刻の状態を得る。ここで見落とされやすいのが次の3点。

① INTERPOLATION と INTERPOLATION_DEGREE。 OEMは「この点列をこの方式・この次数で補間せよ」という指示を含む。 指示を無視して線形補間すれば、点間隔と軌道の曲がり方によっては キロメートル級の誤差が入る。第5.8章のSTKに読み込ませるときも同じである。

② REF_FRAME と TIME_SYSTEM。 参照系(ICRF / EME2000 / ITRF …)と時系(UTC / TAI / TT / TDB)は必ず確認する。 時系を1つ間違えると、TAIとUTCの差だけで数十秒、探査機速度30 km/sなら 1000 km級の位置誤差になる。

③ CENTER_NAME。中心天体が地球か太陽系重心か対象天体かで、 同じ数値がまったく別の意味になる。惑星到達前後で中心を切り替える運用では、 この取り違えが起きやすい。

【受け取ったOEMの検算手順】 ① 最初と最後のエポックで |r| を計算し、想定の距離オーダーと合うか
② 隣接点で数値微分した速度が、記載の速度と一致するか
③ 指定された補間次数で中間点を補間し、別の点列と重なるか
④ 既知のイベント(近点通過、マヌーバ時刻)が想定時刻に現れるか
この4つを自動で回すスクリプトを持っておくと、事故の大半は入口で止まる。

5.5.4 TLE — 使ってよい場面と、使ってはいけない場面

TLE(Two-Line Element set)は地球周回物体の軌道を2行のテキストで表す形式である。 広く流通しているため深宇宙の現場でも目にするが、性質を誤解したまま使うと必ず事故になる

最も重要な事実は次の一点に尽きる。

■ TLEの本質
TLEに書かれているのは瞬時の軌道要素ではない。 SGP4/SDP4という特定の解析的伝播理論に固有の「平均要素」である。 したがってTLEはSGP4/SDP4で伝播したときにのみ意味を持つ。 これを二体問題やケプラー伝播、まして数値積分器に入れてはならない。

TLEの離心率や軌道傾斜角を「軌道要素」として読み取り、 第1.1章の変換式で状態ベクトルに直して数値積分する——これは典型的な誤りである。 SGP4の平均要素は短周期項が特定の方法で除去されており、 瞬時要素とは数十km相当の差がある。正しい手順は 「TLE → SGP4で伝播 → 得られた状態ベクトル → そこから先は自分の伝播器」である。

精度についても正しい期待値を持っておく。

項目典型的な値注意
エポックでの位置精度低軌道で1 km前後物体・観測状況で大きく変わる
精度の劣化1日あたり1〜3 km程度大気抵抗が大きい物体ほど速く劣化
共分散含まれない誤差の定量評価ができない
適用範囲地球周回物体SDP4は周期225分超も扱うが、あくまで地球周回

深宇宙探査機にTLEは使えない。SGP4/SDP4は地球中心の摂動理論であり、 太陽中心の軌道や惑星間軌道を表現できない。深宇宙ではOEMかSPICEカーネルを使う。

ではTLEをいつ使うか。深宇宙ミッションの文脈では次の2つである。

  • 打上げ直後の地球周回フェーズ。パーキング軌道にいる間は地球周回物体であり、 外部からの追跡情報(軌道上物体カタログ)がTLEで得られることがある。 初期の粗い状況把握には使える
  • 接近解析・干渉回避。他の地球周回物体との位置関係を見るとき。 ただし共分散がないので、衝突確率の厳密な評価には向かない

OMMを使えばTLEと同じ内容を標準形式で運べ、しかも 「どの理論で伝播すべきか」を明示できる。新規に設計するインタフェースでは、 生のTLEではなくOMMを使うべきである。

5.5.5 SPICE — 深宇宙の事実上の標準

惑星暦と探査機軌道の受け渡しでは、CCSDS形式よりSPICEカーネルのほうが 実務上よく使われる。天体位置・探査機軌道・姿勢・機器の視野・時刻変換・ 基準系定義が一つの体系にまとまっており、座標系と時系の取り違えが構造的に起きにくいのが強みである。

OEMとSPICEは相互に変換できる。使い分けの目安は次のとおり。

  • OEM: 機関間の公式な受け渡し、契約的な意味を持つ配布、人が読める必要があるとき
  • SPICE: 解析・可視化・機器チームとの共有、天体位置や姿勢と一緒に扱うとき

5.5.6 相互運用でよくある不整合

症状原因の候補確認方法
残差が一定値だけずれる時系の取り違え(UTC/TAI/TT)、時刻タグ基準の相違ずれ量がうるう秒やTAI−UTCと一致しないか
残差がRTLTぶんずれるTIMETAG_REF の送信/受信の取り違えずれ量がRTLTと一致するか
ドップラだけ半区間ずれるINTEGRATION_REF が START/MIDDLE/END で不一致ずれ量が T_c/2 に比例するか
レンジが桁違いRANGE_UNITS の解釈違い(RU / km / s)比が換算係数と一致するか
補正が過剰/不足CORRECTIONS_APPLIED の宣言と実態の不一致局側に適用済み補正の一覧を照会
OEMを読むと軌道が跳ぶ補間次数の無視、マヌーバをまたぐ補間指定次数で補間し直す。区間分割を確認
位置が数百km違うREF_FRAME / CENTER_NAME の相違中心天体を切り替えて差が消えるか

この表の使い方は「ずれ量から原因を逆算する」ことである。 残差の大きさが、うるう秒・RTLT・T_c/2・換算係数のどれかと一致すれば、 それが原因である可能性が高い。物理を疑う前に、まずここを潰す。

5.5.7 自機関フォーマットとの変換

多くの機関は独自の内部形式を持っている。標準形式との変換器を書くときの原則は3つ。

① 往復変換で不変であること。内部形式 → TDM → 内部形式 で ビット単位に戻るか(浮動小数点の丸めを除いて)を自動試験にする。 戻らないなら、どこかで情報が落ちている。

② メタデータを捨てないこと。内部形式に対応する欄がないメタデータを 黙って捨てるのが最も危険な実装である。対応がないなら、変換を失敗させるほうがよい。

③ 既知の軌道で残差を見ること。変換器を作ったら、 既に軌道が確定している期間のデータを通し、残差が変わらないことを確認する。 これが唯一の実質的な検証である。

■ この章のまとめ
  • 事故は数値ではなくメタデータで起きる。単位・時系・参照系・時刻タグ基準・適用済み補正
  • TDMで必ず確認するのは PATH / TIMETAG_REF / INTEGRATION_REF / RANGE_UNITS / TURNAROUND比 / CORRECTIONS_APPLIED
  • ODMはOPM(1点+共分散)・OEM(時系列)・OMM(平均要素)・OCM(包括)。深宇宙の主力はOEM
  • OEMは補間方式と次数の指示を守る。REF_FRAME・TIME_SYSTEM・CENTER_NAME を必ず確認する
  • TLEはSGP4/SDP4専用の平均要素。他の伝播器に入れてはならない。共分散もなく、深宇宙には使えない
  • 深宇宙の実務ではSPICEが事実上の標準。OEMは機関間の公式な受け渡しに使う
  • 残差のずれ量から原因を逆算する。うるう秒・RTLT・T_c/2・換算係数と一致しないかをまず見る
TDM・ODMの正確なキーワード一覧と必須/任意の別、 版ごとの追加項目は、CCSDS 503.0-B(TDM)および 502.0-B / 504.0-B(ODM系)の 最新版原文書で確認すること。本章はキーワードの意味と落とし穴を扱っており、 仕様の完全な列挙を目的としていない。

第5.6章局間バイアスと較正の運用

■ この章で学ぶこと
誤差予算(第3.6章)で「レンジは系統誤差支配」と結論した。 その系統誤差の正体 — 機器遅延・ケーブル・基準点 — と、 それを消す較正の運用が本章である。 較正は一度やれば終わりの儀式ではない:機器は交換され、ケーブルは温度で伸び、 基準は経年する。「較正値の管理とトレンド監視」という地味な仕事が、 m級レンジ・複数局整合の土台を支えている。 推定で吸うか較正で消すかの判断基準も、ここで整理する。

5.6.1 バイアスの解剖 — 信号はどこで遅れるか

レンジ観測の基準点は局の基準点(アンテナの回転軸交点など測地的に定義された点 — 第2.6章の局位置はこの点の座標)である。 しかし信号は励振器→導波管→フィード→(空間)→フィード→LNA→受信機と、 構内を何百mも旅する。この構内の旅の所要時間(往復で µs級=百m級!)が機器遅延であり、 较正で差し引いて初めて「基準点からの距離」になる。内訳:

成分変動要因
送信系遅延(励振→開口)数百ns〜µs機器交換・設定(変調 — 第5.5章のメタデータ)
受信系遅延(開口→抽出器)同上同上+LNA/経路切替
ケーブル・光ファイバ長温度係数ぶんが変動日周・季節の温度(構内百mで数cm級の伸縮)
基準点オフセット幾何で確定アンテナ変形(仰角依存 — 『地上局工学』第1.6章)
機上折返し遅延数百ns〜µs温度・冗長系切替(第2.2章)

5.6.2 ゼロ距離較正 — 自分の遅延を自分で測る

局の測距系の較正は、既知の短い経路で折り返して測るのが基本形である: テストトランスポンダ(構内の既知位置に置いた模擬探査機)へ向けて通常の測距を行い、 幾何距離(測量で既知)との差を機器遅延として記録する。 『地上局工学』第6.7章の折り返し試験構成の較正版であり、 同じ設備・同じ手順でパスの前後に毎回実施するのが深宇宙局の標準運用である。 パス前後の2点で挟むことで、パス中の遅延ドリフトまで一次近似で押さえられる。

公開情報:DSNの測距較正(station delay calibration)はこの方式で運用され、 較正値と履歴が追跡データ(TDM — 第5.5章のCORRECTION系メタデータ)と共に ミッションへ提供される(DSN公開文書 810-005系 — 付録C)。 「観測量には較正の出自がメタデータとして付いてくる」— 第5.5章で強調した思想の、供給側の実装である。

5.6.3 3-way運用と局間バイアス

送信局と受信局が異なる3-way(長いRTLTで局の可視が続かない外惑星ミッションの日常)では、 新しい系統誤差が現れる:両局の時計差・機器遅延差=局間バイアスである。 2-wayなら同じ時計・同じ機器で閉じるため消えていた項が、局が分かれた瞬間に観測へ漏れ出す。 扱いは三段構え:

  1. 時刻同期(GNSS時刻比較等 — 『地上局工学』第5.3章)と各局のゼロ距離較正でできる限り消す
  2. 残りをパスごと・局対ごとのバイアスパラメータとして推定する(第4.1章の拡大状態。 2-wayパスが混ざっていれば分離は強い — 第4.8章)
  3. 推定値のトレンドを監視し、系統的に動いたら較正・機器の異常として局へ差し戻す(第4.9章のパス単位検査と同じ回路)

5.6.4 較正値の管理 — 「いつの遅延か」が言えること

較正値は観測データと同格の構成管理対象である。実務の型:

  • 履歴デーブル — 適用期間つきの較正値系列(機器構成の版と紐づけ)。 「この観測はどの較正で補正済みか」が常に追跡できる(第5.5章のCORRECTIONS_APPLIED)
  • トレンド監視 — ゼロ距離較正値の時系列に管理限界を引き、 ジャンプ(機器交換の検出)とドリフト(劣化・季節)を区別する。 レンジ残差のパス単位段差(第4.9章の読影パターン)の答え合わせ台帳になる
  • 再処理 — 較正の誤りが後日見つかったら、影響期間の観測を再補正して再ODする。 履歴管理はこの再処理を可能にするためにある(第2.6章のEOP再処理と同じ思想)

5.6.5 推定か較正か — 判断の整理

問い較正で消す推定で吸う
独立に測れるか測れるなら較正(情報を観測から奪わない)測れない・測る機会がない
安定性安定(構成が変わるまで一定)パスごとに動く(3-wayの時計差など)
可観測性(第4.8章)推定するなら分離できる幾何・データ構成が前提

原則は「測れるものは測って消す。推定は最後の砦」である。 推定パラメータにしたバイアスは、状態と相関して(第4.8章)他の誤差を吸い込みうる — 較正インフラへの投資が推定の健全性を買う、という構図は第4.6章Q&Aの結論と同じである。

Q. ドップラにも較正は要るのか
A. レンジほど重くない — ドップラは差分観測(第2.3章)なので、 一定の遅延バイアスは差分で消える。効くのは遅延の時間変化(パス中のケーブル温度ドリフト等)で、 これは僅かな周波数バイアスとして現れる。精密電波科学ではこの項も 構内の較正ループ(位相安定化 — 『地上局工学』第5.2章)で抑える。 「レンジは絶対値、ドップラは変化率」という観測の性格が、そのまま較正要求の差になる。
Q. 機上側の遅延はどう較正するのか
A. 打上げ前の地上試験で温度・信号レベルの関数として測り(第2.2章2.2.9)、 飛行中は温度テレメトリでモデル補正する。経年変化・冗長系切替の影響は、 飛行データから局バイアスと合算の形で推定監視するしかない — ここが「地上で測り切れない最後の項」であり、2-way観測の残差フロア(第3.6章)の一部になる。
■ この章のまとめ
  • レンジ系統誤差の正体は構内の旅の所要時間(µs=百m級)+機上折返し+基準点幾何
  • ゼロ距離較正をパス前後に毎回 — 深宇宙局の標準運用。ドリフトまで挟んで押さえる
  • 3-wayでは局間バイアス(時計差・遅延差)が出現:同期+較正→残りを推定→トレンド監視
  • 較正値は履歴つき構成管理の対象 — 再処理可能性が品質の裏付け
  • 原則:測れるものは測って消す。推定は最後の砦 — 較正投資が推定の健全性を買う
DSNの較正運用・提供様式は公開文書(810-005系 — 付録C)。 国内局の較正実務は『地上局工学』第5〜6章と対で読むこと。

第5.7章自律航法 — 地上を頼らない軌道決定

■ この章で学ぶこと
ここまでの体系は「地上局が測り、地上で解き、予報を上げる」前提だった。 この前提が成立しない場面がある — 光時間が往復数十分の彼方での高速イベント (着陸・フライバイ・衝突体験)、地上局という希少資源(『地上局工学』第7.1章)の節約、 そして多数機時代の運用スケール。答えが自律航法:観測・推定・判断を機上に移す。 本章では機上光学航法(実績済みの主力)、パルサー航法(原理実証段階)、 機上時計による1-way測距(実用化が進む)を、 「地上の体系のどこを機上に移すか」という観点で整理する。 道具は全て既出である — カメラ(第2.5章)、フィルタ(第4.3章)、時計(第3.5章)。

5.7.1 なぜ自律か — 三つの壁

中身自律が解くもの
光時間火星で往復8〜40分。着陸は数分で終わるリアルタイム性が要る誘導の閉ループ化
局資源深宇宙局は世界に数か所・取り合い巡航の定常ODを機上へ→局時間の解放
スケール多数機(『周波数管理と国際調整』第6.2章)に地上人力ODは回らない航法の量産化・サービス化

重要な整理:自律化とは推定ループ(第5.4章の心臓ループ)を機上で閉じることであり、 使う数学は地上と同一である。変わるのは計算資源の制約、検証の難しさ、 そして「失敗したとき人間が割り込めない」という運用哲学の方である。

5.7.2 機上光学航法 — 実績のある主力

第2.5章の光学観測+第4.3〜4.4章のフィルタを機上に載せたものが機上OpNavである。 実績は着実に積まれている:彗星フライバイの自動追尾撮像、 はやぶさ2のタッチダウン(ターゲットマーカ画像+LIDARの機上処理 — 第6.1章)、 小惑星衝突ミッションの終端誘導(衝突直前まで機上で目標を追い続ける)など、 「終端フェーズの高速閉ループ」はすでに機上光学の独壇場である。

設計の勘所は地上版との差分にある: ①計算資源 — 特徴抽出・フィルタを飛行計算機で回すための簡約(固定小数点化・処理レート設計)、 ②異常時の縮退 — 解が発散したときの安全側動作(中断・退避 — 第6.1章のGO/NOGO設計)、 ③地上によるリハーサル — 同じ画像を地上でも処理して機上解と突き合わせる検証運用。

5.7.3 パルサー航法 — 銀河のGPS、ただし桁に注意

ミリ秒パルサーは極めて安定な周期パルスを放つ天然の時計である。 複数のパルサーのパルス到着時刻(X線帯で観測)を機上時計と比べれば、 GPSと同じ原理で太陽系内の絶対位置が決まる — これがXNAV(X線パルサー航法)の原理である。

公開情報:ISSに搭載されたNASAのNICER/SEXTANT実験(2017〜)が軌道上実証を行い、 数〜十数km級の測位を実演した(公開発表)。 パルサーのタイミングカタログ整備(電波パルサー観測網の成果)が精度の土台である。

電波航法の本としての位置づけを冷静に書く: 精度は現状km級(電波ODのm級・ΔDORのnrad級に遠く及ばない)、 X線検出器と長い積分が要る。強みは地球インフラへの完全な非依存 — 外太陽系・地上局途絶時のバックアップ、深宇宙の「絶対時刻・絶対位置の独立基準」としての価値である。 主力の置き換えではなく、独立性という保険の技術として理解するのが正確である。

5.7.4 機上原子時計 — 2-wayを1-wayにする

2-way観測の存在理由は「機上時計が信用できない」ことだった(第3.5章)。 機上に高安定時計が載れば、上りだけ・下りだけの1-way測距が観測として成立し:

  • 局は送りっぱなし/受けっぱなしでよく、1局が同時に多数機を支援できる(多数機時代の鍵)
  • 下り1-wayなら探査機は受信を待たずに測位情報を得られる(GPS受信の深宇宙版の構図)

公開情報:NASAのDeep Space Atomic Clock(DSAC、2019〜2021飛行実証)は 水銀イオン時計で10⁻¹⁵級(日)の機上安定度を実証した(公開発表)。 地上メーザ級の時計が機上に載る道筋が示されたことで、 「1-way中心の深宇宙航法アーキテクチャ」は原理の話から設計の選択肢になりつつある。

5.7.5 役割分担 — 地上ODは消えない

要求されるループの速さ → 地上OD(本書の主体系) 精密・検証可能・人間の判断 巡航・精密再構築・科学 機上自律(本章) 高速・独立・資源節約 終端誘導・多数機・非常時 境界は「光時間より速いループが要るか」でほぼ決まる
図5.7-1 分担の原理。 光時間より速い判断が要るなら機上、要らないなら地上 — が第一の分割線。 これに局資源とスケールの経済が重なって、境界は機上側へゆっくり動き続けている。

検証の難しさが自律化の実質的な上限を決めることも付記しておく: 地上ODは解を人間が検査してから使う(第4.9章の規律)。 機上解は検査なしで行動に直結する — だから縮退設計(安全側動作)と 地上リハーサル(5.7.2)が本体と同じ重さを持つ。 「自律化の設計とは、推定器の設計ではなく、推定器が壊れたときの設計である」 — 第6.1章のはやぶさ2の運用設計が、この命題の最良の実例になる。

Q. 機上でΔDOR・レンジ相当のことはできないのか
A. 地球基準の精密観測(ΔDOR)は地上インフラそのものなので機上化できない。 機上でできるのは天体相対の観測(光学・LIDAR)と、1-way電波(時計があれば)である。 つまり自律航法は必然的に天体相対航法に寄る — それは接近・近傍フェーズの要求(第2.5章)と きれいに一致しており、「自律化が必要な場面ほど自律化に向く観測がある」という 幸運な整合が成立している。
Q. 自律航法の時代に、本書の地上OD体系を学ぶ意味は
A. 機上に載るのは同じ数学の制約版である — 設計・検証するのは地上の人間であり、 その人間は本書の体系(誤差予算・可観測性・共分散の検証)で機上系を設計する。 さらに機上解の較正・監査は地上ODが担い続ける。 「自律化とはODの消滅ではなく、ODの製品化」— 作る側の技能はむしろ深く要る。
■ この章のまとめ
  • 自律化の動機は光時間・局資源・多数機スケール。数学は地上と同じ、変わるのは制約と検証
  • 機上光学は終端誘導で既に主力。設計の重心は縮退動作と地上リハーサル
  • XNAVはkm級・独立性の保険。DSAC級の機上時計は1-way化=多数機支援の鍵(いずれも公開実証済み)
  • 分担線は「光時間より速いループが要るか」。境界は機上へゆっくり移動中
  • 自律化の設計とは推定器が壊れたときの設計 — 検証可能性が実質の上限を決める
NICER/SEXTANT・DSACの公開発表は付録C。 機上OpNavの実戦は第6.1章(はやぶさ2)で詳述する。

第5.8章STKによる軌道計算と可視解析

■ この章で学ぶこと
実務で最も広く使われている道具を、原理を分かったうえで正しく使うための章である。 画面の操作手順ではなく、「内部で何を計算しているのか」「設定のどこで嘘をつくのか」 「出た数字をどう検算するのか」を扱う。 本書第1部(力学モデル)と第2部(観測量)が、STKのどの設定項目に対応するのかを 一対一で結びつけることが目的である。

5.8.1 データモデル — 何が何を持っているか

STKはオブジェクトの階層でシナリオを表現する。最低限押さえるのは次の対応である。

オブジェクト役割本書での対応
Scenario解析期間・時系・単位系の器第2.6章(時系と参照系)
Satellite / Vehicle探査機。伝播器と力学モデルを持つ第1部全体
Facility / Place地上局。測地座標を持つ第2.6章(局位置)
Sensorアンテナビーム・視野。指向則を持つ『地上局工学』第2部
Access2オブジェクト間の可視区間第5.1章(パス設計)
Chain複数ホップの経路(局→中継→探査機)中継運用の可視解析

ここで意識しておくべきは、「伝播(軌道を作る)」と「解析(作った軌道から量を計算する)」が 分離されているという設計である。伝播が間違っていれば解析結果はすべて間違うが、 解析側は何も警告しない。したがって検算は必ず伝播の段階で行う。

5.8.2 伝播器の選択 — 深宇宙で使えるものは限られる

ここが最大の分岐点である。伝播器の選択を誤ると、以降の作業がすべて無意味になる。

伝播器力学モデル使ってよい対象深宇宙で使えるか
TwoBody点質量のみ感覚を掴む、検算△ 検算用としてのみ
J2 / J4 Perturbation地球扁平の解析近似地球周回の粗い解析× 使わない
SGP4TLE専用の解析理論地球周回物体カタログ× 絶対に使わない(第5.5.4)
HPOP数値積分。重力場・第三体・SRP・抵抗を設定可能高精度が要る軌道全般○ 中心天体を正しく選べば使える
AstrogatorHPOP相当+マヌーバとターゲッティングミッション設計、TCM計画◎ 惑星間はこれ
SPICE外部カーネルを読むだけ(伝播しない)確定した軌道の利用◎ 運用中の実軌道
Ephemeris(外部取り込み)点列を補間するだけOEMで受け取った軌道◎ 予報の可視化

実務での使い分けは単純である。 これから作る軌道を設計するなら Astrogator、 すでに軌道決定で確定した軌道を使うなら SPICE か外部エフェメリス取り込み。 HPOPを深宇宙で直接使うのは、感度解析や検討段階に限られる。

5.8.3 中心天体と参照系 — 最大の事故源

STKの既定の中心天体は地球である。惑星間軌道をそのまま地球中心で扱おうとすると、 「地球の重力圏をはるかに超えた双曲線軌道」を延々と積分することになり、 結果は物理的に無意味になる。

正しくは、フェーズに応じて中心天体を切り替える。

打上げ〜地球離脱: 地球中心 惑星間巡航: 太陽中心(または太陽系重心) 目標天体接近〜周回: 目標天体中心

Astrogatorでは Mission Control Sequence の中で中心天体を切り替えられる。 切り替え点は影響圏(第1.4.2)の内外で選ぶが、 切り替えの前後で状態ベクトルが連続していることを必ず確認する。 ここで座標変換を誤ると、数千km級の跳びが入る。

参照系も同様に注意がいる。ICRF・J2000・EME2000・各天体の慣性系・各天体の固定系。 OEMやSPICEから取り込むときは、ファイルに書かれた参照系とSTK側の設定が一致しているかを 毎回確認すること。この確認を省略した結果として起きる誤差は、 「なんとなく合わない」という形で現れるので気づきにくい。

5.8.4 力学モデルの設定 — 第1部との対応

HPOP / Astrogator の力学モデル設定画面は、本書第1部の目次とほぼ一対一に対応する。

STKの設定本書深宇宙での設定の要点
Central Body Gravity(次数・位数)第1.3章巡航中は点質量で十分。周回では次数を上げる。上げすぎは計算時間の無駄
Third Body Gravity第1.4章巡航中は太陽・地球・木星を最低限。目標天体接近時は必須
Solar Radiation Pressure(Cr, 面積/質量)第1.5章最も効く設定。球モデルは近似。実機は箱翼で扱うべき
Atmospheric Drag第1.6章深宇宙では不要。惑星周回の低高度でのみ
Integrator(種類・許容誤差・刻み)第1.2章許容誤差を緩めると静かに精度が落ちる。必ず可逆性で検算
Planetary Ephemeris第1.4.3章DEの版を明示的に選ぶ。軌道決定側と揃える
【Cr と 面積/質量 は「合わせ込み」の値である】 STKのSRPは既定で球モデル(一様な反射率 Cr、実効面積 A)を使う。 これは実機の形状とは似ても似つかない。
軌道決定(第4.7章)で推定した Cr をSTKに入れると数字は合うが、 それは物理的な反射率ではなく、姿勢プロファイルまで含めた実効値である。 姿勢運用が変われば値も変わる。Cr を「機体の物性値」として扱ってはいけない。

5.8.5 Access — 可視解析と拘束条件

局と探査機の可視区間を求めるのがAccessである。深宇宙の運用計画では最も使う機能だが、 既定の設定では実運用の可視と一致しない。拘束条件を明示的に入れる必要がある。

拘束条件なぜ要るか典型的な値
最低仰角低仰角では媒質誤差と雑音が増え、実用にならない10〜15°(測距要求があればさらに高く)
局の機械的制限方位・仰角の可動範囲、天頂付近のキーホール局ごとに異なる
太陽離角(SEP角)合の近傍は雑音・プラズマで観測不能数度以下は除外(第3.3章)
送信禁止方位・仰角電波防護・他局保護局ごと(『地上局工学』第4.2章)
探査機側の指向可否HGAが地球を向けるか。姿勢制約ミッション依存

Accessの出力(AERレポート: Azimuth / Elevation / Range)は、 局への指向予報の元データにもなる。ただしSTKのAERをそのまま局に渡してはいけない。 局が必要とするのは光行時間を考慮した指向(電波が出発した時刻の方向ではなく、 いま電波が来ている方向)であり、局固有の指向モデル(『地上局工学』第2.3章)も要る。 第5.4章で扱う予報生成は、STKの出力を出発点にして別途組む作業である。

【Accessの検算】 仰角の計算は自分で書ける。局の地心直交座標 r_st と探査機位置 r_sc から 視線ベクトル d = r_sc − r_st を作り、局の局所天頂方向 ẑ との内積で仰角が出る。
この10行程度のコードとSTKのAERが一致することを、一度は確かめておく。 一致しなければ、参照系・時系・局座標の定義のどれかが食い違っている。

5.8.6 Astrogator — マヌーバとターゲッティング

Astrogatorは Mission Control Sequence(MCS)という一連のセグメントで軌道を組み立てる。

Initial State → Propagate(条件まで) → Maneuver(ΔV) → Propagate → …

実務で効くのは Target Sequence である。 「このΔVを調整して、目標天体到達時のB平面座標を指定値にする」といった 逆問題を、差分修正法(differential corrector)で解く。

ここで本書第5.3章(B平面)とつながる。TCMの設計とは、まさに 「B平面上の目標点に到達するΔVを求める」ことだからである。 Astrogatorの Target Sequence は次の3要素で構成される。

  • 制御変数(Control): 調整するもの。ΔVの大きさ・方向、点火時刻
  • 拘束(Constraint): 満たすべきもの。B·R、B·T、到達時刻、近点高度
  • 収束条件: 許容誤差と最大反復回数

差分修正法は数値微分でヤコビアンを作って反復する。 収束しないときの原因はほぼ決まっているので、順に潰す。

症状原因対処
まったく収束しない制御変数と拘束の数が合っていない、感度がないヤコビアンを表示し、ゼロ列がないか見る
振動して収束しない摂動量(数値微分の刻み)が不適切Perturbation を桁で変えて試す
収束するが物理的に変局所解に落ちた、初期推定が悪い初期ΔVを解析的に見積もってから入れる
拘束を微妙に外す許容誤差の設定が緩いTolerance を要求から決める

5.8.7 外部軌道の取り込みと書き出し

運用中は、軌道決定の結果(OEM / SPICE)をSTKに読み込んで解析するのが基本形になる。 STKで伝播した軌道を運用に使うことは、通常はしない。正解は軌道決定側にあるからである。

取り込み時の注意は第5.5.3で述べたとおりで、参照系・時系・中心天体・補間次数の4点。 とくに補間次数を指定どおりに設定すること。STKは既定の補間次数を持っているので、 OEMの指定と食い違ったまま読み込まれることがある。

書き出しでは、渡す相手が何を期待しているかを確認する。 「STKからエクスポートしました」だけでは受け取る側が困る。 参照系・時系・中心天体・エポック間隔・補間次数を添えて渡すのが最低限である。

5.8.8 自動化 — GUIから抜け出す

可視解析を1回やるだけならGUIでよい。しかし 「追跡計画案を10通り作って比較する」「毎日の予報を自動生成する」 「較正天体を全期間分探索する」といった作業は、必ず自動化する。

STKは外部からの制御インタフェース(Connect コマンド、オブジェクトモデル、 Pythonバインディング)を持つ。設計の指針は次の2つ。

① シナリオをコードで組み立てる。GUIで作ったシナリオをコードで叩くのではなく、 シナリオそのものをコードから作る。そうすれば設定が全部テキストとして残り、 差分が取れ、レビューでき、再現できる。

② 出力は必ずファイルへ落とす。画面で見て判断するのではなく、 レポートをCSV等で吐かせて、比較・可視化は別の道具でやる。 STKを「計算機」として使い、「判断の場」にはしない。

5.8.9 STKを信用してよい範囲 — 検算の作法

本章で最も伝えたいのはここである。「STKがそう言った」は根拠にならない。 設定が間違っていれば、もっともらしい間違った答えが出る。しかも警告は出ない。

最低限やるべき検算を4つ挙げる。

① 二体問題との比較。摂動をすべて切って TwoBody で伝播し、 閉形式の解(第1.1章)と一致するか確認する。これで時系・単位・参照系の基本的な設定が検証できる。

② 保存量の確認。摂動なしなら軌道エネルギーと角運動量は保存する。 1周期積分して保存量がどれだけ変化するかを見れば、積分器の許容誤差設定が適切かが分かる。 相対変化が10⁻¹⁰を超えるようなら設定が緩い。

③ 独立実装との突き合わせ。可視解析(仰角)、光行時間、 ドップラの一次項あたりは、自分で数十行書けば計算できる。 第2部の式をそのまま実装して比較する。これが最も効く検算である。

④ 既知の事実との照合。近点通過時刻、食の時刻、既知のマヌーバ時刻が 想定どおりの時刻に現れるか。物理的に意味のあるイベントで確かめる。

【設定を記録する】 解析結果を人に見せるときは、伝播器・中心天体・参照系・時系・力学モデル・ 積分器設定・惑星暦の版・STKのバージョンを必ず併記する。 これがないと、半年後に自分でも再現できない。 シナリオファイルを版管理に入れておくのが最も確実である。
■ この章のまとめ
  • STKは「伝播」と「解析」が分離されている。伝播が誤っていても解析は警告しない。検算は伝播段階で行う
  • 深宇宙で使える伝播器は Astrogator(設計)と SPICE / 外部エフェメリス(運用中の実軌道)。SGP4は絶対に使わない
  • 既定の中心天体は地球。フェーズに応じて切り替え、切替点で状態が連続していることを確認する
  • 力学モデル設定は本書第1部と一対一に対応する。とくにSRPの Cr は物性値ではなく合わせ込みの実効値
  • Accessは拘束条件(最低仰角・SEP角・機械制限・送信禁止方位)を明示的に入れないと実運用と合わない
  • AERをそのまま局に渡してはいけない。予報生成は光行時間と局の指向モデルを含む別作業(第5.4章)
  • Astrogator の Target Sequence でB平面ターゲッティングができる。収束しないときの原因は限られている
  • 繰り返す作業は必ず自動化し、シナリオをコードで組み立てて版管理する
  • 「STKがそう言った」は根拠にならない。二体比較・保存量・独立実装・既知イベントの4つで検算する
STKはバージョンにより機能名・UI・既定値が変わる。 本章は設計の考え方を扱っており、操作手順書ではない。 実務で用いる際は、使用するバージョンの公式資料で機能名と既定値を確認し、 解析結果には必ず検証したバージョンを併記すること。
第 VI 部 事例研究
はやぶさ2・MMX・みお。本書の全要素が同時に効く現場を追い、最後に電波科学への出口を示す。

第6.1章事例研究 — はやぶさ2の小天体近傍航法

■ この章で学ぶこと
第6部では、ここまでの体系が実ミッションでどう組み合わさったかを読む。 最初の事例ははやぶさ2 — 小惑星リュウグウでの近傍運用・タッチダウンは、 「弱い力学」(第1.6章)・光学航法(第2.5章)・自律化(第5.7章)の教科書的総合演習である。 本章は公開情報(JAXA/ISASの発表・公開文献)に基づき、 航法の観点から流れを再構成する。 各段落の(第X.Y章)参照が「本書の索引としての事例」という読み方を支える。
はやぶさ2(想像図)
図6.1-1 はやぶさ2(想像図)。 画像:©JAXA(出典:はやぶさ2プロジェクト公式サイト)。 平板の太陽電池と高利得アンテナという形状は、SRP箱翼モデル(第1.5章)の 「箱+翼」抽象化がそのまま当てはまる機体でもある。

6.1.1 ミッションの航法的な骨格(公開情報より)

出典:JAXA/ISASの公開資料(プロジェクトサイト・プレスリリース・ISASニュース)および 査読論文(Earth, Planets and Space誌のはやぶさ2特集など、オープンアクセス多数 — 付録C)。 以下の事実関係はすべて公開情報の範囲であり、詳細な数値・内部判断は原典を参照のこと。

  • 2014年打上げ、地球スイングバイ(2015)を経て2018年リュウグウ到着、 2019年に2回のタッチダウンと衝突装置(SCI)実験、2020年カプセル帰還
  • 巡航はイオンエンジン(低推力 — 第5.2章のモデル化対象)+地上OD(RARR・ΔDOR)
  • 近傍運用はホームポジション(高度約20 km・地球-小惑星線上)からの ホバリング型(第1.6章の左側の解)

6.1.2 到着 — 段階的接近という航法設計

小天体接近の中心問題は第1.6章Q&Aのとおり「μを測るまで近づけない・近づかないと測れない」。 公開情報から読み取れるはやぶさ2の解がまさに段階的接近である: 光学(星野に対する小惑星の方向 — 第2.5章)で相対軌道を絞りながら接近し、 到着後にホームポジション付近からの運用でμ・形状・自転を観測で確定 (形状モデルは画像から、μは降下運用時の軌道の曲がりから — 第1.6章)。 モデルは飛びながら育てる、の実戦である。

6.1.3 近傍の日常 — 地上と機上の分業

ホームポジション維持は「不安定平衡を制御で保つ」(第1.6章)。 公開資料が描く分業は本書の枠組みでこう整理できる:

機能担当本書の該当
絶対軌道(小惑星ごと太陽系内のどこか)地上OD:RARR+ΔDOR第2.2〜2.4章
小惑星相対の水平位置光学航法カメラ(ONC)画像 — 地上処理第2.5章
高度レーザ高度計(LIDAR)第2.5章Q&A
降下・上昇の閉ループ機上(GCP-NAV等の画像航法+LIDAR)第5.7章

「普段は地上・終端は機上」という第5.7章の分担線が、 高度20 km(地上)→数百m〜表面(機上)という高度の階段として実装されている。

第2回タッチダウン運用における光学航法カメラ画像
図6.1-2 降りる直前に、探査機が見ていたもの。 第2回タッチダウン運用(PPTD, 2019年7月9〜11日実施)で取得された光学航法カメラ(ONC)の航法用画像。 地上受信時刻 UTC 2019-07-11 00:28。画像: ©JAXA, 東京大学ほか(はやぶさ2プロジェクト公式ギャラリー)。
視野いっぱいを岩塊が覆っている — 本節でいう「平坦地が半径数mしかない」とは、 この光景の中に着地点を探すという意味である。 自然地形どうしがよく似て見えることが、画像航法の対応づけに多峰性(第4.4章)をもたらす理由も、 この一枚から直感できる。

6.1.4 タッチダウン — ターゲットマーカと自律の限界設計

リュウグウは想定より岩だらけで、安全な着陸候補が半径数mしかない — 公開経緯のとおり、第1回タッチダウンは当初計画から延期して精密化された。 航法的な鍵はターゲットマーカ(TM):事前に投下する再帰反射の人工ランドマーク(第2.5章)である。 TMを画像で捕捉・追尾することで、地形の不確かさ(自然ランドマークの対応づけ誤差 — 第4.4章の多峰性)を 「自分で置いた既知点への相対航法」に置き換える。 降下は高度で区切ったGO/NOGO判断(地上判断→ある高度から完全自律)で設計され、 「推定器が壊れたときの設計」(第5.7章) — 異常時は即座に上昇退避 — が全段に組み込まれた。 第2回タッチダウン(SCI人工クレーター近傍)は、第1回で実証された精度を土台に、 より狭い許容域へ降りている。

6.1.5 本書の道具がどこで効いたか — 索引として

場面効いた道具
イオンエンジン巡航のOD低推力のモデル化と推定(第5.2章)、SRP(第1.5章)
地球スイングバイB平面照準(第5.3章)、集中追跡(第5.1章)
接近・到着光学+電波の融合(第2.5章)、段階的接近(第1.6章)
近傍定常ホバリング(第1.6章)、SRPが主要力の力学設計
タッチダウンTM相対航法(第2.5章)、機上自律と縮退設計(第5.7章)
帰還・再突入突入回廊への照準(第5.3章Q&A)
Q. この事例から「次のミッション」に持ち帰るべき最大の教訓は
A. 航法の成立性を運用の柔軟性で買ったことだと本書は読む。 岩だらけという想定外に対し、ハードウェアは変えられない — 変えられたのは運用(延期・TM追加投下・降下手順の精密化)だった。 「弱い力学の三原則」(第1.6章:設計で守る・天体相対へ・モデルを育てる)に 「運用に冗長性を残す」を足した四原則が、小天体航法の実戦知と言える。
■ この章のまとめ
  • はやぶさ2の近傍航法=ホバリング+光学/LIDAR+終端自律の総合実装
  • 接近は段階的:光学で近づき、近づいて μ・形状を確定 — モデルは飛びながら育てる
  • 分業は高度の階段:絶対は電波・相対は光学・終端は機上(第5.7章の分担線の実例)
  • ターゲットマーカが地形の多峰性問題を「既知点相対」に変換した
  • GO/NOGOと退避 — 自律の設計は「壊れたときの設計」の実例
  • 想定外(岩)に対する解は運用の柔軟性 — 航法設計は運用設計と不可分
本章は公開情報に基づく教材的再構成であり、 運用の内部判断・非公開の詳細には踏み込んでいない。 正確な経緯・数値は付録Cに挙げるJAXA/ISAS公開資料と査読論文(EPS特集等)を一次資料とすること。

第6.2章事例研究 — MMXの火星圏と準衛星軌道

■ この章で学ぶこと
MMX(火星衛星探査計画)はフォボスからのサンプルリターンであり、 航法的には「母惑星の重力が支配する小衛星の近傍」という、 はやぶさ2(前章:孤立小天体)と対をなす問題設定である。 解も対照的で、ホバリングではなく準衛星軌道 QSO(第1.6章の右側の解)を使う。 本章は公開情報(JAXA公式・公開システム記述書・ISAS特集連載 — 付録C)に基づき、 火星圏航法の構図をQSOを軸に読む。 『宇宙機システムズエンジニアリング』のMMX小教科書(同書別冊)と相補 — あちらは開発の全体像、こちらは航法の一断面である。

6.2.1 問題設定 — フォボスという相手(公開情報より)

出典:JAXA MMX公式サイト、公開のシステム記述書(MMX-SysDD 2017年3月版 — MEGANE国際公募に際して公開)、ISAS特集連載「MMXはフォボスを目指す!」(軌道計画・軌道決定の回を含む)。 以下は公開情報の範囲の再構成である。

  • フォボスは半径約11 kmの小衛星で、火星を約7.6時間で一周する。 フォボス自身の重力は微弱で、その影響圏は表面すれすれ — 「フォボスを周回する」ことは事実上できない(第1.6章の球面調和どころか、二体近似自体が成立しない)
  • そこで探査機は火星を回りながらフォボスに並走する: フォボス軌道の少し内外を行き来する軌道は、フォボス共回転系で見ると フォボスの周りを回る閉軌道に見える — これがQSO(準衛星軌道)である
  • 公開設計では高度の異なる複数のQSO(高・中・低)を段階的に使い分け、 観測→着陸候補選定→降下と進める計画が示されている(段階的接近 — 第1.6章 — のQSO版)
Mars Reconnaissance Orbiter の HiRISE が撮影したフォボス
図6.2-1 相手の実像。 Mars Reconnaissance Orbiter 搭載 HiRISE が2008年3月23日に距離約6,800 kmから撮影したフォボス(カラー合成)。 画像: NASA/JPL-Caltech/University of Arizona(PIA10368)。 三軸径はおよそ 27×22×18 km。左上の大穴が直径約9 kmのスティックニー・クレータで、輪郭はどの向きから見ても円から外れている。 球で近似できないこの形が、前項で述べた重力場の非球対称性と 次項の QSO 設計の出発点になっている。

6.2.2 QSOの航法 — 何が新しいか

論点はやぶさ2型(ホバリング)MMX型(QSO)
力学SRP対重力の準静的つり合い(不安定)火星重力+フォボス摂動の三体的力学(条件付き安定)
燃料維持噴射が常時要る維持コストが小さい(力学が保つ)
状態の基準小惑星相対フォボス共回転系での相対軌道 — 火星・フォボス双方の暦精度が効く(第1.4章)
観測の主役光学+LIDAR+地上電波同じ三点セット+フォボス暦の同時改良

最後の行がMMX航法の妙味である:フォボスの暦(位置予報)自体に不確かさがあり、 QSO維持にはフォボス相対の状態が要る。 探査機の観測(光学でフォボスを見る)はフォボス暦をも改良する — 「探査対象の暦を推定状態に含める」(第4.1章の拡大状態の拡張)ことで、 暦誤差の壁(第1.4章:絶対は暦なり)を天体相対の観測で内側から破る構図になる。

6.2.3 火星圏に入るまで — 公開設計の航法イベント

公開のシステム記述書は、往路を直接遷移(スイングバイなし・約11か月)とし、 TCM・RARR・DDOR(ΔDOR)による誘導、MOI(火星軌道投入)を3段の噴射 (捕獲楕円→傾斜角と近火点調整→フォボス軌道高度へ円化)として記述する。 本書の道具で読めば:巡航は第5.1〜5.4章の標準ループ、 MOIは大ΔVの跨ぎ推定(第5.2章)、各段の照準はB平面から火星周回の軌道要素照準への 連鎖(第5.3章Q&A)である。 投入後の位相合わせ(フォボスとの会合)を経てQSOへ入る。

6.2.4 通信・追跡の環境 — 混み合う火星圏

火星圏は同一ビーム内複数機の代表例(『周波数管理と国際調整』第4.2章)であり、 MMXの追跡はその調整環境の中で行われる。 地上側は臼田・美笹(『地上局工学』第8.1章)を軸に、 クロスサポート(『地上局工学』第7.5章)を組み合わせる構図が公開情報から読める。 ΔDOR(第2.4章)は火星圏ミッションの標準装備であり、 MOI前の決め所投入(第5.1章)というパターンはMMXでも変わらない。

Q. QSOは「安定」なら、航法は楽になるのか
A. 維持は楽になるが、推定は楽にならない — QSOの力学は三体的で、同じ初期誤差でも位相によって成長の仕方が違う(第4.6章の伝播が非自明)。 さらに低QSOほどフォボス重力の不確かさ(質量・重力場 — 第1.3章)が効いてくる。 「燃料の問題を力学で解いた分、推定の問題が前に出る」— 設計と航法のトレードの好例として覚えておきたい。
Q. 着陸はどうするのか
A. 公開情報では、低QSOからの降下・数時間の表面滞在・サンプリング・上昇という 短期着陸の計画が示されている。フォボス表面重力は約1/1000 g級で、 「着陸」というより「ゆっくり接地」に近い — はやぶさ2のタッチダウン(前章)と月着陸の中間の力学であり、 地形相対航法(第2.5章)+機上判断(第5.7章)の適用形である。 詳細は飛行後の公開情報で本章を更新すべき部分である。
■ この章のまとめ
  • フォボスは「周回できない」相手 — 解はQSO:火星を回りながら並走する共回転系の閉軌道
  • ホバリング(燃料で保つ)との対照で、QSOは力学で保ち、推定が前に出る
  • フォボス暦を推定に含める — 暦誤差の壁を天体相対観測で内側から破る構図
  • 往路・MOIは標準の道具(RARR/ΔDOR・跨ぎ推定・B平面連鎖)の適用
  • 火星圏の混雑(周波数調整)と地上局網が運用環境を規定する — 姉妹書との接続点
本章は打上げ前の公開設計情報に基づく(システム記述書は2017年版でTBC多数 — その後の設計進展に注意、と原文自身が示す)。 飛行後には実績で書き換えるべき章である。一次資料は付録CおよびSysEng別冊MMXの出典表。

第6.3章事例研究 — みおの惑星間巡航と水星到達

■ この章で学ぶこと
三つ目の事例はみお(MMO) — 日欧共同のBepiColombo計画の水星磁気圏探査機である。 前二章が「天体近傍」の事例だったのに対し、こちらは惑星間巡航そのものの事例: 7年・9回のスイングバイという長い旅路は、 B平面照準(第5.3章)・スイングバイ航法・電気推進のOD(第5.2章)・ 内太陽系ゆえの濃い太陽プラズマ(第3.3章)の連続適用である。 公開情報(JAXA/ESA発表 — 付録C)に基づき、「巡航航法の教科書」として読む。

6.3.1 ミッションの骨格(公開情報より)

出典:JAXA/ISASのみお公式情報、ESAのBepiColombo公開資料。 2018年打上げ。ESAの水星表面探査機(MPO)・電気推進モジュール(MTM)と結合した複合体で巡航し、 地球1回・金星2回・水星6回のスイングバイを経て2026年末〜2027年の水星周回軌道投入へ向かう (到着時期は運用経過により更新されてきた — 確認日時点の公式発表を参照のこと)。 水星到達がこれほど難しいのは「落ちすぎる」から — 太陽へ向かう軌道はエネルギーを捨てる必要があり、 化学推進だけでは推薬が成立しない。答えが電気推進+多重スイングバイである。

6.3.2 スイングバイ連鎖の航法 — B平面のリレー

9回のスイングバイは、B平面照準(第5.3章)を9回連鎖させることを意味する。 各スイングバイの通過点誤差は次のレグの初期誤差として増幅されて伝わるから:

  • 各スイングバイ前に「集中追跡+ΔDOR+最終TCM」の定型パッケージ(第5.1章・第5.3章)が置かれる
  • スイングバイ直後のODは「どこを通ったか」の再構築(第5.2章の差分法と同型)から始まり、 次レグの照準を更新する
  • 金星・水星スイングバイは太陽に近く、SEP角の悪い幾何・濃いプラズマ(第3.3章)と 重なりやすい — 追跡計画は幾何との綱引きになる

「B平面のリレー」は外惑星ミッション(木星以遠)でも同じ構図であり、 多重スイングバイ航法の型として一般性がある。

6.3.3 電気推進巡航のOD

MTMのイオンエンジンは長期間の連続噴射で徐々に軌道を変える。 ODから見ると「常時働く未知精度の加速度」であり(第5.2章): 推力モデル(スロットル・指向履歴のテレメトリ)を力学に入れ、 スケール係数を推定し、残差を経験的加速度(第4.7章)で吸う — という 低推力ODの標準形が長期間適用される。 噴射中はドップラに推力が直接見えるため、 ODが推進系の性能監視を兼ねる(第5.2章Q&A「最良の飛行較正」)のも低推力巡航の特徴である。

6.3.4 内太陽系という環境

環境要因航法への効き本書の該当
太陽に近い(0.3〜0.5 au)SRPが1 au比で4〜10倍 — モデル誤差も比例して拡大第1.5章
合・小SEP角が頻繁プラズマ揺らぎ・追跡休止が多い第3.3章・第6.4章
水星の暦歴史的にレーダ測距依存 — 周回探査機の追跡データで劇的に改良される第1.4章・第6.5章
強い相対論効果Shapiro遅延・水星軌道の近点移動 — 較正項であり科学対象第3.4章・第6.5章

最後の2行が示すとおり、水星圏のODはそのまま基礎科学である: 周回フェーズの精密追跡は水星の重力場・自転・暦を作り直し、 相対論パラメータの検証(先代のMESSENGER探査機の追跡データでも行われた — 公開文献)に寄与する。 第6.5章(電波科学)への橋がここに架かる。

6.3.5 到着後 — みおの分離と磁気圏軌道

水星到達後、複合体は分離し、みおは楕円の磁気圏観測軌道に入る(公開計画)。 スピン安定の磁気圏探査機のODは、周回科学衛星の標準(第5部のループ)に戻る — 長い巡航の特殊性と、到着後の定常性の対比も、この事例の教材的価値である。

Q. 9回のスイングバイ、1回外したらどうなるのか
A. 連鎖設計には各スイングバイでの誤差回復余裕(次レグのTCM予算)が織り込まれている — B平面誤差楕円(第5.3章)が許容域に収まるよう追跡・TCMを重ねる、の反復である。 「外せない」からこそ、スイングバイ前パッケージ(集中追跡+ΔDOR)が定型化されている。 多重スイングバイは航法チームの持久戦であり、 第5部のループを7年間高い品質で回し続ける運用体制こそが成立条件である。
Q. みお自身の航法系(アンテナ等)で特徴的なことは
A. 巡航中のみおは複合体の一部で、追跡・通信は主にESA側モジュール経由 — 「巡航中の探査機が自分では電波を出さない」構成である(公開情報)。 分離後はみお自身のX帯系で追跡される。 国際分担ミッションではどのフェーズで誰の電波・誰の局が観測を担うかが 航法データの出自(第5.5章のメタデータ!)に直結する — クロスサポート時代の教材でもある。
■ この章のまとめ
  • みお/BepiColomboは巡航航法の教科書:7年・9スイングバイ・電気推進
  • 多重スイングバイ=B平面照準のリレー。前パッケージ(集中追跡+ΔDOR+TCM)が定型
  • 低推力ODの標準形(推力モデル+スケール推定+経験的加速度)を長期適用。ODが推進監視を兼ねる
  • 内太陽系:SRP増大・頻繁な合・強い相対論 — 較正項がそのまま科学になる環境
  • 国際分担では「誰の電波・誰の局か」が観測データの定義に入る — メタデータの教材
経緯・到着時期は公開発表の更新に従うこと(本章の記述は執筆時点の公開情報)。 MESSENGERの重力場・暦・相対論成果は公開文献(付録C)。

第6.4章太陽合をまたぐ運用

■ この章で学ぶこと
第3.3章で物理を、第5部でループを学んだ。本章はその応用問題 — ループが数週間止まるという、あらかじめ分かっている危機の運用設計である。 火星ミッションなら約26か月ごと、必ず合が来る。 合の運用は「特別なこと」をする期間ではなく、 合の前にすべてを済ませ、合の間は何もしないで済むようにする設計の成果である。 前・中・後の三幕で、定型パターンを組み立てる。

6.4.1 第一幕:合の前 — 置き土産の設計

  1. 軌道解の確定 — 合直前に集中追跡(+必要ならΔDOR)で最良の解を作る(第5.1章)。 この解が休止期間全体の予報(第5.4章)の親になる — 「合前最後の解」の品質が、合明けの再捕捉の難易度を直接決める
  2. マヌーバの排除 — 休止期間とその直後にTCMを置かない軌道計画(第5.2章・第5.3章)。 置かざるを得ないなら合前に前倒しする
  3. 機上の自律化設定 — コマンド無しで安全に過ごす期間の設定(セーフィング閾値の緩和・ 蓄積データの保持計画)。周波数・運用制約の遵守は自動でも守られる設計に (『周波数管理と国際調整』第5.8章のセーフモード設計と同じ思想)
  4. 合験(リハーサル) — 通信可能なうちに、休止手順・復帰手順を一度通す
SEP角 →(大きい ← 合 → 大きい) 第一幕:置き土産 集中追跡・TCM排除 第二幕:沈黙と記録 ビーコン監視・データは取り続ける 第三幕:再捕捉 広掃引・軌道優先 追跡休止(数日〜数週間)— 共分散は成長し続ける 日付は暦で何年も前に分かる — 驚いてはいけない危機である
図6.4-1 合運用の三幕。 前幕にすべてを投資し、中幕は何もしないで済むようにし、後幕で立て直す。 「特別なことをする期間」ではなく「特別なことをしなくて済むよう設計してある期間」 になっていれば、その計画は成熟している。

6.4.2 第二幕:合の間 — 完全沈黙ではない

SEP角のしきい値(第3.3章の表)は「精密OD不可」と「通信不可」の二段である。 その間の帯域では:

  • ビーコン監視 — 復調はできなくても搬送波の検出だけで「生きている・大異常なし」が分かる。 低い運用コストで安心を買う定番(『宇宙通信』の低レート限界の実用形)
  • データは取り続ける — 航法に使えない品質でも記録する。 合のドップラは電波科学の一級データであり(第3.3章5節・第6.5章)、 後日の較正検証(プラズマモデルの答え合わせ — 第3.6章)にも使える
  • コマンドは原則送らない。送るなら復唱・多重化の保守的手順で(誤受信リスク — 第3.3章)

6.4.3 第三幕:合明け — 再捕捉の力学

休止中、軌道は力学モデルだけで外挿され、共分散は成長している(第5.4章)。 合明け初日の運用は:

  1. 広めの掃引・長めの待ち受けで捕捉(掃引幅は成長した共分散から生成 — 第5.4章3節)
  2. 最初の数パスはOD専念(RARR集中) — 解を合前品質に戻すのが最優先
  3. 機上蓄積データの回収はその後 — 回線の優先順位は「軌道→健康→科学」
  4. 合中に取ったデータの事後処理(プラズマ較正つき再OD)で休止期間の軌道を埋め戻す(第4.5章の平滑化)
【合の工程を暦から引く】 合は幾何なので、打上げ前から全部の日付が分かる(第3.3章)。 したがって正しい姿は「ミッション計画の初期から、合の前後にイベントを置かないよう 全工程が組まれている」ことであり、運用フェーズで慌てて対処する事象ではない。 工程表に「合」の行がないミッション計画は、それだけで未成熟と判断してよい — 『宇宙機システムズエンジニアリング』のライフサイクル計画との接続点である。
Q. 合の間に探査機で異常が起きたらどうするのか
A. だから「合の間に人間の介入が要らない設計」に事前投資する — 機上フォルトプロテクションが自律で安全化し(第5.7章の縮退の思想)、 ビーコン(トーンの種別)で状態の要約だけを地上へ知らせる、という組み合わせが定石である。 合はこの自律設計の定期的な実地試験でもあり、 「合を安全に越えられる機体」は長期運用全般に強い機体である。
Q. Ka帯・二周波があれば合の休止は不要になるのか
A. 短くはなるがゼロにはならない。プラズマ耐性(第3.3章:1/f²)で 精密ODの可能な期間は広がるが、SEP角が十分小さければ回線自体が閉じる。 効果は「休止2週間が数日になる」の桁であり、 それでも臨界イベントを合に置けない事情は変わらない — 緩和はするが、三幕の設計自体は残る。
■ この章のまとめ
  • 合の運用は三幕:前(置き土産)・中(沈黙と記録)・後(再捕捉と埋め戻し)
  • 前幕がすべて:最良の解・マヌーバ排除・自律化・リハーサルを合前に済ませる
  • 合中もビーコン監視とデータ記録は続く — 航法のゴミは電波科学の宝
  • 合明けは「軌道→健康→科学」の順。掃引幅は成長した共分散が根拠
  • 合は暦で全部読める — 工程表に「合」の行があるかが計画成熟度の試金石
SEP角しきい値・休止期間は周波数と要求で変わる(第3.3章の注記どおり)。 各ミッションの合運用の実例は公開の運用報告(付録C)に散在する — 自ミッションの計画時に集めておく価値がある。

第6.5章軌道決定から電波科学へ

■ この章で学ぶこと
本書の締めくくりに、視点をもう一度反転させる。 ここまで「誤差」「較正対象」「摂動」と呼んできたものは、 立場を変えればすべて観測対象である — 重力場は天体の内部を、 プラズマ遅延は太陽コロナを、Shapiro遅延は時空の構造を語る。 軌道決定の技術体系をそのまま使って自然を測る営みが電波科学(radio science)であり、 本書の読者は実はすでにその技術者である。 主要な観測モードを一巡し、「航法と科学は同じ装置の両面」であることを見て、本書を閉じる。

6.5.1 反転の一覧表 — 誤差源はどこで科学になったか

本書での顔(誤差・較正)反転した顔(科学)実例(公開成果)
重力場係数の不確かさ(第1.3章)重力科学:内部構造・マスコンGRAIL(月)・MRO系(火星)の重力場モデル
フォボス暦の誤差(第6.2章)衛星の軌道進化・潮汐散逸火星衛星の永年加速の測定
太陽プラズマの揺らぎ(第3.3章)コロナ・太陽風の断層観測合を利用した電子密度・乱流の研究
Shapiro遅延・PPN(第3.4章)一般相対論の検証カッシーニのγ測定(第3.4章)
対流圏・電離層(第3.1〜3.2章)地球大気の監視(GNSS気象学と同根)掩蔽による気温・水蒸気・TECプロファイル
スピン衛星の位相(『宇宙通信』)自転・歳差の精密測定→内部の慣性着陸機電波による火星自転・核の研究

6.5.2 電波掩蔽 — リンクの切れ際が最も雄弁

探査機が天体の縁に隠れる(掩蔽)とき、電波は大気・電離層を斜めに貫く。 その間の周波数・振幅の時系列(オープンループ記録 — 『地上局工学』第6.2章)から、 屈折率プロファイル→気温・気圧・電子密度の高度分布がアーベル変換で復元できる。 惑星大気の「電波CTスキャン」であり、火星・金星・外惑星・タイタンの大気構造の多くは この手法で得られた(公開成果多数)。 使う較正・時刻・周波数の道具は本書第2〜3部そのもの — 掩蔽科学の限界は、そのままドップラ較正の限界(第3.6章)である。

6.5.3 重力科学の実務 — 第4部の拡大適用

重力場推定(第1.3章4節)の実務は、バッチ推定(第4.2章)の状態を 数百〜数千のStokes係数まで拡大したものである。 巨大な正規方程式・アーク結合・正則化(事前情報 — 第4.2章のベイズ)・ 係数の共分散評価(第4.6章) — 本書の道具の高次元版がそのまま使われる。 科学の質を決めるのはやはり非重力のモデル化(第1.5章)と較正(第3部)であり、 「航法が上手いチームは重力科学も上手い」という経験則には構造的な理由がある。

6.5.4 これからの電波科学と、本書の外へ

  • Ka帯・多周波リンク(第3.2〜3.3章)の普及は、プラズマ較正の壁を下げ、 重力・相対論測定の精度を一段引き上げつつある
  • 光通信時代(『周波数管理と国際調整』第6.3章)でも測位・時刻の基盤はRFが残る — 電波科学の観測インフラは当面失われない。光の精密測距・時刻比較はむしろ新しい科学窓になる
  • 機上時計の高安定化(第5.7章のDSAC級)は1-way電波科学 — 深宇宙に置いた時計そのものによる重力ポテンシャル測定 — の可能性を開く

本書は「電波で位置を測る」技術の本として書かれた。 しかし振り返れば、測っていたのは位置だけではない — 媒質を、天体の中身を、時空そのものを、同じ電波が測っていた。 残差を読む技能(第4.9章)は、自然を読む技能と地続きである。 軌道決定者の仕事机から見える宇宙は、思いのほか広い — それがこの本の結語である。

Q. 電波科学を目的にする場合、航法と何を変えて計画すべきか
A. 三つ:①観測モードの確保 — オープンループ記録・二周波下り・USOなど、 科学要求から機上・地上の構成に遡る(『宇宙通信』・『地上局工学』の設計項目)。 ②幾何の設計 — 掩蔽・合・低高度通過など「科学に良い幾何」を軌道計画に織り込む (運用上は厄介な幾何であることが多い — 第3.3章・第5.1章とのトレード)。 ③較正の格上げ — 航法ではconsiderで済む項(第4.6章)を、科学では測って消す水準へ。 要は「誤差予算の要求行を科学が書き換える」ことである(第3.6章)。
■ この章のまとめ
  • 本書の誤差源・較正対象は、立場を変えればすべて科学観測の対象
  • 掩蔽=大気の電波CT、重力科学=第4部の高次元適用、合データ=コロナ断層 — 道具は全部既出
  • 科学の質を決めるのは非重力モデルと較正 — 航法が上手いチームは科学も上手い
  • Ka帯・機上時計・光の時代も、電波科学の窓は閉じない — 新しい窓が増える
  • 残差を読む技能は自然を読む技能と地続き — 本書の結語
各成果の一次文献(GRAIL・掩蔽・カッシーニγ等)は付録C。 電波科学の要求を通信系・地上系へ落とす作業は姉妹書(『宇宙通信』『地上局工学』)の設計章と往復して行うこと。
付録

付録A総合演習 — 章をまたいで軌道を決める

■ この演習について
本書の全部を一本に通す演習である。仮想の火星行き探査機について、 力学モデルの構築 → 観測シミュレーション → 推定 → 共分散解析 → 運用判断、 と進め、小さな軌道決定システムを自分の手で一周組むことをゴールにする。 プログラミングを前提にする(言語は問わない。倍精度必須 — 第1.2章)。 各課題に「使う章」を示す。解答は一意ではない — 残差が白色になり、共分散が検証(第4.6章)に耐えれば正解である。

A.1 設定

項目
探査機地球-火星遷移軌道上(巡航中盤、太陽中心距離1.3 au、地球距離0.8 au)
力学太陽点質量+地球・火星・木星第三体+SRP(A/m=0.02 m²/kg、C_r=1.3±0.1)
観測1日1パス×8時間:2-wayドップラ(60 s、σ=0.05 mm/s)+レンジ(5分ごと、σ=2 m)。局は1局
誤差源レンジバイアス2 m(未知)、対流圏残差(時間相関)、C_r誤差

A.2 課題1 — 力学と伝播(第1部)

  1. 運動方程式(第三体は直接項−間接項! 第1.4章)を実装し、RK系可変刻みで30日伝播せよ
  2. 検算三点セット(第1.2章):許容誤差1桁変更・往復積分・エネルギー監視を実施し、結果を記録せよ
  3. 変分方程式でΦを積分し、数値微分と相対誤差10⁻³で一致することを確認せよ(第1.2章・第2.7章)

A.3 課題2 — 観測のシミュレーション(第2〜3部)

  1. 光行時間方程式を反復で解き(第2.2章)、レンジ・ドップラ(差分レンジ形式 — 第2.3章)の 観測値を「真の軌道」から生成せよ。局位置には自転(簡略でよい:UT1誤差なし)を入れること
  2. 雑音・レンジバイアス・一次ガウスマルコフの対流圏残差(τ=2時間、σ=5 cm)を加えよ(第3.6章)
  3. 真値との差をプロットし、意図した統計になっていることを確認せよ — シミュレータの検証なしに推定器の検証はできない

A.4 課題3 — 推定(第4部)

  1. 初期推定を真値から{位置100 km、速度1 m/s}ずらし、バッチ推定(第4.2章)で {状態6、C_r、レンジバイアス}を解け。反復収束の様子(‖δX̂‖の推移)を記録せよ
  2. 収束後の残差の白色性を検査せよ(第4.9章)。対流圏残差が相関して残ることを確認し、 ①レンジ・ドップラの重み調整、②天頂遅延推定(第3.1章)のどちらかで改善を試みよ
  3. 相関行列(第4.8章)を出力し、|ρ|>0.9の組を解釈せよ (ヒント:1局RARRではバイアスと視線距離、C_rと速度成分に強い相関が出るはず)

A.5 課題4 — 共分散解析と運用判断(第4.6章・第5部)

  1. 観測を取らずに共分散だけ30日回し(第4.6章)、 「ΔDORを週1回足す」効果を横方向の誤差で比較せよ(ΔDOR:σ=2 nrad、直交2成分)
  2. C_rをconsider(σ=0.1固定)にした場合と推定した場合のP_cを比較せよ
  3. 解のエポックから14日先へ予測し、誤差楕円の伸び(沿道方向 — 第1.1章)を図示せよ。 この予報の「賞味期限」(位置誤差100 km到達日)を宣言せよ(第5.4章)
  4. 10日目に1 m/sのTCM(実行誤差2% — 第5.2章)を挿入した場合の、 跨ぎ推定と分割推定の解を比較せよ

A.6 自己採点の観点

関門合格の目安
力学の検算往復積分の閉じ誤差が観測精度の1桁下(第1.2章)
H行列の検算数値微分と3桁一致(第2.7章)— これを飛ばした実装はほぼ必ずどこかで嘘をつく
推定の健全性真値との差が形式σの2〜3倍以内・残差RMSが申告σと整合
相関の解釈高相関ペアに物理の説明が付けられる(第4.8章)
運用判断賞味期限・ΔDOR投資効果を「数字で」言える(第5.1章・第5.4章)

この演習を一周した読者は、規模こそ小さいが本物と同じ構造の軌道決定システムを持っている。 現実との残りの距離は、モデルの項数と較正の深さ(第3部)と運用の規律(第4.9章・第5部) — 方向はすべて本書に書いた。あとは実データが先生である。

腕試しの拡張:JPL Horizonsから実際の惑星位置(第1.4章)を取り、 第三体を実暦にする/SPICEを導入してSPK出力(第5.4章)まで作る — どちらも公開ツールだけで到達できる。

付録B用語集

本書で使う用語の実務的な要約。日英併記。姉妹書の用語集(『宇宙通信』『地上局工学』 『周波数管理と国際調整』付録B)と分担し、本表は力学・観測・推定・運用の用語を受け持つ。

B.1 力学・座標・時刻

用語英語要約
状態ベクトルstate vector位置3+速度3。軌道決定の推定対象(第1.1章)
軌道要素orbital elements同じ6情報の可読表現。推定は直交座標で(第1.1章)
RTNradial / transverse / normal誤差・摂動を語る機体随伴座標。T方向誤差は成長する(第1.1章)
状態遷移行列STM, Φ初期状態の変化を後の状態へ写す行列。変分方程式で積分(第1.2章)
SRPsolar radiation pressure太陽輻射圧。非重力力の主役。箱翼モデルで扱う(第1.5章)
QSOquasi-satellite orbit準衛星軌道。共回転系で天体を回って見える並走軌道(第1.6章・第6.2章)
DE暦JPL Development Ephemeris惑星暦の事実上の標準(DE440等)。引数はTDB(第1.4章)
SPICE / SPK暦・軌道・時刻・座標系の配布ツールキットと軌道カーネル(第1.4章)
ICRF / ITRF天球/地球基準系の実現。EOP(UT1・極運動)が両者を結ぶ(第2.6章)
TT / TDB地球時(TAI+32.184 s)/太陽系力学時(暦の引数)。差は年周1.7 ms(第3.5章)
SCLKspacecraft clock機上時計カウンタ。時刻相関で地上時系と結ぶ(第3.5章)
アラン偏差Allan deviation時計の安定度の標準指標。メーザ10⁻¹⁵級が2-wayの床(第3.5章)

B.2 観測量

用語英語要約
光行時間方程式light-time equation送信・反射・受信時刻を結ぶ陰方程式。反復で解く(第2.2章)
RARRrange and range-rateレンジ+ドップラの定常追跡の総称(第5.1章)
2-way / 3-way送受同一局/別局。3-wayは局間バイアスが載る(第5.6章)
ターンアラウンド比turnaround ratioコヒーレント折返しの周波数比(880/749等)。位相基準を地上に置く仕掛け(第2.3章)
ΔDORdelta differential one-way rangingクェーサー差分VLBIで横方向を測る。数nrad(第2.4章)
DORトーンDOR tonesΔDOR用に探査機が立てる側波帯(第2.4章)
OpNavoptical navigation光学航法。天体相対の角度観測(第2.5章)
O−C(残差)observed minus computed観測−モデル計算値。読む対象(第2.1章・第4.9章)
TECtotal electron content視線上の全電子数。プラズマ遅延は40.3·TEC/f²(第3.2章)
SEP角Sun-Earth-probe angle太陽離角。合運用の物差し(第3.3章・第6.4章)
Shapiro遅延Shapiro delay重力による光行時間の延び。往復10 km級(第3.4章)

B.3 推定

用語英語要約
バッチ推定/微分補正batch / differential correctionアーク一括の重みつき最小二乗+反復再線形化。実務の主力(第4.2章)
情報行列information matrix, HᵀWH観測情報の総和。逆が共分散、ランクが可観測性(第4.2章・第4.8章)
プロセス雑音 Qprocess noiseモデル誤差の申告=忘却の機能。フィルタの存在理由(第4.3章)
SNC / DMCstate noise compensation / dynamic model compensation未知加速度を白色/ガウスマルコフ過程として吸う二段(第4.7章)
RTS平滑化Rauch-Tung-Striebel smoother後の観測で前の推定を補正する後ろ向き漸化(第4.5章)
consider parameter推定せず不確かさだけ共分散に効かせる量。P_c = P̂+SC_pSᵀ(第4.6章)
CRBCramér-Rao bound不偏推定の共分散下限=形式共分散の理論的意味(第4.8章)
イノベーションinnovationフィルタの予測残差。健全性監視の主対象(第4.3章・第4.9章)
データアークdata arc一つの解に使う観測区間。長さは統計とモデル誤差の均衡で決める(第4.5章)

B.4 運用

用語英語要約
B平面B-plane接近漸近線に垂直な照準面。(B·T, B·R)で到達点を語る(第5.3章)
TCMtrajectory correction maneuver軌道修正。統計的に有意なずれにのみ打つ(第5.3章)
実行誤差(Gates型)execution errorΔVの比例+固定・軸別の誤差モデル。再構築統計で更新(第5.2章)
TDM / OEMCCSDSの追跡データ/軌道データ標準形式。メタデータが命(第5.5章)
RUrange unit測距の歴史的単位。換算係数の確認必須(第5.5章)
ゼロ距離較正zero-delay calibration既知経路の折返しで局遅延を測る。パス前後に毎回(第5.6章)
掃引捕捉frequency sweep acquisition予測不確かさぶん周波数を掃いてロックさせる。幅は共分散から(第5.4章)
XNAVX-ray pulsar navigationパルサー時刻で絶対測位。km級・独立性の保険(第5.7章)
電波掩蔽radio occultation天体縁のリンク変化から大気を測る電波科学(第6.5章)
正確な定義は各章と一次資料(付録C)で。 通信・変調系の用語は『宇宙通信』付録B、局設備は『地上局工学』付録B、規制は『周波数管理と国際調整』付録Bが受け持つ。

付録C参考文献 — 深く知るための地図

本書は実装と判断に重心を置いた。導出の厳密さ・網羅性はここに挙げる文献が担う。 ほぼすべて公開・無償で入手できる — 深宇宙航法は例外的にオープンな分野である。

C.1 決定版の教科書・定式化文書

文献何の決定版か
Moyer, "Formulation for Observed and Computed Values of Deep Space Network Data Types"(JPL、公開)観測モデルの事実上の仕様書:光行時間・相対論・偏微分の完全な定式化(第2〜3部の親)
Tapley, Schutz & Born, "Statistical Orbit Determination"推定理論(第4部)の標準教科書:バッチ・フィルタ・consider
Bierman, "Factorization Methods for Discrete Sequential Estimation"SRIF・UDU等、推定の数値実装(第4.2〜4.3章の数値の作法)
Vallado, "Fundamentals of Astrodynamics and Applications"軌道力学の実装百科(第1部の各種変換・積分)
JPL DESCANSOシリーズ(公開)深宇宙通信・航法のモノグラフ群。Radiometric Tracking巻・各ミッション航法巻が本書全体の実務的裏付け

C.2 公開データ・ツール・規約(実装に直結)

資源提供元本書の該当
DE440/441惑星暦・SPICEツールキット・各種カーネルJPL/NAIF(公開)第1.4章・第5.4章
Horizonsシステム(暦のWeb/API)JPL(公開)第1.4章・付録A
重力場モデル(EGM2008・GRGM・火星各モデル)各機関の公開アーカイブ第1.3章
ICRF3・ITRF2020・EOP・IERS規約・SOFAライブラリIERS/IAU(公開)第2.6章・第3.5章
VMF/GPT対流圏製品・IGS電離層マップ(GIM)測地コミュニティ(公開)第3.1〜3.2章
CCSDS勧告:TDM(503)・OEM(502)・Navigation系CCSDS(公開)第5.5章
DSN 810-005(Telecommunications Link Design Handbook)JPL(公開)観測精度・較正・周波数の一次情報(第2〜3部・第5.6章)
GMAT(NASA公開のミッション解析ツール)NASA(オープンソース)付録Aの発展・第5.8章の代替

C.3 事例研究の一次資料(第6部)

事例資料
はやぶさ2(第6.1章)JAXA/ISAS公開資料・プロジェクトサイト、Earth, Planets and Space誌の特集論文群(オープンアクセス)、ISASニュース・特集連載
MMX(第6.2章)MMX公式サイト、公開システム記述書(MMX-SysDD 2017 — NASA側公募サイトで公開)、ISAS特集連載「MMXはフォボスを目指す!」(軌道計画・軌道決定の回)。出典表は『宇宙機システムズエンジニアリング』別冊MMXが詳しい
みお/BepiColombo(第6.3章)JAXA/ISAS・ESAの公開資料。MESSENGERの重力場・暦・相対論成果は公開論文
相対論検証(第3.4章・第6.5章)カッシーニγ測定(Bertotti et al., Nature 2003)ほか公開文献
自律航法(第5.7章)NASA NICER/SEXTANT・DSAC の公開発表
パイオニア・アノマリー(第1.5章)熱起源を示した再解析の公開論文(2010年代)

C.4 読み進め方の提案

  1. 実装しながら読む人:付録A → Moyer(式の答え合わせ)→ Tapley/Schutz/Born(第4部の厳密化)
  2. 運用に入る人:DESCANSO Radiometric Tracking巻 → DSN 810-005 → CCSDS Navigation系
  3. 科学へ進む人:第6.5章の各成果の原論文 → 対象分野(重力科学・掩蔽・相対論)のレビュー
URL は変わるため文献名+提供元で引けるようにした。 版の管理(暦・規約・カーネル — 第1.4章の4点セット)を忘れずに。 本書の各章末「note」に書いた個別の参照も、この地図から辿れる。
■ 姉妹書

本書は、深宇宙探査の通信・航法を扱う教科書群の一冊である。重複を避けて書き分けているので、 隣の巻と行き来しながら読むことを想定している。

本書の数値は設計初期の目安である。実設計・実手続では対象ミッションの正式諸元と、 CCSDS / ITU-R / JERG / 電波法関係法令の原文書に必ず拠ること。